Author: Y. Kobashi
Date : 2000/04/13 (modified); 1996/05/07 (created)


小橋康章,「決定を支援する」,東京大学出版会,1988
第1章 「知」の働きとしての道具の使用

1.1 評判のいい眼鏡店の店先で


眼鏡というものは壊れやすいし,なくす心配もあって面倒なものだが,かとい ってそれを必要とする人には一日として欠くことのできないものである.いま 私達の主人公は既に眼鏡を掛けており,ひとつの眼鏡だけではいざというとき に心配なので,スペアを買いに眼鏡屋へ出かけたとする.専門店であるから相 当の数の眼鏡のフレームを備えているのはもちろんのこと,親切な店員が時間 を惜しまずに選択を手伝ってくれる.こんなときに,買い手の心の中では何が 起こるだろうか.

まずレンズの性質(色,度の強さ)とフレームのデザイン(材質,色,形状), 掛け心地,価格といったものが選択の規準になりうるであろう.しかしどん な人にもこれらの全てが考慮すべきポイントになるわけではない.眼鏡などと いうものは視力を補えばそれでよろしいというのもひとつの立派な見解である. デザインはもちろん,掛け心地にすら関心をもたない人がいても不思議ではな い.この場合はレンズの性質,それも度の強さだけが問題で,あとはできるだ け価格の低いものを選べばよいということになるだろう.すると,眼鏡の度の 強さはほぼ自由に調整できるから,視力の検査だけ厳密にすれば自動的に決定 が行なわれる.通常このような問題事態は決定問題とは呼ばない.

ところがまったく同じ場面が別の買い手には生活のスタイルの選択の問題で ある.特に普通の眼鏡をとるかコンタクトレンズをとるかでは顔の印象がかな り違ってくるし,目の健康への影響,取扱の手間などを考えると自動的に決ま るなどというものではない.選択の長期的な影響,副次効果など意思決定者, すなわち私たちの買い手が,現にもちあわせていない知識まで動員して選択の 影響のシナリオを描いてみる必要があるかも知れない.例えば,この眼鏡は重 すぎて長期的には肉体的な負担が大きいのではないか,デザインが大胆すぎて 仕事で会う相手に悪い印象を与えるのではないか.あるいは逆に,もう少し社 交的な印象を与えたいがどんなデザインがよいだろう.こうなると意思決定者 の生き方にも関わってくる問題であって,客観的に最適な決定とか,普遍的に 合理的な解を求めることにはあまり意味がない.

これらの問題事態の中間にデザインや掛け心地と価格を専ら考慮する,比較 的頻繁に行なわれていると思われるたぐいの決定問題がある.これについては 以下でもう少し詳しく検討してみたいが,ここまででも,買い手が眼鏡屋にや ってきてひとつの眼鏡を買って行くという,社会的には同一の過程も,決定事 態としては意思決定者の認知の働きによって,さまざまな表現が可能なことが わかる.これらさまざまな表現のうちどれが一般的に正しいとはいえないし, 経験によってある種の表現がより頻繁になって行くというものでもない.

さて,決定が主にデザインや掛け心地と価格に大きく依存するであろう場合, 意思決定者は眼鏡店の何百という在庫の中からひとつの眼鏡を選び出すことに なる.実はレンズの性質もその色や反射の具合い,重さなどによってデザイン や掛け心地に影響するのだが,若干の例外をのぞいてこれらはフレームのデザ インと独立に考えることができるので,一時考慮の外におくことにする.全て の在庫を端から,あるいはランダムに掛けてみて具合いを見ることは普通しな いだろう.それでは時間はかかるし,買い手も店員も疲れてしまう.また3番 目に試したモデルと57番目に試したモデルのそれぞれの望ましさの程度を記 憶しておいて優劣の判断を下すというようなことは人間の良くするところでは ない.

能率的な決定につながるシナリオのひとつは次のようなものである.まず普 通は評判のよい,かつは自分の予算にあっていると思われる店を選ぶ.そして できれば,現在使用中のモデルとまったく同じもの (現状維持status quo)を さがすのか,今までとは違うものを中心にさがすのかを決めてしまう.もちろ ん両方並行して行なってもよいのだが,現状維持のみを目的とするのであれば いま使っているものに一番似たのを探せばよいので探索はかなり簡単になる.

全てのデザインに優劣をつけるのが難しくても,明らかに考慮からはずして よいフレームが多数ある場合がある.そのひとつは,全てのプラスチック・フ レームを対象外とするというように,あるカテゴリーに含まれるもの全てを考 慮からはずしてしまうことであろう.また,ある価格以上のものは考慮にいれ ないというのもかなり現実的な方法であろう.もうひとつは,前の例のように まとめて除外してしまうわけにはいかないが,2つあるいはそれ以上のデザイ ンの間に,あきらかな選好順序がつく場合である.ひとつのデザインを頂点と した数個の,あきらかにそれに劣るデザインを,頂点に当たるひとつのデザイ ンで代表させることにするなら,従属するデザインは全て一応考慮の対象から はずすことができる.以後は代表であるデザインのみを考えればよい.

ある程度考慮の対象になる選択肢の数が絞られてくると,それらの選択肢は 互いにどのような点で違っているのかを考えることができるようになる.こう した特徴的な属性はあらかじめチェックリストのようなもので決めてしまうこ とはできない.選択肢を区別する属性は意思決定者の観点や目的,あるいは眼 鏡のデザインの場合なら個人的な美意識,はっきり言葉で表現しづらいフィー リングといったようなものや,考慮の対象としてたまたま残った選択肢のセッ トなどに依存するであろうと思われるからである.

ここで視点を少し動かして, よき意思決定支援者である親切な店員の行動に 目を向けてみよう.彼女はまず私たちの主人公に,お客様に満足していること が自分の喜びなのだというメッセージを送ることから始めるだろう.お客様は いくら時間をかけてくださっても結構だし,無駄口をたたいてくださってもよ ろしい.私どもの商品は安くはありませんが,お好みでないものを無理にお勧 めするようなことはいたしません.ただお迷いになったときはアドバイスをい たしましょう.能率よくさがせるよう,次に考慮すべきフレームを選んでさし あげましょう.こうして彼女は,意思決定者が何をさがそうとしているのかを 探ろうとする.候補がしぼられてきたとみると,そのなかでどれが有望なのか を探るべく,次に検討してもらう候補を選ぶ.かと思うと,同じようなモデル が続いたところへポンと全く毛色の違ったフレームを投げ込んで様子を見る. このような過程を経て彼女は意思決定者に,最善の決定を行なったという満足 感を与えるであろう.

彼女はよき意思決定の支援者ではあっても,必ずしも意思決定の専門家であ るとは限らない.彼女は買い手に代わって決定しようとはしないし,どう決め るのがよいのか買い手に教えることもしない.しかし彼女の行為は買い手の行 為とうまくかみ合っていて,買い手がよりよく決めるのを助けている.


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