第1章 道路交通に対して提起された三つの提案  わが国の道路交通政策の実態は、終戦直後の収拾のつかないような状態から逐年、正常化への道の模索を真摯に進めてきたが、自動車による通行が多くなるにしたがって、道路その他の諸条件とのアンバランスが表面化して、交通事故の増加、交通の混乱、公害の発生等への対応を余儀なくされた。  かくて、その実態と問題点を明らかにして対策を強く求める三つの提案が行われた。何れも昭和30年から昭和33年初頭の頃のものであるが、これらの提案は、わが国の道路交通の歴史の中で、はじめて道路交通そのものの本質に触れて、その対策を求めたもので、その意味から、道路交通にかかる基本政策の先駆として高く評価すべきものである。  第1は昭和30年6月に決定された交通事故防止対策要綱、第2は昭和31年8月に提出されたワトキンス報告、第3は昭和33年1月に出された「道路交通における問題と対策」である。  これら3つの提案は、その目的も内容も異なるものではあるが、何れもその当時(昭和30年〜33年)の道路交通の実情を、それに対する対策とともに述べており、これによってこの頃における道路交通の実態を知ることができる。  以下、この章においては、その当時における道路交通の実情を理解する範囲でそれぞれの概要を紹介するにとどめ、後述する各記述の箇所で引用してその内容を述べることにしたい。 第1 交通事故防止対策要綱    (昭和30年6月29日) 1 昭和28年頃から交通事故が多発するようになり、昭和30年には事故件数93,981件、死亡者 6,379名、傷者76,501人を数えるに至った。政府としてはこのような“憂慮すべき現況にかんがみ、この際交通事故防止に関する諸施策に再検討を加え、関係行政機関の緊密な連絡を図り、諸施策を強力に進める”ことを目的として、昭和30年5月20日、内閣に交通事故防止対策本部を設置した。この対策本部において、内閣審議室を中心にして警察庁、建設省、運輸省等の各行政機関が連繋して、道路交通の実態を調査分析して、交通事故の防止の対策(案)を纏め対策本部で決定したものが、この対策要綱である。(資料編第1−1 参照)   終戦以来、占領下においては、専ら占領軍の指示命令によって措置がとられ、独立回復後は、道路交通に係る行政はいくつかの省庁に分割され、それぞれの展開する政策に調和を欠く憾みなしとしなかった。   しかるところ、交通事故の多発という状況に対応するため、政府各機関が緊密な連絡の下に一体となってその対策を推進することになったということは、道路交通という問題を、政府全体の重要課題として取り上げたということにおいて、極めて大きな意義があるといえよう。 2 対策要綱の内容を概観すると、大きく分けて交通取締り、交通安全教育、交通規制等警察行政の分野に属するもの、自動車事業監督の強化、自動車事業の労務管理の合理化、車両保安の向上等運輸行政に係るもの、交差点の改善、歩車道の分離、自動車専用の高速道路の整備等建設行政に係るもの等に分類整理されている。   この要綱の目標は、交通事故防止対策ということになっているが、要綱全体の構成は、この時期において考えられる道路交通全般について必要な対策の殆どを網羅しており、実体的には、道路交通についての総合対策と考えた方がよいように思われる。   この要綱に基づいて、関係各省庁は、それぞれの分野について対策を樹て、長期的なものについては法律を制定し、直ちに着手し得るものについては、行政措置を行い、当面している道路交通についての諸問題の改善、解決に向かってスタートした。 第2 ワトキンス報告       (昭和31年8月8日) 1 正確には「日本国政府建設省に対する名古屋・神戸高速道路調査報告書」という。   昭和31年5月、建設省は、名古屋・神戸間の高速道路の建設について、その経済的、技術的妥当性等について調査を依頼するためアメリカ国からワトキンス氏を団長とする調査団を招聘した。   爾来三ヶ月にわたって、精密な調査検討を行って、同年8月詳細な報告書が提出された。   その報告書は「調査結果と勧告」と題し、その内容は序文的な総括と7章に亘る詳細なものである。