Author: 道路交通問題研究会, All Rights Reserved
Date : 2006年2月2日 (作成)


道路交通問題研究会編

道路交通政策史概観

論述編

第3編 混沌よりモータリゼーションの時代への変転期 昭和30年〜昭和45年(1955〜1970)

第3章 道 路 − 問題と対策 −


道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代への変転期> 第3章 道路 −問題と対策−> 第1節 道路についての思想(考え方)の変遷

第3章 道 路 − 問題と対策 −

道路行政の観点からは、道路のすべての分野にわたって論ずべき問題や対策は多い。この論稿においては、専らそれらの中の交通の場としての道路ということに局限して、この時期におけるその実情と対策を叙述することとする。

第1節 道路についての思想(考え方)の変遷
 

 道路というものを考えてみると、自然発生的なものと有意的目的的なものとがあるように思われる。人間の生活がある限り、そこには自ら交通のための“みち”ができる。居住地域にできる生活道路であり、農耕作業のための農道であり、さらに山に入り森に入るための林道である。何れも、それぞれの生活の中から自然に生まれ、形作られた道路である。
 他方、国家体制ができ上がり、政治・経済・文化が進展すると、それに伴って目的的に道路が造成されて行く。
 この有意的目的的に作られた道路の造り方、利用のし方を観ることによって、その時代の道路についての思想(考え方)というものを感じる。古い時代のことであるが、東京都内にある「鎌倉街道」という道路標識を見ると、関東地方の武士たちが“いざ鎌倉”と源頼朝の開いた鎌倉幕府へかけつけたその時代が思われ、そして、鎌倉へ通ずる“往来”としての道路の性格を考えさせられる。徳川時代に造成され、また強化された道路には、徳川幕藩体制下の道路の思想を感ずる。道路には思想がある。そしてその思想には推移変遷がある。
 ここでは大正8年に制定された道路法による道路以後、昭和40年頃までの道路の思想とその変遷について述べよう。

1 大正8年に、はじめて道路法が制定されたが、それまでには長い年月にわたって、道路についての政治的な議論が行われたようである。国の行政目的や、地域の住民の利害得失などいろいろな条件が錯雑に絡み合って、容易に法律として纏めることができなかったのである。
 制定された道路法によって、この時代における道路の思想を引出してみると、道路は国家の保有する営造物であるということと、国道はじめ主要道路の路線の認定は国家目的という色合いが極めて強いということである。
 道路の種類を分けて、国道、府県道、市道、町村道と定められているが、この記載の順位が同時に、道路の等級の順位であると定めている。路線の認定については、国道は東京市を基点として神宮、府県庁所在地、師団司令部所在地、鎮守府所在地又は枢要の開港に達する路線、このほか、主として軍事の目的を有する路線と定めた。ここでも国家目的に利用される道路という考え方が強く滲み出ている。認定された道路の形から見ると、国道は東京を基点とする放射道路であり、府県道は府県庁所在地を基点とする府県内の放射道路である。
 道路である限り、その目的が何であっても自由に利用することは当然のことであるが、なおかつ、道路の路線認定の態容から見ると、地域住民の生活の利便とか経済活動の利便のためというよりは、公的又は行政的な目的のためということが優先して考えられているといえるようである。道路の認定、管理等について、道路が中央又は地方の政争の具になったことが、古い記録に記載されているが、これもまた道路を考える上での一つの断面である。

2 昭和20年8月、わが国の行政は、占領軍の支配下に置かれることになった。占領早々、道路の清掃、修繕を早急に実施すること、及び道路標識の設置することについての指令が出され、その後においても、占領軍から相次いで道路の修繕等についての指令指示がだされた。当時のわが国の道路の実情は、戦争末期においては殆ど道路の改善改良などができなかったのみならず、相次ぐ各地の空襲災害によって、道路の路面の荒廃が著しく、また道路そのものが使用不能の状態になっているところも少なくなかった。占領軍としては、自らの行動にも多大の支障を生ずるところから、早急な改善対策を求めてきたのもまたやむを得なかった。
  昭和23年、占領軍司令部より、日本政府に対し“道路の維持修繕についての5ヶ年計画を樹立”して、占領軍司令部に提出すべき旨の覚書が発せられた。その費用は、対日援助資金によることになっており、当時においては大規模な工事計画であった。しかし、その内容を見ると、工事の種類は、維持、修復、改良、新設となっており、殆どは、現存道路を対象とする維持修繕工事である。(資料編第3−4)   占領期間中(昭和20年8月〜昭和27年4月)の道路行政は「現存の道路を修繕し、維持する」ことを政策の基本として行われている。しかし、その政策の根底には「道路は住民の生活の利便のため、経済活動のため、社会公共の福祉の増進を図るために利用されるもの」という考え方が根ざしており、旧道路法の思想からは大きく転換している。

