Author: 道路交通問題研究会, All Rights Reserved
Date : 2004年11月19日 (作成)


道路交通問題研究会編

道路交通政策史概観

論述編

第2編 占領行政下の道路交通の実情 昭和20〜30年(1945〜1955)

拾遺録


 本文では述べることを敢えて見送ったり、また、書き残したりしたことがある。それらの中から、興味深いものを拾い上げて本文を補充する意味で書きとめておきたい。それがこの章を設けた理由である。

道路交通政策史概観論述編> 第2編 占領行政下の道路交通の実情> 拾遺録 >第1話 道路交通取締法が出来るまで

第1話 道路交通取締法が出来るまで

1 一本の法律が無事成立するまでには、いろいろな手続きがあり、乗り越えなければならない段階がある。法律というものにつきまとっている宿命のようなものである。
 昭和22年11月に成立した道路交通取締法(以下、この章では単に道交法という。)も、生まれでるまでには、数奇な運命を辿っている。そのようなことについて、この道交法の立案から成立まで一貫して担当した人の述懐を参考にして述べたいと思う。
○ この法案を立案した当時の時代背景と環境條件は、今日では考えられないほどの異常なものであった。敗戦による占領下であり、総て占領軍最高司令部(GHQ)の指示、指令の下に業務を処理しなければならなかった。他方、この法を所掌する内務省をめぐる環境条件が最悪であった。すでに占領後間もなく、内務省については権限の縮小、組織の改組、さらに廃止というようなGHQの見解が示されていた。また、その内務省が所管している警察について、警察の民主化を図れというGHQの厳しい指令に基いて、警察の概念の変革、制度の根本的改革が検討されていた。
  そのような條件の中で、廃止された道路取締令及び自動車取締令に代わる道路交通に係る規制法を早急に制定しなければならなかった。
○ 法案を作るに当って先づ考えなければならなかったことは、この法律の目的を明示して規定するためには、すでにある程度明らかになり、やがて警察法によって定められる警察の責務の範囲内であることが條件であった。長い間、交通警察の根拠法令であった道路取締令及び自動車取締令の規定は、本来、道路交通については何れも欠くことのできないものばかりであり、考え方によっては、何れの規定の内容も、警察の責務の範囲内のものと考えても差支えないものであった。しかし、このことについてはGHQの意見は、極めて厳しいものであった。このため、法案の一つ一つについて、GHQの係官と折衝し、その理解を得、承認を得なければならなかった。
  こういうエピソードがある。
  法案の中で“車両検査”の規定を他の登録の規定などとともに書いていたところ、係官は“車両の検査”は不用であるという。
  アメリカでは、検査などは義務付けていない。それは、使用する者の自己責任であるという。これに対し、日本では必要不可欠であると強く主張した。
  反面、警察法で自治体警察ができた場合、規模の小さな警察では検査を実施することができないのではないかという危惧ももっていた。
  GHQ側では、日本側の主張を認め車両の検査は認めることになった。しかし、その権限は警察の責務外であるとの巌しい“ご託宣”で、結局、運輸省の所管に移譲することになった。次に、車両の登録については、都道府県等地方自治体の仕事とすべきであると考えたが、内務省の解体ということもあって、特にどうするということもないまま、車両検査事務と共にこれを運輸省に移譲することになった。
  このように、いろいろな事情が入り組んだ形で、法案が形作られていったのである。これはその一つの例である。
○ 法案を作るについて、在来の規定のほか、国際的な観点から新しいルールも考えなければならなかったが、当時の状況では、アメリカ国以外の情報入手ということは極めて困難であった。そのため、参考とした外国資料はCalifornia州の交通法と、統一車両法典(uniform vehicle code)の二つが殆ど唯一のものであった。この二つの法典を十分に研究し法案の中にもその考え方などを織り込むことにした。
  統一車両法典は、法律ではなく自動車の用法、交通方法その他についての合衆国各州の共通した基準となるものとして定めたものである。
  「このように、アメリカ合衆国の道路交通関係法令についての知識を予め十分にもっていたため、GHQとの折衝の場合、非常に相手方の心証をよくしたようで、私どもの意見に対し巌しい考え方を示す反面、好意的に耳を傾けてくれることが多かった」と当時の責任者は語っている。
  なお、この道交法の立案及び、GHQとの折衝などで終始助言を受けた藤岡長敏氏のことについて触れておきたい。
  「もし、藤岡さんの助言がなかったら、道交法の立案はできなかったかも知れないという程、助けていただいた。アメリカ国の資料も殆ど藤岡さんから提供されたものであり、とくに、統一車両法典は原本をそのまま提供され、私どもで翻訳したものであった。」と責任者は述懐している。
  藤岡氏は内務省の官吏として、1年間アメリカ国で交通問題を研究し、帰国後もその研究をつづけ、内務省内では交通警察の最も権威のある専門家であった。数県の県知事を歴任して退官後も交通警察についてのよき助言者であった。占領中もアメリカ国滞在中に親交を結んでいた団体の関係者、学者などと連絡し、多数の情報と資料を入手し、それらを交通警察関係者に提供し、また指導もしていた。筆者も、昭和35年に新道交法を立案審議している時、藤岡氏に公私共の指導を受けた。
○ 昭和22年に制定されたこの法律は道路交通取締法という法律名である。この「取締」という名称があることによって、第一線の警察では「取締りのための根拠法」という考え方にとらわれる傾向が強かった。昭和35年の新道交法の制定の際は、その法律の性格を明らかにするため「取締」の二字を削除して「道路交通法」とした経緯がある。そこで、立案の際の「取締」ということを法律名に入れた所以を確かめて見た。矢張り理由があった。「取締」るためということではなかった。このことについて明らかにしておこう。
  戦前における内務省の所管法令には「取締法」とか「取締令」という名称のつくものが多かった。道路取締令や自動車取締令もその一つであるが、このほかにも例えば、「質屋古物商営業取締法」などというものもあった。取締とついているから取締るだけのための法令かというと、そうではなく、「管理」−administration−というような意味がこめられていたと考えられる。会社の取締役は管理者の意味であろう。
  占領中、GHQに提出した各種法令について「取締」についての英訳はすべて「control」とした。道交法はLaw of traffic controlであった。この場合、日本側としては、control という名称は即ち警察の責務ということを表現しておるものであり、それは、新しい警察概念に沿うものであるということをGHQ側に理解させたかった。したがって、もしcontrol(取締)という表現をやめて、単に道路交通法(Law oftraffic)とした場合は、GHQは、その内容に警察の責務を越えるものを規定するおそれがあると考えるであろう。また、日本側としては、control法であるということで、戦前において警察の任務であったものを、今回の法律の中に取り組むことの説明になると考え“道路交通取締法”と命名したという。「取締」という用語を用いたのは、このように、占領下にあって、いろいろと知恵を使わねばならなかった事情によるものであると述べている。
○ 戦前においても道路標識令に基づく道路標識は存在していたし、道路交通の整理の手段として、警察官の手信号のほかに信号機が使用されていた。しかし、道路標識や信号機の表示に従うべしという明確な規定は道路取締令にも自動車取締令にもない。ただ、地方庁(警視庁、道府県)では、その庁の令を以って、例えば“警察官吏の交通に関する指導又は信号のありたるときは直ちに従うべし”(警視庁令大正15年)というものがあるが、現行法のように明確な規定とは言えないように思う。
  道交法の立案の際、GHQ側と折衝している間に、道路標識や道路上の標示、ならびに信号機の表示に従う義務を明定すべきであるという助言を受けた。
  今日、考えて見ると余りにも当然のことであるが、戦前においては標識を設けること、信号機を作動することの意味は十分に考えられていたが、これに従うという義務を規定することには考え及ばなかったようである。(資料編第4−6)

