個人的な意思決定の特徴を浮き彫りにするために,個人的でない決定と対比させてみよう.まず集団による決定である.個人的な決定にしても,決して社会的真空の中で行なわれはしないので,他者の批判的な目や,自分の決定が他者に与える影響を考慮にいれる場合があるだろう.しかし決定の主体が集団であるということになると,いかにして全員を納得させる決定に到達できるか,公平な決め方とはどういうものかなど,この本では直接扱わないが,重要な問題がある(佐伯,1980; 亀田,1997).また,集団的決定とはややニュアンスのことなる,制度的とでもいうべき決定が考えられる.意思決定は一面では社会的制度である.私たちの社会には,会議における議決や,裁判のように,あるいは科学者のコミュニティにおける学説の採否の決定のように,一定の約束ごとのもとで行なわれる決定がある.これに対して,個人的な意思決定は,制度化されていない,あるいは制度の隙間をぬった創造的な決め方をさしているとも言える.
個人的な意思決定が時としてたいへん難しい営みであることはいうまでもない.
眼鏡をひとつ買うといった一見単純な場合をとってみても,あれだけ複雑な説明になったのである.眼鏡が自動車になり,住宅になり,さらにもっと大きな投資になれば,あるいは職業の選択のように,自分の一生を左右する重大な決定になれば,その難しさを認識することは比較的容易である.そこで,意思決定の行為を支援することを目的とした道具や(道具的な)行為が工夫されてきた.恣意的な決定を避けるためにさいころのような道具が発明され,情報の見落としがないようガイドブックやデータベースが発達し,合理的な意思決定をめざして規範的な意思決定の理論が,意思決定理論に信頼はおくが適用の知識をかく意思決定者のために職業的な意思決定分析アドバイザー(decision analysts) や意思決定支援システム(decision support systems)が生まれた.こうした意思決定過程を誘導し支援する道具を一般にデシジョン・エイド (decision aids)という.しかし,こうした支援のための行為も,その効果に応じてやがては制度化され,あるいは学習を通じて内面化されて,いつのまにか意思決定の行為そのものと区別がつきがたく一体化されてゆく.
まず紙の真中に縦の線を一本引く.この左側をPRO(賛成),右側をCON(反対)の領域とする.そして,ある施策に賛成する理由と反対する理由を,数日にわたりおりにふれてはそれぞれの見出しの下に記入していく.ひととおり出つくしたところで,今度は個々の理由の重みを考える.そして,例えばPROのひとつの項目とCONのひとつの項目,あるいは,PROの3つの項目とCONの2つの項目を相殺するなどしてゆくのである.やがて2,3日後にどちらの側にも変化がなくなったところで残った項目によって決定が下せる.
このPRO/CONの表は一種のデシジョン・エイドといってよい.意思決定者はこの表を使うことによって,政策に対する態度の決定という問題を,賛否の理由づけを比較考量する形式に構造化せざるをえなくなる.また理由づけにせよ,政策にせよ,これらを提出した人格から切り離されて,純粋に意見の単位というようなものになっている.表の形式をとることから後者の点が特に強調されるといってよいだろう.また「数日にわたり」記入せよ,「ひととおり出つくしたところで」次のステップに進めなど,表に付帯する使用法の教示から,衝動的な決定が効果的に排除される.
精神的代数を使った決定は今日の意思決定理論の主要な要素を含んでいる.それらは例えば,
フランクリンの精神的代数の私たちにとっての意義は,それが意思決定における道具の効果を示唆している点にある.もちろん意思決定にあたって外在的な道具を使ったのはフランクリンが最初だというわけではない.しかし彼の表は決定行為を改善するために意識的に考案されたデシジョン・エイドのプロトタイプとも呼ぶべきものであって,私たちの観点からは,この表とコンピュータを利用した複雑な意思決定の支援のためのシステムとの違いは程度の差に過ぎないのである.
御存知のように記憶術は記憶力を改善する方法である.その根拠が解明されるずっと以前から,記憶術は認知的技術として存在していた.というより,こうした技術の効果が知られていても,心理学者は比較的最近までそれを研究の視野にいれようとはしなかったのである.しかしその気になって見てみれば,多くの記憶術の記述には共通点があって,そのことが記憶術の効果の本当らしさを強めている.こうした技術の例には押韻 (rhyme)を使う方法,空間的な位置,あるいは場所(loci)に記憶するべき材料である言葉や数字を結びつける方法などがある.
ノーマンらは記憶術に共通する要素を記憶の認知心理学的な原理に結びつけ,後者を使ってなぜ記憶術に「効きめ」があるのかを説明している (Norman, 1976 第7章; Lindsay & Norman, 1977, pp.358-366).すなわち,これらの方法は記憶されるべき材料を組織的に整理する枠組みを提供する.新しく記憶されるべきものごとは,既に記憶されていることと意識的意図的に結びつけられる.そこで記銘に際してはなにがしかの努力が要求される.これらのコストをかけることによって,想起が容易になるのである,という.
ただ,あまり心理学にこだわると,次のような問題が見えにくくなってしまう.私たちが日常メモリー・エイド(記憶の助け)として使うのは,記憶術のような手続きの教示だけではなくて,指に結んだ糸とか,メモのような,いわば外部的なものも多くあるわけである.こうした外部的な道具の利用と記憶術の教示の利用とを統一的に説明することはできるのだろうか.買物のリストや「かならずやること」リスト ("do" list)に代表されるようなリストというものは,最も典型的なメモリー・エイドだが,こうした道具の質や限界の問題,副次的効果の問題は記憶術のそれと関連しているのだろうか.記憶術の効果を心理学的に説明するとき,その望ましくない副次効果については忘れ去られているのではないだろうか.たとえば,同じ記憶術を繰り返し使うことにより,想起に混乱が起きたりすることはないのか.憶えたことが間違っているとわかったとき,簡単に修正する方法はあるのか(メモなら破って捨てるだけだ).こうした利点も欠点も考え合わせたうえでのメモリー・エイドや記憶術の正当化はほとんど行われていないようである.
最も基本的な問題は,よい記憶,あるいは記憶の質的な改善の規準が明確でないことである.従って最も目につきやすい現象,たとえば記憶材料の正確な再生のみがとりあげられ,記憶術には効きめがある,ない,という議論になるのであろう.
私たちがデシジョン・エイドを考えるうえで,上のような記憶術の研究とその成果は,手ごろなモデルになるだけでなく,研究の盲点への警告も発してくれるのである.意思決定規則はなんらかの意味で望ましい決め方を体現している.その意味で意思決定を改善する方法でもある.規範的理論がその正当性を保証していなくても,限られた認知的資源の有効利用などから,なぜそれが望ましいのか説明できることもあるだろう.デシジョン・エイドは外部的な道具の利用を含んでいるが,その質や副作用は意思決定の規則のそれとどう関係しているのだろうか(Shafer & Tversky, 1985).決定の質的な改善の規準はどういうものだろうか.デシジョン・エイドがかえって害になるとすると,それはどういう場合であろうか.こうした問題についてはほとんど何も知られていないが,こうした問題の存在だけは記憶術の研究の例から予期することができる.
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