3 昭和27年、道路法を全面的に改正して、新しい道路法が制定された。昭和23年新憲法の制定により、わが国の行政法令は殆ど全部改正するか又は廃止されており、道路法もまた、それに応じて当然改正する必要があった。 ところが道路については、その思想、考え方が大幅に改変しており、その改変された理念に基づいて道路法の改正を行うためには、政治的にも、行政的にも、クリアしなければならないむずかしい多くの問題があった。さらに、地方制度の根本的改革により、道路の管轄、管理権等について、国と地方自治体に区分する必要があること、道路体系を従来の放射状型から道路網型に改変すること、既存の主要道路の大改良を行うとともに高規格の道路を新設すること、そして、それらに要する費用を支弁するための財政対策を如何にするか、等々が対処し処置しなければならない問題であった。これらの問題を行政的に処理して、法案に纏めることには多くの困難を伴うことが予想されたが、結果的には議員立法という形で法案が作成された。新しく制定された道路法は、旧法と比較して、道路にかかる思想を大転換させている。
  それらを具体的に例示すると次のようなことである。
  旧法における国家本位、中央集権的な考え方を改め、国道は国の営造物とし、都道府県道以下の道路はそれぞれ地方公共団体の営造物とし、国道の路線のあり方を、中央集権的色彩の強い東京を基点とする放射状型から、幹線道路網の形成を図る形に改めた。このことについて、当時の主務者は「国道は個々に集められて集合体を作るというものではなく、それは、有機的な幹線網の中の枢要部分である」と述べ、さらに「旧法の“個から全体へ”という考え方を“全体から個へ”という考え方に転換させた」と述べている。
  新しい道路法の特別法として道路整備特別措置法が昭和27年5月に成立している。この法律は、はじめて道路の有料制を定めたものであり、今後の高速道路等の高規格道路の新設に途を拓いたものであり、従来の道路の考え方を大幅に転換させたというべきであろう。もともと道路には“無料公開の原則”がある。道路は公共施設として、国や地方が税収入の一部で建設し、管理し、一般利用者には無料で提供されるべきものであるということが、わが国の道路行政の一貫した考え方であった。
  この法律の制定により、道路に係る有料制度が確立し、この制度の下で、戸塚道路(ワンマン道路といわれたもの)京葉道路、関門トンネルなどが建設された。昭和31年、道路公団の発足とあわせて、新たに道路整備特別措置法が制定され、この法の下で、有料道路制度は大きく飛躍し、また、有料道路の理念も定着することになった。
              

4 以上、道路の思想の変遷について述べて来たが、このことに関連して、昭和32年、日本道路協会創立10周年に際して、同協会の会長が「今までの10年間はわが国の道路にとりまして、画期的な革命が行われたものと思うのであります」と挨拶している。また、有料道路制度に関連して、道路行政に関係の深い経済専門家が「道路事業はいくらやっても、生産過剰になることはない。道路の改良は輸送効率を高め、資本の回転を速め、その結果、経済的利益は莫大なものになる」と意見を表明している。 この意見表明に応じて、道路行政主務者の一人は「道路に関して、このような経済効果は、今まで見落とされていた。それは、まさに道路経済上の盲点であった」と述べている。これらの意見の表明からも明らかなように、戦後10年そこそこの間に道路についての思想、考え方は大転換したのである。

5 自動車の運行が、頻繁になるにしたがって、道路についての交通の安全と危険防止を図り交通事故の生起を防止するための対応が強く求められるようになった。ところが、道路の基本法である道路法は、その法律の目的として「道路網の整備を図る」ことを掲げ、その中味として「路線の指定及び認定、管理、構造保全、費用の負担区分等」を定めているが、この文言の中からは前述したような交通事故防止等についての考え方は、読み取れない。しかし、道路交通の現実に対応するためには、道路の整備の中で、道路交通の安全と円滑を図ることの必要の大きいことを考え、道路の計画的整備とそのための特定財源の制度を定めた昭和28年の道路整備費の財源等に関する臨時措置法、及びこの法律を廃止して昭和33年3月に制定された道路整備緊急措置法においては、その法の目的の中に「道路を緊急かつ計画的に整備することにより、道路交通の安全の確保とその円滑化を図るとともに」と定めて、道路の整備の中の交通事故防止対策の意義を明らかにしている。昭和29年5月に第1次道路整備5ヶ年計画を決定し、以後、連続して5ヶ年計画を決定しているが、明確にその計画の目標として、道路交通の安全と交通事故防止を掲げたのは昭和43年の第5次五ヶ年計画からである。「将来の道路輸送需要の増大に対処するための輸送能力の画期的拡大ならびに交通難及び交通事故の解消を図り云々」と掲記している。
  この第5次計画が、交通事故防止をその内容として明らかに定めたのは、昭和41年4月に交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法が制定され、この法律に基づいて交通安全施設等整備事業三ヶ年計画を内閣で決定し、政府が積極的に、道路交通の事故防止と安全確保についてその政策を明らかにしたことに関連しているものと考える。因みに、第5次計画において、はじめて交通安全対策事業として1,000億円余を計上している。
  第5次整備計画の決定を期として、道路法の道路網の整備の考え方の中に、道路交通の安全、交通事故の防止という思想が明確にその地位を得たということができ、それ以後の道路整備計画において、そのことが政策目標として、さらに明確に述べられるようになった。