道路交通政策史概観論述編> 第2編 占領行政下の道路交通の実情> 拾遺録 >第2話 対面交通の採用

第2話 対面交通(Facing traffic)の採用

1 現在わが国では、道路上の通行については「人は右、車は左」ということが道路交通法に定められている。但し、道路交通法の条文を読むと余りにも正確に規定されているので、どの条文に書かれているのか一読しただけでは判り難いかも知れないが、歩行者の歩行については、法第10条に、自動車等の車両の通行については法第17条第2項に定められている。「人は右、車は左」と極めて俗っぽく書いたが、これは歩行者と車両等(自動車等)の通行区分を端的に表現したものと理解して欲しい。この通行方法に対し、戦前から引きつづいて、昭和24年に道交法が改正されるまでは「人も左、車も左」と定められていたのでる。わが国の国民は、大正、昭和の前半までは「左側通行」ということを小学校の時から厳しく教えられていたのである。
  わが国で、法律で明確に道路の通行方法が定められたのは大正9年(1920)道路取締令が制定されたときである。歩行者の左側通行は、英国の例に倣ったといわれる。
  爾来わが国では左側通行を厳しく守るように指導し、漸やく習慣化するまでになっていた。
  敗戦により占領行政が行われるようになって、国内各地の占領軍当局から、「自動車の右側通行」を厳しく要請されるようになり、GHQからも日本政府に対し要請があった。しかし、自動車の通行を右側に変更することは、地方庁の権限でできるものではなく、また物理的にも不可能に近いということで拒絶し、結局は「歩行者を右側に」ということで、指示を受入れざるを得ぬ地方庁もあった。例えば福岡県では、「本件は道路取締令(内務省令で当時はまだ存続していた)の規定に反するものであるが、占領軍の指示として厳重に実施すること」と定めて、歩行者の右側通行を通達している。
  一方、中央においては、昭和22年、道交法制定について立案している段階でGHQから極めて厳しい要請として「自動車の通行を右側に変更する」よう求められた。しかし日本側では、「自動車を右側通行に変更する」ためには、道路上の施設の変更、車両(例えばバス)の乗降口の変更等“天文学的な財政支出”を必要とし、また長期の時間を要する等、種々理由を挙げて反論した。その結果「今回の法制定については見送る」ということで、在来通りの通行方法を規定した。
  しかし、その後もGHQからの要請はつづけられ、自動車の右側への変更はできないのであれば、歩行者を右側に変更し、交通安全上、最も合理的である対面交通(Facing traffic)を実施するようにとの助言が繰り返された。
  日本側でも歩行者の右側通行を実施している数県の例を調べるとともに国際的な例を調べた。
  たしかに欧米では対面通行が行われている。欧米では自動車が出現する以前も、二頭立て、四頭立てというような馬車が一般交通機関として普及していたので、当然のことながら、対面交通が実施されていたのである。興味深いことは、英国は「人は左」であり、そして大英帝国の影響下にある国は「人は左」であり、フランスは「人は右」であり、ナポレオンが征服した国々は「人は右」となっているとのことである。アメリカ国は、「人は右」となっている。現在は、国によって変更したところもあるとか。
  昭和24年道交法の改正の機にGHQからの強い要請もあり日本側でも検討をつづけていたので、人と車の「対面通行」を実施することに決定し、「道路を通行する歩行者は右側に、車馬は左側によらなければならない」と規定した。占領開始以来、第一線の占領軍及びGHQとの長い間の道路通行上の問題はやっと結着することになった。(資料編第12−14 参照)