その中の一部として、当時のわが国の道路運輸政策について16項目の勧告を行っている。   その第1号の冒頭に「日本の道路は信じがたい程に悪い。工業国にして、これ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にはない。」と極めて厳しい見解を述べている。この文言は、平成13年の現在においても、ワトキンス報告の代表的なことばとして引用されることが多い。この文章に続いて「日本の1級国道―この国の最も重要な道路―の77%は舗装されていない。この道路の半分以上はかつて何らの改良も加えられていない。道路網の主要部分を形成する2級国道及び都道府県道は90〜96%が未舗装である。75%〜80%は未改良である。」と道路の不備な状況について建設省の提示した資料によって述べている。その次に「しかし、道路網の状態はこれらの統計の意味するものよりもっと悪い。」として調査団が調査した実状を厳しい表現で述べている。その中味として、「工事が悪く維持が不十分で悪天候のときは通行不能になる。」「昔の道路敷地をそのまま自動車交通に使用しているので路線は狭く危険である。」「自転車、馬車、荷牛馬車の混合交通で自動車交通が阻害されている。」等を指摘している。この指摘は、占領当初、占領軍当局が日本政府に対して指摘したものと殆ど同様である。   この報告の中で、第14号の記述として概要次のようなことが記述されている。  「自動車時代の恩恵を最大限に享受しようとするならば、交通及び運転状態にもっと力を入れねばならぬ。」として、次のことを提示している。 @ 不注意な運転、不適当な交通規制(通行の禁止制限の意味)交通規制に対する無関心(国民)放漫な強制(行政側)のため、自動車の通行が阻害されている。 A 政府は、運転者の訓練、安全教育、運転免許制度、交通取締りの改善、交通警察の活用、歩行者の保護、交通工学的解決による道路の効果的使用等々について考慮を払うこと。 B 以上述べたようなことについて、早急かつ果敢に解決するようにつとめなければ、日本は道路輸送が発達し続けるにつれて、ますます堪え難い交通状態になるであろう。   この記述は、交通警察の行政範囲に属するものが多いが、これらのことについては、その当時すでに日本側でも取り上げている問題であり、この報告の出る前々年発表している前述の交通事故防止対策要綱に殆ど全部記述しているものである。   報告の16号で「道路問題の諸目標を達成するには、理解ある世論が絶対に必要である。」と述べて、日本における道路の改良、建設等について、国民の関心を呼び起こすことが是非必要であることを勧告している。   この勧告は、おそらく調査団が調査の過程において、高速道路の新設のための土地の取得について土地所有者の反対、主要道路の拡幅等に対する立退き反対、道路の有料化への反対等があることを承知した結果、なされたものであろう。   さらに、「国民に対し、道路の改良等の必要性について連続的な啓発運動を行うならば、道路の近代化に対する反対の克服に大いに役立つであろう。」と述べてこの勧告を結んでいる。 2 報告は、このほか輸送需要及び効果という項目を設けて、主として物資輸送についての多角的な勧告を行っている。とくに、高速道路の利用効率が高いこと、有料であっても、その有料を上越す利益が得られることなどが述べられ、道路の有料化ということについての啓蒙的とも思われるような記述が行われている。 3 このワトキンス報告は、今、これを読めば、至極当たり前のことが述べられているように思われるが、この報告が出された昭和31年前後の日本の道路交通の実情と、政府各機関の道路交通に対する関心の度合いを考え合わせると、まことに適切、かつ厳しい勧告であったと言わなくてはならぬであろう。    繰り返して言えば、この報告の冒頭に記述された“日本の道路は信じ難い程に悪い、云々”という文章は、当時の日本政府の関係者にとっては痛い“頂門の一針”であったと思う。(資料編第3−13 参照) 第3 「道路交通における 問題と対策」    (昭和33年1月警察庁通達) 1 この通達は、昭和32年後半から検討してきたものを纏めて警察内部の執務参考資料として発出されたものである。   