道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代への変転期> 第3章 道路 −問題と対策−> 第2節 道路の実態と問題

第2節 道路の実態と問題

1 戦前のわが国の道路体系は、主要幹線道路を除いては、近代的な自動車の交通に対応できるようなものではなかった。その上に、そのような道路が戦争災害を受けて破壊されたのであるから、戦後の道路事情はまさに劣悪というべきものであった。占領下において、占領軍の指示及び支援により、道路の修繕、部分的な改良が行われたが、基本的には、自動車交通に対応できるような条件は極めて不十分であった。昭和33年初頭作成された警察庁の文書によってその実情を述べることにする。

2 道路の総延長の中、市町村道の80%、国道及び都道府県道の10%が、自動車交通不能という状態である。 次は道路の幅員である。少なくとも自動車がすれ違って通行できる幅は5.5メートル以上である。その5.5メートル以上の道路は総延長の16%に過ぎない。ところが現実は、5.5メートル以下の狭い道路を自動車が頻繁に通行している。交通不安全、交通事故生起の危険性は極めて大きいことは当然である。
  道路は歩行者と自動車等車両の両者が共に通行する場である。しかし、歩行者のための歩道の設置は、大都市の限られた道路、中都市の都心の一部に限られている。道路を横断するための施設は全くなく、横断歩道の指定もない。歩道と車道の分離は、近代的道路の必然の条件である。
  自動車の安全な通行のためには、道路の舗装は必要不可欠の条件である。穴ぼこ、水溜り、土煙りはすべて舗装のない道路に起こる悪条件である。その舗装が施されている道路は、重要な国道及び都道府県道の総延長の僅か6.8%である。しかも、その舗装の40%は簡易舗装で耐久力を欠いている。

3 わが国の都市構造は、自動車等車両の交通を考えて計画的に構成されたものは殆んどなく、都市の形は大小様々の道路が無計画に交差し、その交差箇所即ち交差点が無数に存する状態である。
  古い時代に計画的に造成された都市の代表というべき京都市は、まさに“碁盤の目”の“まち”である。徒歩とかごと牛車の通行を前提に計画された都市である。現在では、碁盤の目は、すべて交差点の連続である。   交差点の形状がせまく、不整形であるため、交通量の頻繁なところでは、交差点は交通事故と渋滞の原因の場所となる。昭和30年代の各年の統計を調べて見ると、都市部においては、全事故の65%が交差点で起こっている。わが国の道路条件は、そのような交差点が数限りなく存するということである。

4 橋梁は道路の一部を構成している。その橋梁は国道及び都道府県道の中に12万5,164ヶ存在している。この中 の43%が木橋である。その木橋のうち、8%は自動車の通行は不能である。
  さらに、残りの40%は、2〜6トンの荷重制限が行われている。そのような悪条件の橋梁を自動車が通行する。荷重制限2トンの橋梁を10トンの貨物自動車が通行している例も決して少なくない。橋梁の状態が交通事故及び渋滞の直接、間接の原因になっている。

5 道路の円滑な使用を大きく妨げているものに、道路上の工事と道路上の駐車がある。二つとも解決の極めて困難な問題である。道路上の工事は、とくに大都市及び中都市の一部地域に多い。その道路工事は、ガス、水道等の管を埋設するための道路の掘さく工事、電柱の設置の工事等が主なものであるが、都市化現象の拡大に伴って、それらが繰り返して行われることも多く、昭和32年の東京都内で、警視庁に届出られたもののみでも年間7万5,000件に上っており、昭和37年には、15万件を超える状態である。
  自動車の駐車に係る問題はわが国だけでなく、欧米の自動車交通先進国でも深刻な道路交通上の難問題となっている。自動車が通行する限り、駐車、停車は必然的に伴うことである。厳しい駐車禁止等の制限措置をとっても、なお違法な駐車は増加する一方である。昭和35年前後の統計では、警察による違法駐車の取締件数は100万件を超え200万件近くにもなっている。この数字は取締によって何らかの措置が行われた数字であり、現実に違法に駐車している状態は、さらにこれを上回る数字となるであろう。

6 道路の利用ということで、昭和30年代前半で大きな問題になったものに路面電車の問題がある。昭和34年に発表された論稿の一部を要約して引用し、その当時における関係者の考え方を紹介する。
  「わが国の都市交通の中で、大量輸送機関として路面電車の果している役割は極めて大きい。しかし、自動車交通が頻繁になるに及んで、その撤去が論議されるようになった。自動車が電車の地位にとってかわりつつあるという認識にもとづくものである。もとより反対論も強い。撤去の理由として論ぜられているのは次のような事情である。
(ア)自動車の通行路面の制約である。路面電車の軌道敷は約6メートルである。東京銀座通りの幅員14メートルの中6メートルが自動車の通行できない部分となっている。
(イ) 停留場の設置は道路の中央である。道路の中央での客の乗降は交通安全上問題があるし、また、自動車の通行の面からは大きな障害である。
 [資料編 第2−13.14.15]