2 昭和24年の道交法の改正の際の法案提出の理由には、ひとえに交通安全の対策として対面交通の合理性を勘案して、これを取り入れることにしたということが述べられている。また、その改正について当時発表された解説書においても詳細に交通安全を図る上での対策であると解説している。
  後日のことになるが、筆者もこのことについての議論及び所説においては、歩行者の通行を右側へ変更したことは専ら、対面通行の合理性によるものと述べている。さらに、昭和35年に新道路交通法が制定されたときも、その立案の段階の議論としては、右側通行の合理性を主張した。この対面通行、とくに歩行者の通行を右側に変更するということは、道路交通の歴史の中でも特筆すべき事柄である。もし、占領軍当局の執拗なまでの要請がなければ、実現できなかったものである。それにしても、長年の努力によって、習慣化していた左側ということが一挙に変更されたということについて、敗戦そして占領ということの厳しい現実をつくづく思うのである。(資料編第4−9 参照)


道路交通政策史概観論述編> 第2編 占領行政下の道路交通の実情> 拾遺録 >第3話 ワンマン道路という道路

第3話 ワンマン道路という道路

 昭和30年2月2日のある新聞に「建設省が工事費5億4千万円余を投じて建設中だった横浜市戸塚の有料道路(国道柏尾町−汲沢町間4キロメートル余)が先月完成し、一日から使いはじめた。昭和23年着工以来7年ぶりである。云々」という記事が載っている。当時は“ワンマン道路”といわれ、話題を投げた道路の完成の記事である。
  終戦以後、横浜地区は占領軍の自動車の交通が頻繁であり、とくに、国道一号(東海道)は、最も交通量の多い最重要幹線道路であった。横浜市の戸塚地区において、国道一号と、国鉄東海道線が交差し、踏切が設置されている箇所(戸塚区吉田町)があるが、この踏切による自動車の通行遮断が回数も多く、屡々長時間停車を強いられることになり、異常な交通渋滞を生じさせていた。このような箇所は、全国的には多数あったと推察されるが、建設省としてはそれらに対する対策の一つとして、有料道路として踏切を避けたバイパス道路の建設を策定した。おそらく、戦後の最初の有料道路の建設であったのではないか。
 この有料道路は、その区間が横浜市戸塚区汲沢から同柏尾町の間 4.2キロメートルで、建設費は5億4千万円であり、最初に計画してから7年間かけて、昭和30年2月1日に供用開始した。偶々、吉田総理大臣が、その私邸が神奈川県大磯町にあったことからこの箇所を通行することが多く、総理の自動車が踏切遮断で停止している模様を新聞などが報じたこともあった。この道路が吉田総理の強い要請で建造されたように伝えられ“ワンマン道路”というニックネームで呼ばれるようにもなった。吉田総理が強い関心を示したことは事実であろうと思うが、この有料道路の建設が、次の新しい政策としての有料道路建設政策を推進する大きな呼び水となったことは否定できないであろう。
 この有料道路は、その後横浜新道の開通により、横浜新道戸塚支線となり、無料開放となり、現在では一般国道1号として横浜地域一帯の道路網の一環として組み込まれている。

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参考にした資料及び文献




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*資料編目次

URL=http://www.taikasha.com/doko/chapt2x.htm