この通達が、どのような経緯で発出されたかについては、そのはしがきの記述によって明らかである。「交通事情は日に日に悪化している。その原因は種々あるが、いずれも今日のわが国の実情では容易に解決し得ないものばかりである。しかし、そうであるからといって放置して事故を益々増加させることは許されない。   そのためには、道路交通の実情を調べ、問題点を明らかにし、その対策に及ぶべきだが、それらのことの多くは警察の所管外のことであり、ひとり警察のみの問題ではない。しかし、現実を明らかにし、その施策を促すことをしない限り、何時までたっても交通事情の改善は期せられない。とすれば、道路交通の現場において、その実情を最もよく知る警察が、その知る限りにおいてそれを行うことは当然のことである。」(概略)と述べている。交通事故の多発に対して、何ともならぬという無力感と何とかしなくてはならぬという切羽詰まった焦りの入り交じった思いをこの叙述の中から感じとられる。 2 この通達作成については、建設省、運輸省等から統計及び資料の提供を受け、また、警視庁はじめ全国の道府県警察の第一線の報告を求め、これらを整理統合して纏めたものである。この通達に記述している内容は、@道路交通の実情、A問題となるものとして道路、交通環境、自動車、歩行者、交通施設、行政機関、交通警察等、B対策として以上の問題に対する対策の提示となっている。   その内容に記述されている諸点については、後の章節で屡々利用することになるので、総てはそれに譲ることにして、ここでは当時の道路交通の実情がこの通達おいて、如何様に述べられているかを述べるにとどめる。    3 交通事故について   当時の交通事故の概容について見ると、昭和31年において、122,691件事故が発生し、6,751人の死亡者、102,072人の負傷者、そして25億円と推定される物の損害を生じている。その事故件数は、昭和32年の統計では、昭和20年の約20倍に当たるとし、急激な増加傾向を指摘している。   交通事故の起こる状況について、次のように述べられている。   交通事故の当事者について見ると、事故の総件数の80%は自動車であり、次いで原付自転車、歩行者等の順になっている。交通事故の当事者の相互関係を見ると、自動車対歩行者、自動車対自転車の合計が全事故の半数を占めており、自動車による歩行者、自転車乗りに対する加害事故が特に目立っている。   つぎに、自動車による交通事故の原因は、運転者の無謀操縦(酒酔い、最高速度違反、構造装置不良車の運転、無資格運転等)の規定その他法令に違反する運転にあるとし、また、その他の原因に一つに、歩行者及び自転車乗りが法令を知らず又は法令を守ることをしないという不注意通行をあげている。 4 道路の状況について   当時の道路の状況について道路の幅員、歩車道の分離、舗装、交差点、橋梁等の不備、欠陥を指摘し、また、道路上の工事の多いことを述べている。これらに対する対策が遅れていることにより急速に増加している自動車等の交通量と道路の条件の間にアンバランスが生じ、それが原因となって、道路交通の上に大きな混乱をひき起こし、そのことが交通事故の直接又は間接の原因となっていることを述べている。 (1) 道路の幅員のせまいことについては、占領軍やワトキンス報告によりすでに、指摘されているところであるが、この当時の幅員について通達は「国及び都道府県道のうち、幅員5.5メートル(自動車が対行して一台宛が通行しうる幅)以上のものは、わずかに16%に過ぎない」とし、「ところが、今や大型のバスやトラックが都市、農村を問わず、そのような狭い道路を疾駆し、このことにより、交通事故が発生し、また、自動車が転落することも多い」と述べている。 (2) 歩車道の区分は、大都市の一部、中都市の中心部等のほんの一部に設けられているに過ぎず、歩行者は、自動車の交通量の増加と狭い道路故に自動車の接触、衝突に戦々兢々として歩いている有様である。先進国では、考えられない状況である。 (3) 舗装については、国及び都道府県道の主要道路でさえも僅かに7%弱の舗装であり、全く舗装のない都市の郊外、農村地域等では、道路の補修も十分にできないため、道路に凸凹を生じ、大穴があくなどで、降雨の場合はぬかるみとなり、泥土汚水をはね上げて、道路の両側の家屋に被害を与え、また通行している歩行者の着物に泥水をあびせるというような事態を引き起こしている。 (4) わが国の道路網の成り立ちの特色として、とくに都市においては、道路の交差するところが極めて多い。広い道路と狭い道路の交差など、大小さまざまの道路が短距離の間に多数交差している。道路上の交通量が増加するにしたがって、多種類の自動車、その他の車両、歩行者がその交差場所に集中する。この結果、交差点によっては、交差点の中で自動車がかみ合って立ち往生するようなことがしばしば生起している。このような状況に対し、その交通を整理し、規制するための対策が立ち遅れている。例えば、東京都において信号機の設置ヶ所は僅かに400交差点に過ぎない。同じ規模の都市ニューヨークでは1万ヶ所といわれている。 (5) 橋梁は道路の一部であるが、国及び都道府県内に架せられている橋は125,164ヶ所である。その43%が木橋で8%は通行不能、また通行可能でも2トン〜6トンの荷重制限を課しているものが40%もある。ところが、このような状態にある橋梁を10トン以上の大型車が危険を冒してひっきりなしに通行している。 (6) 道路上の工事が大きな問題である。この工事問題は、単にこの時期だけだけでなく、この後も長く続いている道路交通上の難題である。道路を修理するための工事は、当然必要なことであるが、それらを遙かに越えて繰り返し行われているのはガス、水道、地下埋設物修理などの掘り返しである。   これらの工事が、昭和32年東京都内だけで、警視庁に届け出られた件数は年間7万5千件になっている。もし、これらの掘り返しが、関係者の協議によって合理的に行われるならば、遙かにその数は減らすことができると考えられるが、当時の経済の発展、社会生活の近代化等のためには、やむを得なかったようである。これらの「所嫌わず、のべつまくなし」の工事による交通上の支障は甚だしく、このため徒らな交通渋滞を生じさせていた。 (7) 道路の不正使用及び自動車の駐車が当時、漸く問題となりはじめていた。道路上に物品を並べ、自転車や荷車を放置し、また、道路上で諸々の作業を行うなどという本来の道路機能を害する不正使用が行われていた。これらのことについては、本来警察取締りによって措置されるべきものであるが、実情は警察取締りの限界を越えていた。   自動車の駐車については、法律上、禁止制限の措置をとり得ることになっており、警視庁はじめ各道府県でそれぞれ措置をとっているが、それにもかかわらず当時においては、政策的に自動車の駐車についての方策を考えるという所までには至っていなかった。駐車場も整備されていなかったし、保有自動車の車庫規制も未だ行われていなかった。   昭和32年、東京都の都心部において調査したところでは、登録自動車の22%が放置の状態であった。その80%は自家用自動車であった。このような駐車が、道路上至るところで行われていたので、第一線の警察では、駐車禁止等の措置を執っているが、殆どの自動車が禁止違反を繰り返し、それらをすべて取り締まることは警察力の限界を越えていた。 (8) 騒音の問題である。街頭及び道路上における騒音が漸く社会問題になって来た。その騒音源は、自動車の警笛音、電車の軌道走行音、広告放送などが主であった。この中でとくに問題となったのは、自動車の警笛による騒音である。自動車は道路を通行する場合、警笛を鳴らすことが義務付けられている場合もあるが、現実には、自動車が通行するために歩行者又は他の通行者に対する“そこのけ”的な吹鳴で、これが濫用されていた。昭和32年頃、国会でも取り上げて論議された。 5 自動車について   通達は自動車の数量の増加の状況、自動車による交通の発展に伴って発生している問題等について実情を述べているが、本項ではそれらの中、とくにその頃に問題となったタクシー及び長距離の貨物輸送についてのみを記述するにとどめておく。なお、この二つのことについては、後述で詳細に解明することとする。   昭和32年末現在、わが国の自動車保有数は、各種とりまぜて、約200万台、原動機付自転車約91万台となっている。   