  以上は専ら自動車交通の立場から論ぜられているものであるが、一方では大量輸送機関である路面電車に代替するものを考えることが是非とも必要である。地下鉄、及び大型バス等である。
  その後、東京はじめ主要都市の路面電車は撤去されたが、これに代わる大量輸送機関としての地下鉄が伸長している。

7 鉄道及び軌道が道路と交差する踏切は、昭和33年現在では、全国で国有鉄道4万2,569ヶ所、私鉄2万9,962ヶ所存在している。この踏切の安全施設は、極めて不十分で、保安施設又は警手の配置等の全くないものが国鉄で3万7,487ヶ所、私鉄で2万4,772ヶ所となっており、全体で見れば85%以上が安全施設を全く欠くものであり、道路交通上は極めて危険な箇所である。これを道路の観点から見れば、とくに交通量の多い道路においては渋滞を生ずる道路のネックというべきものである。俗に“開かずの踏切”といわれるようなところは、長時間に亘る道路の閉止となる。(資料編第2−34、35)

8 占領直後、占領軍最高司令部より日本政府に対し、道路に関する指令が出されたが、その中に幹線道路に地名標識を設置すべき旨が求められていた。「日本政府は、一切の市町村の名称を、これらの都市を結ぶ幹線道路の入口の両側ならびに停車場歩廊に英字を以って掲げること」という指示である。占領軍の行政の便利のためであるかも知れないが、それとは別に、本来、近代交通においては、道路には案内標示その他、道路の交通及び利用についての標識は不可欠なものであったのであろう。占領軍司令部の指示に基づいて、約1万6,000本の標識が設置された。このような占領軍の指示は、道路行政の観点からは、道路が存するところ、道路標識は道路と一体的なものであるということを強く認識させられたものといえるようである。

9 道路の維持管理保全等の不備で、道路管理者がその責任を追及されるような事件は少ないが、間接的には、道路の損壊等を原因として起っている交通事故は交通事故の原因を厳密に分析した場合必ずしも少ないとは言えない。
  この期の間で、裁判事件になった例を3例あげておく。
(1) 昭和30年11月、大分県内の国道上において行われていた工事の土砂が堆積しており、それの崩壊を防止するため枕木を積んでいたが、画然と処置されていなかったため、通りかかった原付自転車の運転者が、枕木に衝突して死亡した。
(2) 昭和33年12月、仙台市内の市道を原付自転車を運転していた運転者が、道路中央部の円形の穴ぼこに乗り入れ死亡した。
(3) 昭和43年8月、岐阜県飛騨川沿いの国道を通行した観光バスが土砂崩れによって、飛騨川に転落し、104人の死者及び行方不明者を出した。
  以上の3例は何れも、道路の維持管理の責任について裁判で追求された事故例である。
  道路の維持、管理の瑕疵によって、交通事故が起り、その結果人的物的損害を生じた場合、一方において刑法上の責任、他方において国家賠償法による責任を問われることになる。この場合、その責任についてどのように考えられるべきか、現実的には仲々むずかしい問題である。昭和43年8月の岐阜県飛騨川転落事故の場合の道路管理者については刑法上の責任についても争われたが、この例のような異常降雨による自然災害的な道路の崩壊の責任をどう考えるかは、道路の設置、管理の上で根本的に検討を必要とするものであろう。昭和49年11月の控訴審判決は「予見可能性について蓋然性があれば足りる」としている。
  道路の総延長が増加し、自動車交通量が増加すると、道路の管理の責任を追及される事態も増加することが予想される。判例、学説等で争いがあるが、しかし通説としては、賠償責任については「必ずしも故意、過失を要件とせず、したがって、予算不足、人員不足等は免責理由にはならない」となっている。道路管理の上ではまことに厳しい条件であるが、また、やむを得ぬ必要な条件である。因みに、建設省が昭和50年に調査した昭和46、47、48の3ヶ年の道路管理瑕疵による事故の結果の概要を掲記しておく。
○ 道路管理者は、直轄、公団、地方公共団体、都道府県、指定市、市町村と区分されている。
○ 事故の処理区分は、3ヶ年、全国合計で、訴訟85件、示談1,554件、計1,639件である。
○ 事故の原因となったものを態容別に3ヶ年の全国合計を見ると次のようになる。
   穴ぼこ      321件
   段差       40件
   スリップ     47件
   道路崩壊      81件
   落石       564件
   工事不全      57件
   安全施設不備   104件
   脱橋        14件
   親柱衝突      3件
   道路崩壊      15件
   その他      383件
   合計      1,629件

10 主要道路の改良改善が進められる一方で、それらの道路と接続している小規模な道路が看過されている嫌いがある。例えば、大通りといわれる道路の裏通りである。この裏通りは、その地域の居住者にとっては大事な生活道路である。道路交通が頻繁になり輻輳して来ると、大通りから裏通りへ自動車が進入するようになる。道路条件が整備していない裏通りに交通事故が起こるようになる。このような事態に対して、都道府県公安委員会は、それぞれの実情に応じて交通規制を実施しているが、交通規制による措置には限界がある。路線を対象として改良を考えるほかに居住地域に存する道路と主要道路の有機的な関係を裏通り対策として考えるべきではないか。


道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代への変転期> 第3章 道路 −問題と対策−> 第3節 道路についての政策及び対策

第3節 道路についての政策及び対策
   

第1 基本的な政策
  昭和30年代前半に発表された道路政策の最も重要なポイントは
(ア) 道路の概念を明らかにし、道路網の整備の基本にかかる方策を明らかにしたこと。
(イ) 道路について有料制度を確立したこと。
(ウ) 道路に関する財源を特定して、経費支出の基礎を固めたこと。

  そして、この3つの政策を殆んど同時にスタートさせたことは、わが国の道路行政史上、画期的なものというべきである。この3つの政策はそれぞれ、道路法、道路整備特別措置法、道路整備緊急措置法(制定の当時は、道路整備費の財源等に関する臨時措置法という名称であった。)の3つの法律によって、その内容が定められた。
       これらの法律は、何れも、戦後わが国が占領下の状態を終わり、主権を回復した後、昭和30年前後数年の間に制定されたものである。当時の国情及び政情の下では、このような画期的な政策を立法化することは極めて困難であった。種々論議が重ねられたが、結果的には道路法は、昭和27年4月に衆議院において議員提出法案として提出され、同年6月に成立した。基本法的なものが政府提案でなく、議員提案で行われることはめずらしいことと当時言われたが、結果的には議論の焦点を政策の重点に絞って審議が行われ難問題を克服して、比較的短期間で成立することになった。道路整備特別措置法は、道路の有料制を設けて、これにより道路整備の促進を図ることを目的とするものであるが、本来、道路については無料公開の原則があり、これに対し有料制を政策内容とすることには多くの反対意見があった。しかし、強い政治的支援もあって、昭和27年6月、道路法の成立と時を同じくして成立した。その後、法体系を整備し、旧法を廃止して、昭和31年3月、新たに道路整備特別措置法が制定された。同じ時期に、有料道路建設及び管理等を行う道路公団が発足した。引き続いて、昭和34年に首都高速道路公団、同37年に阪神高速道路公団が発足した。   道路の整備について如何様に説をなし、図面を描いても、それを裏打ちする財源がなければ、実現の見込みは立たない。財源の確保ということは、道路関係者にとっては長年にわたる悲願であり、また、道路整備にとっては欠くことのできない必要な政策であった。そこでガソリン税を道路財源とする目的税的な特定財源制度を検討しはじめたところ、各方面からの反対意見が強く出され、国会内でも厳しい論議が行われた。この場合も、結果的には議員立法の形で法案が提案された。その内容の主なものは、「昭和29年度を初年度とする道路整備5ヶ年計画を樹立すること、政府は道路整備費の財源として揮発油税収入相当額を充当すること」等である。この法案は昭和28年7月に成立した。その後、法律の内容をさらに充実し、道路5ヶ年計画及び特定財源制度の根拠法として、新たに道路整備緊急措置法が制定され、同時に臨時措置法は廃止された。この法律により現在に至るまで、次数を重ねて5ヶ年計画を樹立して道路整備を実施している。

第2 道路整備5ヶ年計画
  道路整備緊急措置法に基づいて、道路整備5ヶ年計画を策定して、計画的に道路整備を実施することになった。昭和29年5月にはじめて第一次5ヶ年計画が閣議決定された。この第一次は前法である道路整備費の財源等に関する臨時措置法に基づいて決定されているが、以後の5ヶ年計画はすべて緊急措置法に基づくものである。
  第1次計画では道路整備の事業の量として、一級国道及び二級国道の道路の改築改善、橋梁の改築、舗装等が計画されているが、現状の改善改良が限度である。第2次計画(昭和34年2月)以後は、@道路整備の目標、A道路整備の事業の量、と二つに区分して内容を定め、その事業の量は、第2次及び第3次においては、一般道路と有料道路に分け、第4次(昭和40年1月)以後は高速自動車国道、一般道路、有料道路に区分し、本格的な道路整備計画の内容となっている。
  数次に及ぶ5ヶ年計画の内容を纏めて要約した資料(資料編 第3−6)によると、第1次計画から第4次計画(昭和29年から同40年)までは、国道の一次改築及び舗装延長、及び舗装延長を伸ばすことを最重点とする。
  高速自動車道及び都市高速道路は線的な整備を主要目標とする。第5次から第7次(昭42年〜昭52年)までは@国幹道7,600kmの予定路線の決定を契機に高速自動車国道は“網”としての整備の時代へ移行する。A道路の改良、舗装延長の延伸を重視することはつづく。B交通安全事業の開始(第1次安全施設事業3ヶ年計画(昭41〜昭43)の実施、環境問題の深刻化に対応。C第1次石油ショック(昭和48)に伴う投資の抑制により、事業量の実質的ダウン。
  以上は概ね、この期の間における5ヶ年計画(第1次より第5次まで)について述べたもので、本稿では、第6次以下の叙述は省略する。
  さて、そこでこの5ヶ年計画の実施によってどの程度の道路整備が行われたかについて、資料によって述べておこう。
  第4次計画の昭和41年の時点で見ると、一般国道の整備水準は道路改良率及び舗装率は70%程度まで進捗し、また交通上のあい路となっている地点で、バイパス建設等の二次改築工事が行われている。しかし、都道府県道及び市町村道については、なお、改良、舗装ともに不十分であり、主要都道府県道で舗装率36%、改良率54%である。その他の一般都道府県道は改良舗装ともに進捗せず、改良率27%舗装率は僅か16%である。市町村道に至っては改良率、舗装率ともに10%以下である。
  有料道路制度と特定財源制度のおかげで、昭和30年代においてわが国の道路整備は、大きく進展したけれども“近代国家では稀なほどに悪い”といわれた道路体系を改善して近代化を実現するには、なお長期の日時と多額の経費を必要とする。近代化に着手して10年を経過しても、わが国の道路網の整備は漸やくその緒についた段階というべきであろう。