昭和32年3月末現在の運転免許件数は、約390万件(人員では約300万人)となっている。これらの免許を得たものの中、ハイヤー、タクシーの運転に従事しているものは約8万人と推定される。当時、ハイヤー、タクシー用の自動車は約5万台である。運転免許を得ているものの大部分は、営業用・自家用の区別はあっても、実質的には、職業運転者であり、この時期においては、オーナードライバーは漸増の傾向はあるが、未だ少数であった。この時期、問題となりはじめたのは、タクシーによる事故の増加と長距離運行のトラックの事故である。   昭和32年の交通事故の中で、自動車台数との比率から見た場合、タクシーは1,000台当たり148件という数字を示し、これに対し自家用乗用車は29件となっており、タクシーによる事故比率が断然高いことが判る。このことについて、その原因を深く調べると、タクシーの走行の実態に問題があることが明らかになった。即ちタクシーの運転者には、営業上、1日 400キロメートルの稼働義務が課されており、その義務を果たすためには、多くの法令違反の運転を余儀なくされており、これらのことが交通事故を引き起こす原因となっている。   タクシーの場合と似たようなケースとして長距離トラックの運転者が挙げられる。トラック事故の中、長距離運送のトラックの事故が目立っており、これらを調べると、その運行について長距離を殆ど休憩休養の時間のないままに運転を強制されていることが明らかになった。このようなことから、これらタクシーや長距離運送のトラックの事故を防止する観点から運転者の給与の改善、業務遂行の合理化等を運送事業者に強く要望することにした。   この時期、神風タクシーとか長距離運送トラックということでマスコミでも問題になりはじめた。(「道路交通の問題と対策」については、資料編第1−2) まとめ   以上三つの文書について、それぞれの一部の概要を述べたが、そこに述べられているものは、昭和30年から32年(1955〜1957)の頃の、混沌からまだ脱し切っていない道路交通の実情であり、また、そのような実情に対する対策である。   したがって、提示されている諸々の対策は混沌とした道路交通の実情を当面改善するためのものであって、将来を展望してのヴィジョンを述べているというようなものではない。   提示されている対策は、その後関係行政省庁によって逐次実施に移され、混沌状態も徐々に改善されているが、対策によっては例えば道路の改善の措置などは、その効果を発揮するのはかなり後のことになり、当面の対策とはいいながら総合的な成果が出るのには長い時間の経過が必要である。   昭和35年頃になると、経済の高度成長と所得倍増というような政策が発表され、経済活動は急速に活発化した。それに応ずるように、人員の移動、物資の輸送が集中的継続的に頻繁となり、距離的・地域的に長大化・拡大化することになった。そして、それらの多くが自動車に依存して行われるようになった。同時に、市民生活の中にも、次第に自動車が浸透し、従来、乗用自動車については、大部分が営業用又は業務用であったが、オートバイが漸増して、自家用乗用車の数量も多くなってきた。   道路交通についての当面の措置と、自動車を主とする交通量の急激な増加との“ずれ”が、時の経過とともに顕著になり、交通混乱(一部における渋滞等)の発生、交通事故の増加、さらに交通公害の発生というような深刻な事態が表面化することになった。   このような深刻な道路交通の実態に対し、提示されている措置対策を一層効率的に実施することはもとより、さらに新たな道路交通の問題に対応するための政策が望まれるようになった。   それにしても、前述の三種の文書が発出されたことは、当時の道路交通の現状を明らかにし、およびそれに対する措置、対策を示して道路交通の改善を求めたものであり、その意義は極めて大きく、戦後の道路交通政策の歴史の上で一つの時期を画したものと言ってよいであろう。   このような提案のほか、昭和39年3月に「交通基本問題調査会の答申」という極めて内容の充実した文書が内閣総理大臣の諮問に答えるものとして提出されている。これについては別の章で詳しく述べることにする。