  参考までに、更に10年後の昭和51年末の整備状況を掲記しておこう。
○ 道路の総延長については、高速道路は約2,000km(うち都市高速199km)、一般国道約3万9,000km、都道府県道約12万4,000km(うち主要地方道3万3,000km)市町村道約89万5,000kmである。
○ 道路の整備状況は、高速道路は改良率、舗装率100%、一般国道は舗装率86%、舗装率91%、都道府県道は、改良率58%舗装率73%、市町村道は、改良率21%舗装率26%となっている。この数字でも明らかなように市町村道は、その改良舗装ともになお大幅な立ち遅れが目立っている。
○ 改良済の道路のうち車道幅員13m以上は3.3%(総延長では0.8%)5.5m幅に満たないものは45%以上。
○ 未改良道路のうち、幅員3.5m以下のもの57万kmあり、その半数は自動車交通不能である。

第3 高速自動車道の建設

  近代的な道路網を形成するためには、一般国道の整備はもとよりのことであるが、国土を縦貫し、または横断する高速自動車道の整備が欠くことのできない条件である。有料道路制度が創設されたことによりその実現の可能性が大きく進展した。昭和32年4月「国土の普遍的な開発を行うため、全国的な高速自動車の開設」に関する諸事項を定める国土開発縦貫自動車建設法、及び「高速自動車国道の路線の指定整備計画等に関する事項」を定める高速自動車国道法がそれぞれ制定された。この法律により、昭和35年以後、東海道幹線自動車国道建設法ほか、各地域の高速自動車国道の建設法が制定され、その建設に着手した。
  大都市は、急速に自動車交通が頻繁となり、至るところで渋滞を生じて著しく自動車交通の円滑が阻害される事態が各所に発生し、さらに将来に向かって一層悪化することが予想された。これに対応する対策として都市内に自動車専用道を創設することが考えられ、昭和34年、道路法の一部を改正して、自動車専用道を創設することの途を開いた。まず、東京都及びその周辺地域を対象として首都高速道路を建設することにし、その業務を行うため昭和34年首都高速道路公団を設立し、次いで昭和37年阪神地区において阪神高速道路公団を設立し、阪神高速道路の創設の業務を行わせることにした。このようにして高速自動車国道と自動車専用道の建設構想が実現し、漸くわが国にも将来への道路近代化の展望が開けたといってよい状況になった。戦前ドイツ国のアウトバーン等を視察して、わが国においても高速自動車道の建設構想をもっていたが、戦争によってその実現の途を閉ざされていた道路関係者にとっては、漸くその思いが実現したというべきであろう。
  東京オリンピック大会の開催を直前にして、昭和37年12月、東京において首都高速道路の1号線が開通し、また、昭和38年7月、名神高速道路の栗東(滋賀県)〜尼崎(兵庫県)間の71kmの高速自動車国道が完成し、その供用を開始した。何れもわが国における自動車専用道の初の誕生である。

第4 道路の危険防止、事故防止対策
  昭和30年6月、政府において、交通事故防止対策要綱が制定されたが、その要綱の中に、道路行政上行うべき交通事故防止の対策が掲記されている。それによると、道路施設の整備として、@雑踏する交差点の改善と地下道の整備、A都市内の幹線道路について歩車道の分離、B自動車専用の高速道路の整備、C危険な場所における防護柵の設置、及び路肩の軟弱な箇所に危険標識の設置、D道路標識の整備、E学童生徒の登下校の安全のための施設の整備等が述べられ、また踏切関係について、@国道、都道府県道を交差する踏切施設の整備改善につとめること、A交通量の多い幹線道路と鉄道の交差するところは立体交差とするよう努めることが述べられている。
  この事故防止対策要綱は、当時の交通事情に対応して、関係行政省庁に当面必要な対策をとることを示したもので、交通事故の対策の総合的展開を要請しているものである。これらの施策の提示は、何れも早急に着手し、それぞれの施策が相応じて実施されることによって、総合的な成果が挙がることを期待しているものである。この要綱を受けて建設省は、かねてより検討していた対策を実施するため、必要なものについては、新しく法又は命令を制定して対処した。それらについて、年次を逐って説明する。

1 駐車場法、自動車の保管場所の確保等に関する法律
  路上駐車は、道路の機能を妨げるものである。しかし、道路はあらゆる交通するもののために造られているものである限り、駐車もまたその交通の一部であるといわなくてはならない。ところが交通量が増加し、交通が輻輳するようになると、駐車が道路交通を妨げるようになる。道路は場所によっては一車線が駐車のためにふさがれてしまう。このような事態に対処するためには警察によって駐車の禁止が行われることは当然あり得るが、道路管理の観点からもその対応措置をとることは至極当然のことである。その対策として、昭和32年5月に駐車場法が制定され、さらに、昭和37年6月自動車の保管場所の確保等に関する法律が制定された。何れも路上駐車を規制するための法律である。駐車場法は、「都市における自動車の駐車のための施設の整備を行って、道路交通の円滑化を図る」ことを目的としている。路外に駐車場を設置することと、道路上の一部を指定して駐車場とし、その場所での駐車に対し、料金を徴収することができるようにしていることが主な内容である。保管場所に関する法律は、「自動車の保有者に自動車の保管場所の確保を義務づけ、道路を自動車の保管場所として使用しないようにして、道路使用の適正化と道路交通の安全と円滑を図る」ことを目的としている。この法律は自動車保有者には厳しい義務を課しているものであり、この法律の目的の実効を揚げるためには、建設省、運輸省ならびに警察の各行政機関の密接な連携が是非とも必要である。

2 車両制限令
  すでに前述各ヶ所で、道路交通の問題点の一つとして道路容量と、自動車の重量車幅等とのアンバランスな状態を挙げている。たとえばせまい道路を大きな貨物自動車が当然の如く通行して、交通の危険を生じ、また、道路の損壊を招いている。これらの問題に対処するため、昭和36年7月、車両制限令が制定された。「道路の構造を保全し、又は交通の危険を防止するため道路との関係において必要な車両(自動車)についての制限」を行うため、その必要な要件を定めたものである。

3 共同溝整備特別措置法
  大都市の都心部では道路の掘り返しの繰り返しが日常化していたというのが、昭和35年頃からの実情であるが、この掘り返し工事による道路の機能低下と交通の円滑の阻害は甚だしいものがあり、そのことがまた交通事故の原因ともなっていた。その掘り返しは、道路の改善修繕の場合もあるが、大部分はガス及び水道の埋設管の埋め込み、電気工事等都市構造の近代化のための工事に伴うものである。事業者の都合で全く無計画に水道工事のため掘り返した同じ場所をガス工事のため再度掘り返すということが繰り返され、道路の阻害を一層大きくしていた。東京オリンピック大会を控えた昭和37年頃は年間を通じて、東京都内で15万余ヶ所の掘り返し等の工事が行われている。
  このような状態に対処するため、「地下埋設工事等による道路の掘り返し規制に関する緊急措置についての閣議了解」が昭和37年10月に行われた。この了解に基づき、翌年の38年4月に“共同溝の整備等に関する特別措置法”が制定された。

4 道路標識、区画線及び道路標示に関する命令
  近代的道路の概念の中には、その道路を通行し、利用するものにとって、現に通行している場所の状態、条件、その他知っておきたいことが沢山あり、それらを知ることができるということが含まれている。
  わが国でも戦前から道路標識に関する法令は存していたが、道路の条件及び道路交通の実情からその実施は十分とは言えなかった。終戦直後、占領軍から厳しい要請を受けて、とくに、案内標識を道路の各所に設置した。
  道路交通が頻繁になるにしたがって、一方で道路について案内、注意喚起、他方で道路交通について行われている諸々の交通規制の周知のため、道路の標識類を整備する必要性が大きくなった。昭和35年6月、道路交通法が制定された時点で、全面的に道路上の標識等の種別、標識等を再検討し、従来の道路標識令を廃止し、新たに総理府、建設省の共同省令として道路標識、区画線及び道路標示に関する命令を制定した。
その後、昭和38年3月及び同年12月に大改正を行ったが、特に高速道路の伸長に伴って、高速道路上の案内標識及び警戒標識の必要が大きくなり、その表現表示の様式について、先進諸国の例、アンケート調査、学者等有識者の意見等を参考にして現行令を大幅に改正した。[資料編第10−7]

第5 交通安全施設等整備事業緊急措置法

1 道路管理者の行う道路の整備という考え方の中には、道路上の交通事故防止ということについては、積極的な考えはなかったのではないか。終戦以来、先ず既存道路の修繕改良を早急に実施して、“通行できる道路”の条件を整えることが第一であり、次いで主要道路の改良、高速自動車道の創設という道路体系の近代化を図ることが重要かつ、緊急な事業であって、交通事故防止対策にまでは及び得なかったのであろう。
ところが、その整備充実して行く道路の上で、交通事故が年々増加し、死亡者及び負傷者が続出するようになると、道路管理者としても、道路の管理の観点から積極的な交通事故防止対策の必要性を痛感せざるを得ず、道路整備の方策の一環として、交通事故防止ということが、重要な地位を占めることになった。
  政府も昭和37年、総理府内に、交通基本問題調査会を設け、交通事故防止対策を含む陸上交通の総合的施策についての検討を求めるなど、交通事故防止についての強い意向を表明した。
  昭和39年3月、同調査会より総合施策について、詳細かつ根本的な意見と対策を内容とする答申が提出された。この答申の中においても、道路管理者の行うべき交通事故防止対策が具体的に示されている。
  昭和40年8月、政府は交通関係閣僚協議会を設けて、交通事故防止対策を検討し、昭和41年4月「交通安全施設等整備事業に関する臨時措置法(以下「交通安全事業法」という) が制定された。この法律の趣旨は、交通事故の多発している現状に対し、交通安全施設等の整備事業を国自らの責務において実施し、道路における交通環境を改善して、交通事故の防止に対処しようというところにある。このため、国が交通安全施設等の整備を行うべき道路を指定し、その事業を行う計画を策定し、かつ、それに要する費用は国が応分の負担をし、又は補助することを法の内容として定めている。

2  交通安全施設等整備事業三ヶ年計画 ― 昭41年7月閣議決定
  交通安全事業法に基づいて、その事業を実施するために整備事業三ヶ年計画を昭和41年7月閣議決定した。
  この三ヶ年計画は、昭和41年を基点として43年までの三ヶ年の計画であるが、その後「学童の通学路に係る交通安全施設等の整備及び踏切道の構造改良等に関する緊急措置法」に定められていた学童の通学路に関する事業を交通安全事業法の中に取り込み、第1次の三ヶ年計画を改訂して、あらためて昭和42年12月から三ヶ年の事業計画とした。その後第2次三ヶ年計画を経て、昭和46年からはじまる計画は5ヶ年とし、第1次5ヶ年計画とした。以後、次数を重ねて、現在に至っている。(資料編第10−2)
  ところで、交通安全施設について、整備事業を計画的に行い、その費用の支出額とその方法を決定するなどということは、従来殆んど考えられていなかったことであるだけに、この昭和41年に決定された第一次計画は、現在の眼を以って見れば規模も小さく、費用も小額であるが、道路交通及び道路管理行政という観点から見れば文字通り画期的な施策であるといわねばならない。よって、本稿については第一次計画(改訂第一次を含む)の概要(道路管理者の行なう事業のみ)を掲記して、その意義の大きい所以を後日のために明らかにしておく。
@ 目標。交通事故の防止を図り、あわせて交通の円滑化に資することを目的とし、とくに、歩行者の交通事故防止に重点をおく。
A 事業の内容。歩行者の交通事故を防止するための事業と、車両の交通事故を防止するための事業に分け、それぞれの事業を法の定めるところによって都道府県公安委員会の行うものと道路管理者の行うものを併せて決定している。その中で、道路管理者の行う事業について述べる。
  道路の改築的な性格を有するものとして、歩道、横断歩道橋、中央分離帯、緩速車道、バス停車帯等の設置、及び小規模交差点の改良等、道路の付属物の設置として道路照明、防護柵、道路標識、区画線、視線誘導標、反射鏡の設置となっている。
  整備事業を行う道路は48,167kmを指定し、3ヶ年間の総事業費は603億円(都道府県公安委員会分43億円、道路管理者分560億円)である。その後、第一次計画の改訂により、道路の指定を9,011km増加して57,178kmの指定道路となり、事業費も782億円となった。この計画は国の直轄事業か補助事業である。
B 第1次の事業であり、直ちにその成果を論ずることは無理であるが、しかし、この三年の間の施設の整備は急速に伸長し、次の計画に対する大きな刺激になった。事業の中では比較的完成の早い歩道の整備、横断歩道橋の設置、ガードレールの設置などが進捗し、道路交通環境はかなり改善された。

3 交通安全事業法の制定は、それまでの交通事故防止対策に対して、画期的な意義を有するものである。戦後20年の間、交通事故防止については、政府は屡次の対策を決定しているが、率直に言えば実質を伴わぬ“掛け声”的なものが多かった。したがって、交通事故防止は専ら警察の取締りに依存することになった。しかし、取締りによる交通事故防止には限界がある。交通事故の起るおそれのある道路交通環境の根本的改善があってはじめて交通取締りの効果も大きく発揮できるのである。交通安全事業法は、その意味で交通事故防止についての最も有効適切な施策であった。
  この法律の意味は、その規定されている内容にあることはもとよりであるが、同時にこの法律の施行に当たる建設省及び警察庁の両省庁の密接な連携を促したところにある。行政組織が縦割りになっていると、横の連携がうまく行かず、所謂“縦割り行政”の非難の因になるものである。道路交通に係る行政は、道路、自動車、取締り等の行政が複雑微妙にからみ合っているものであるだけに、相互間の連携、協力を密にしていなければならない。その意味で、この法律は、道路行政と交通警察行政を同じ土俵の上にあげ、同じ目標に向かって進ませるということにおいて、大きな効果を挙げているというべきである。
  昭和41年に、第一次交通安全事業三ヶ年計画が決定されて以後、10年の間の交通事故の推移を下欄に掲げるが、この統計にあらわれた数字を見ても、この法律の成果の大きかったことを知ることができる。


道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代への変転期> 第3章 道路交通の変化と発展


*資料編目次

URL=http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm