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Date : 2006年2月2日 (更新);2004年11月12日 (レイアウト更新);2004年9月1日 (作成)


道路交通問題研究会編

道路交通政策史概観

論述編

第1編 前史 明治元年〜昭和20年(1868〜1945)

第1章 道路交通の変化と発展


道路交通政策史概観論述編> 第1編 前史> 第1章 道路交通の変化と発展> 第1節 道 路

第1節 道 路

第1 明治期における道路整備 

 明治新政府の交通・運輸政策でもっとも重点がおかれたのは、鉄道網整備の推進であった。一方、道路については、関所の廃止など封建的な制度は改められたものの、幕府から引き継いだ道路網を補修・改良する十分な予算が得られず、道路改良の多くは府県など地方の負担に委ねるという状況が長く続いた。したがって、明治維新以降、大正8年(1919)の「道路法」制定に至るまでの約60年間、道路の種類、構造・規格、築造基準など一応の行政基準は示されてはきたが、道路の実質的な改善については、大きく立ち遅れをみせていたといえよう。
 第1表は明治8年度中に各地で行われた主な改修・建設工事の道路費・橋梁費である。国費支弁に比較して民費支出の大きさが知られる。


第1表 明治8年度の道路・橋梁費と負担           

区 │       │国 費   │民 費   │総 額   │  
分 │ 道路費│    63,439│   601,029│   664,468│  
   │ (割合)│     9.6%│    90.5%│   100.0%│  
   │ 橋梁費│   166,975│   156,179│   323,154│  
   │ (割合)│    51.7%│    48.3%│   100.0%│  
出典:山本弘文編『交通・運輸の発達と技術革新』33頁   「内務省第1回年報」による。

(1) 江戸時代、街道、特に東海道を通った外国人から、道路の手入れがよく行き届いていると称賛されたものであった。だが、その道路はあくまでも人や牛馬の歩く道であって、車が通るためのものではなかった。したがって、明治に入り車両交通が盛んになってくると、早速に道路や橋の傷みがひどくなり、その補修の労力や費用に沿道の人々、とりわけ管理者の悩みは大きかった。
  明治7年(1874)の小田県(明治8年、岡山県に合併)岡谷村の話である。村の入口に「人力車通ルベカラズ」という立て札が立っていて、車夫が強いて通ろうとすると、村の若者が村長の命令だと言って車に手をかけて通らせない。やむなく車夫たちは回り道して客を運んでいるという話題が、東京日日新聞(8.4)に載っている。人力車の往来で道路が傷められるのに、すっかり腹を立てた村長の自衛措置だったのであろう。
  だが、閉鎖的な対応だけでは、もう許される時代ではなかった。人々の往来や物資の集散をより盛んにするために、補修はもちろんのこと、車を通すために狭い道をさらに広げ、新しい道路や橋を造成しようと、地方住民の間に積極的な機運が高まってきた。しかしながら、新政府も樹立後間もない頃であり、財政的基盤も極めて弱体で、道路費用の捻出はなかなか困難であった。

(2) このような状況のもとで、明治4年(1871)12月14日、政府は現在の有料道路のはしりといえる有償道路の制(太政官布告第648号)を発した。この制度によって、一定の年限を限って料金の徴収が可能となったので、これまで費用負担の面で着手できなかった道路改良に道が開かれることになった。我が国最初の有料道路として有名なものは、東海道筋の現小田原市板橋から箱根湯本山崎までの4.1kmで、同8年9月に開通した。2カ所の急坂を緩やかな勾配の幅4.5〜7.5m道路に改修して、人力車が通れるようにしたのである。このほか、天下の難路と称された東海道の小夜の中山峠の改修や、大井川の架橋などが有名である。

(3) 明治6年(1873)8月、大蔵省達番外「河港道路修築規則」が出され、1〜3等の道路等級と工費負担制について定められた。次いで同9年、同規則を廃止され、新しく「太政官達第60号」が公布の運びとなった。この制度は、国道、県道、里道のそれぞれを1等から3等に区分し、さらに幅員の標準についても定めたものである。国道の1等は東京から各開港場に達するもの、2等は東京から伊勢の皇太神宮及び各府・各鎮台に達するもの、3等は東京から各県庁に達するもの、及び各府・各鎮台を連絡するものとなっていた。このような行政的、軍事的立場の重視は、その後も継続されている。
  そして、明治18年1月、太政官布達第1号によって国道等級の廃止と国道幅員が定められ、同年2月、初めて44路線の国道が告示された。続いて、同20年。東京から鎮守府に達する路線及び鎮守府と鎮台を連絡する路線も国道に編入することとなり、同44年末までに16路線が追加告示された。その結果、国道路線数は総計60路線に改正されることになった。
  これらの法令によって、明治期における道路に関する法体系は整えられたのである。

(4) 明治19年8月、今日の道路構造令に相当する「道路築造標準」が内務省訓令第13号によって示され、各府県ともこの基準に従って工事を行うこととなった。原則として馬車交通に好適な砕石道路が採用されたが、これは馬の足がかりがよく、それに交通による自然転圧によって、堅固な路面が造られるからである。 しかしながら、道路改良熱の後退や府県予算の関係から次第に空文化して、もとの「人馬踏み固め」という原始的な自然地固め工法に逆戻りしていった。

(5) 歩・車道の分離については、慶応年間、横浜の外国人居留地に建設された馬車道を最初とするが、明治3年(1870)には神戸に造られ、次いで同5年の大火に遭った銀座の復興時に、歩車道を区別したことはよく知られている。その後、同22年(1889)の「市区改正条例」に基づいて歩車道分離の広幅員道路が次々に建設され、明治末期には約80キロの歩車道分離道路が完成している。関西方面ではやや遅く、大阪市では明治39年に、京都市では同45年に導入されている。そのほか、長崎県、栃木県、三重県、愛知県、岐阜県、富山県、香川県、熊本県などにおいて建設されている。
  因みに、「人道」という名称から「歩道」と称されるようになったのは、明治23年3月の東京府告示にある「同区蛎殻町二丁目ヨリ同町三丁目迄人形町通右道路中下水ヲ境界トシテ左右ヲ歩道中央ヲ車馬道ト定ム」に始まる。
  その後、大正期に入って自動車が次第に増加するにつれ、道路対策も、これまでの人力車・馬車交通から自動車交通へ指向するようになったのである。

第2 「道路法」の成立と道路改良計画

(1) 「道路法」の成立
 大正8年(1919)4月10日、日本における道路行政の基本法である「道路法」(法律第58号)が公布された。明治21年(1888)立案以来、実に30年の歳月を要したという超難産の法律である。8章68條からなるこの法律は、道路の種類、等級及び路線の認定、道路の管理、道路に関する費用及び義務、監督及び罰則、訴願及び訴訟などの各章で構成されている。
  同年12月6日、道路法第31条の規定を受けて、道路の種類による規格・構造について規定した「道路構造令」及び「街路構造令」が公布された。これらの構造令は、初めて自動車を視野に入れた内容となっているが、まだ、道路交通の主体が馬車や荷車であることに配慮していた。しかしながら、その後、急速に増加する自動車交通に対応するために、同15年、「道路構造に関する細則」を定めて「構造令」を補完している。だが、なお、馬車への気配りを怠らない両にらみの構造基準となっていた。   参考までに、「道路法」施行前(大正7年)における我が国の道路延長は次の通りであった。

  国 道   2,175里  39間(  8,542km)
  府県道  9,475里11町41間( 37,212km)
  里 道 108,625里26町39間(426,603km)
   計  120,276里2町59間(472,357km)

(2) 道路改良計画
  政府は「道路法」制定とともに、積極的な道路近代化計画を図ることにして、国道を主眼とした第一次道路改良計画を樹立した。そして、その財源の裏付けとして「道路公債法」を制定した。この計画は、大正9年度を初年度とする30箇年計画で、主として国道、軍事国道、指定府県道や6大都市の街路改良を目的とするための補助事業であった。しかし、その後、関東大震災に伴う財政緊縮政策によって、道路公債の発行は見合わされた。そのほか、自動車交通の発達に対応するための産業道路計画や、世界大恐慌による失業者救済目的の工事計画等々の事業が行われた。しかし、これらは臨時に発生した事態に対応する手段として行われたので、道路改良本来の目的とは必ずしも一致しないものがあった。そこで、昭和8年、内務省は土木会議を設置して意見を求めた結果、翌9年度以降20箇年に及ぶ第2次道路改良計画が答申された。

(3) 道路舗装
  「岩や小石のない土の武蔵野の上に造られている東京の路は、一朝雨に遭うとほんとに泥沼のようになる。その上を自動車や貨物自動車や車力でこねかえすのだから堪ったものではない。泥濘膝を没するとは形容が大きいが、オバーシューズが用をなさない事は往々である。そして、その泥はしりが、自動車のために両側の家々に跳ねかけられてその不快さ、不潔さは云うまでもない。それだけでない。陽が照ると、その泥はすぐに乾いて灰のようなほこりとなり、それが風にあおられて東京全市を覆う。……」
  これは、「道路」(大正12年1月号)が、諸名士に求めたアンケートの一つ、「東京市道路に就いての苦い経験」の回答の一例である。寄せられた回答を集約すると、・雨の日のぬかるみと自動車の泥ハネ、・ほこり、・路面の凹凸、・掘り返し工事等々にまとめられる。
  この回答は、首都東京の道路を「晴天なれば砂漠、雨なれば泥沼、ハネは天に沖し、砂塵は地を蓋う。玄界灘は東京の中央にあり」と皮肉った当時の評言を裏付けている。自動車交通の進展が、従来からの泥濘の道に新たな問題解決を提起していたのである。
  これより先の大正9年。東京市道路改良の奨励として皇室から300万円が下賜された。これを機として、市は道路局を設置し、翌10年から6ヶ年継続事業をもって大規模な路面舗装に乗り出したのである。このアンケートは、その道路工事最中の時期のものである。
  大正12年9月1日、その事業進捗中に発生した関東大震災によって、東京市は激甚な被害を被った。しかし、その復興事業が国の予算で行われることとなり、路面舗装の普及はかえって促進されることになった。同10年、総道路面積の10%にしか過ぎなかった東京市内の舗装道路面積は、同14年ころから増加に転じ、昭和5年には55%に達している。これは簡易舗装の普及が寄与したものと思われる。第2表に示すように、全国においても、昭和11年には一般国道実延長の14%が舗装され、同15年には約400km増加し、18%にアップしているのである。しかしながら道路全体から見た場合、まだ寥々たる舗装率にしか過ぎなかった。


第2表 道路延長及び舗装道路                     
 │   │ 年 次│ 実延長 │ 舗装道 │ 舗装率 │  
 │ 全│昭和11年│  906,003│    8,394│    0.9%│  
 │ 道│昭和15年│  939,593│   11,905│    1.3%│  
 │ 国│昭和11年│    8,609│    1,197│   13.9%│  
 │ 道│昭和15年│    8,740│    1,601│   18.3%│  
  出典:『日本長期統計総覧 第2巻』

(4) 全国自動車国道計画
  昭和15年(1940)は、神武天皇即位から2、600年目にあたるとして、国をあげての記念行事が盛大に催されたものである。この年、内務省土木局では、「重要道路調査」の名目で自動車専用道路を整備するための調査を三ヶ年計画でスタートさせた。同盟国ドイツが、1933年(昭和8)から開始したアウトバーン建設の成功に刺激され、戦時下の輸送体系の確立のために企画したものである。その成果は、3年後の同18年に「全国自動車国道計画」としてまとめられた。
  この計画は、全路線合計が5,490kmもある本格的なものである。その骨格は、青森から下関まで、太平洋岸と日本海側とをそれぞれ走る1本づつの幹線で構成されるループで、その間を何本かの横断道が走っている。それは、アウトバーンを全く模した内容で、総幅員20m(ドイツは24m)、設計速度も平坦部時速150km(ドイツ160km、以下同じ)、丘陵部125km(140km)、山岳部100km(120km)となっていた。
  この全国自動車国道計画は、その展開を日本だけでなく中国、タイ、インド、ビルマなど、当時「大東亜共栄圏」と称されたアジア各国を経てヨーロッパに至る構想で、今日のアジア・ハイウェイ計画の先駆ともなる壮大なものであった。
  そして、プランだけにとどまらず、昭和18年には、優先度の高い東京〜神戸間の実地調査が開始され、特に名古屋〜神戸間は実施設計がまとめられ、工事予算請求の動きがあった。しかし、戦局の推移もあって、同19年には調査が打ち切られ、そのまま敗戦の日を迎えたのである。
(本節は、武部健一氏の研究に負うところが大きいが、特にこの項 は同氏著『道のはなし 1』135〜139頁によった)。

(5) 自転車道
  戦後、急増する自転車事故防止のために、高速の自動車群と低速走行の自転車群とを分離する自転車道整備の声が急速に高まった。この要望を背景として、昭和45年3月に「自転車道の整備等に関する法律」が可決成立し、同年4月3日法律第16号として公布、同日施行となった。この法律に基づいて、我が国の自転車道の本格的な整備が進められ、平成12年には自転車道・自転車歩行者道・自転車歩行者専用道合わせて、107,174kmに達している。
  ところで、戦前にも、自転車の交通事故を防止しようと、この自転車道に関する研究と計画があった。その動きを示してみよう。

ア、 「自転車道」が法令に初出したのは、大正8年12月6日公布の「街路構造令」(内務省令第25号)第3條である。この「街路構造令」は、大正8年公布の「道路法」第31條「道路ノ構造、維持、修繕及工事執行方法ニ関シテハ命令ヲ以テ之ヲ定ム」に基づいて定められたもので、その条文は次の通りである。
第三條 街路ハ車道及歩道ニ区別スヘシ但シ一等小路及二等小路ニ在リテハ之ヲ区別セサルコトヲ得
  街路ノ状況ニ依リ遊歩道ヲ設ケタルトキハ之ヲ歩道ニ兼用スルコトヲ得
  広路ニハ必要アルトキハ高速車道又ハ自転車道ヲ設クヘシ一等大路ニ付亦同シ

イ、 次に、「自転車道」が「警察協会雑誌」中で初めて記述されたと思われるのも、参考となろう。それは、各国の自転車関係法を紹介した「自転車の取締」(牧野英一訳)で、同誌の明治34年4月〜6月号に連載されている。その文中に、「オーストリア」の規定(1897年)の「公道に沿いて自転車の為に別に道路の設備ある時は・・」が紹介されている。恐らく、同34年10月24日警視庁令第61号で制定された「自転車取締規則」の立案のために、欧米諸国の現状を調査したものではないかと、筆者は推測している。

ウ、 前掲の「道路」(大正12年1月号)が、諸名士に求めたアンケートの回答の中で、田中萃一郎法学博士は、事故防止のために「丸の内とか日本橋通りとかにはコッペンハーゲン流に自転車専用の道を車道と歩道との間に造ったら・・」と回答している。当時、識者間では「自転車道」に関する知識がすでにあったものと思われる。

エ、 自転車道に関する研究は、日中戦争以前から、内務省土木研究所(現・国土交通省土木研究所)の藤井真透等のスタッフを中心に行われていた。実際の計画案も練られていたようで、江守保平が「道路の改良」昭和7年1月号に寄稿した「自転車道の施設を提唱す」のなかで、「我が国道路の実例につき自転車の計画を行ったもので」として、2例を図面入りで紹介している。また、松井茂博士も『警察協会雑誌』同13年5月号寄稿の「交通事故防止に就て」のなかで、「聞くところによれば、新計画の京浜道路では新たに別に自転車道路を設けるとの節もあるが・・」と述べている。新京浜国道は同11年に計画されたものである。


道路交通政策史概観論述編> 第1編 前史> 第1章 道路交通の変化と発展> 第2節 輸送手段の変化と発展

第2節 輸送手段の変化と発展

第1 在来の道路交通

 江戸時代末期まで、わが国における道路交通は徒歩が基本であり、乗物や駕篭そして馬が利用される程度で、乗用の車両は皇族や貴族など上流階級専用の牛車のみであった。その牛車にしても、平安時代には盛んに用いられたがその後は振るわずに終わっている。まして、庶民が乗る車は皆無であった。
 一方、荷物運搬の車としては、荷牛車や人が曳く大八車、べか車などが用いられた。江戸、大坂そして京都とその周辺など、一部の大都市では幅広く車両交通が営まれていた。しかし、五街道筋では幕末期まで車が用いられることは無かったとしても過言ではない。
(注:乗用としての牛車と荷用としての牛車との混同をさけるため、荷用の牛車を荷牛車と記載した)

(1) 都市内の車両交通
[荷牛車] 荷牛車の使用は、京都周辺、江戸、駿府(現・静岡市)、仙台などに限られていた。乗り物としての牛車と同様に、荷牛車は、古くから京都近在における重要な輸送手段であった。
  江戸には、寛永13年(1636)、江戸城普請の時に京都の牛持ちが呼ばれて材木や石の運送にあたった。普請終了後、与えられた土地に住みつき、最盛期には牛数も、大八車の発達によって停滞・減少の方向をたどった。荷牛車は江戸のほか駿府や仙台にも伝わっている。

[大八車] 江戸では、明暦の大火(1657)の復興事業の折りに、その便利さが知られた。その後の急速な普及によって、元禄14年(1701)には2,239台を数えている。それ以後も輸送手段として重宝され、荷物運搬業者だけでなく、酒屋・米屋たちも自家用の車で運送するようになったので、従来の馬稼ぎ業者は打撃を受けた。

[べか車] 大坂は河川や堀が市街地を縦横に通じているので、陸上よりも水運が多く用いられていた。べか車は、18世紀の後半に登場した。この車は前の者が綱を曳き、後ろの者が棒で押す仕組みになつている。車輪を板ではり、車体は低くて丈夫な構造になっているので、重いものの運搬に適していた。
  べか車は便利であったので、その後の利用もますます盛んとなり、商売の種類によっては、自家用の車を備えるようになってきた。その結果、従来から運送に従事してきた水運業者は衰退に苦しみ、一方、町方では水道や石垣、橋の破損という事故が多くなってきた。幕府はこれまで貢献度の大きかった水運業者を保護するために、橋上の通行や夜間通行の禁止、または積載量を定めるなど、幾つかのべか車使用制限を設けた。しかし、その発展を押さえることは出来なかった。

(2) 五街道
 先に触れたように、江戸時代の主要街道である幕府直轄の五街道における輸送手段は、人力そして馬であった。江戸末期になると、商品流通の発展や幕末の政局や開港などもからんで、人や物資の輸送量はますます増加の一途をたどってきた。それに対して、近世の陸上交通の中心であった宿場や助郷などの組織は、財政的負担に耐えきれなくなり、効率のよい車を利用したいという要望が高まってきた。その願いは次第に認められて、街道筋にも車の利用が行われるようになってきた。
  その経過を年代順に列挙してみよう。


  弘化3年10月(1844)
   中山道の垂井・今須宿が板車   導入を願い出る
  嘉永2年正月(1849)
   垂井・今須宿の出願を許可
  嘉永7年8月(1854)
   東海道の二川ほか4宿が地車   使用を出願
  安政4年4月(1857)
   二川宿等の出願を許可
  安政6年6月(1859)
   横浜開港
  文久2年11月(1863)
   幕府、諸道中の御用荷物など   の車輸送を許可
  元治元年8月(1864)
   京・伏見・草津間に小車使用   を許可
  慶應2年10月(1866)
   幕府、江戸市中及び5街道に   おける荷馬車使用を許可

  然しながら、その動きはささやかで緩慢なものであった。幕府崩壊の直前まで、輸送手段は人力と牛馬という方式をかたくなに保ったまま、明治維新に移行するのである。

第2 新しい輸送手段の登場とその展開

 さて、錦絵「浅草金竜山広小路馬車人力車往来之図」(2代国輝、明治4年)をご覧いただきたい。
 さまざまな形の人力車や乗合馬車が、通行人の間を忙しく行き交っている情景が描かれている。東京府が、人力車の製造・営業を和泉要助等に許可したのは明治3年(1870)3月なので、その一年後の風景を描いたものと考えられる。既に、同2年には日本人経営の乗合馬車も横浜・東京間に開業していた。やがて、鉄道(同5年)、そして馬車鉄道(同15年)、路面電車(同28年)も開業する。本格的な車両輸送の到来である。
 今まで、ひたすら自分の両足に頼ってきた私たちの先祖にとって、これらの新しい乗り物の出現は、大きなカルチャーショックであったに違いない。
 とりわけ、先ず、人々が味わったのは、乗りもの利用による行動圏の拡大である。そして、炎天や雨風の夜でも、てくてく歩かねばならなかった忍耐からの解放であったろう。足弱の老人や子供連れの女性にも、気軽な外出の機会が提供されたのだ。この錦絵から、そのいきいきとした息吹が伝わってくるようである。
 では、先ず、明治期における道路交通の主役であった人力車・乗用馬車、それに自転車・荷車の普及の状況、及び都市内における馬車鉄道、路面電車の発展について、幕末から昭和20年までの推移を見ていくことにしよう。

(1) 人力車
  人力車の営業が始まって5か月を経た明治3年(1870)8月、貧困者救済施設の芝会社が、東京府に願い出た文書がある。
  それは「街道沿いの芝のかいわいには、荷車曳きや駕篭渡世の者が大勢住んでいるが、この頃、蒸気船や馬車、そして人力車に客や荷物を奪われて仕事がなく、妻子も養えなくなっている。そこで人力車を20台作って彼等に仕事を与え、暮らしが出来るようにしてやりたい」という内容であった。新しく出現した輸送手段が、旧来のものを情け容赦なく押しつぶしながら発展して行くその様子が、紙背から読みとれる。
  このような普及振りは、文字通り爆発的と言っても過言ではない。人力車営業が始まった翌年の明治4年12月の東京府文書「府下地坪人力車数調」には、保有台数が10,820台と記されている。さらに、製造開始から6年後の同9年(1876)になると、東京府における保有台数はなんと2万5038台に達している。
  『日本帝国統計年鑑』の「諸車統計」によると、全国の人力車台数は、明治8年の11万台からスタートして激増の一途をたどっている。増加が1万台を越える年はざらにあり、まことに驚異的でもある。しかし、その後、自転車、馬車鉄道、路面電車、そして電話の普及などに押され、日清戦争が終わった翌29年(1896)の21万台をピークに、下降カーブを画く。ことに、個別輸送、ドアツードアの機能、即時移動性、距離運賃制と割り増し運賃など、交通機関としての機能や特性の面から共通性をもつハイヤー・タクシーの普及は、人力車にとって致命的であった。
  しかしながら、昭和16年9月、米英両国の対日石油禁輸による旅客自動車のガソリン使用禁止の影響もあってか、17,000台と前年より4,400台増になっている。人力車統計は、この年を最後に姿を消すが、戦後しばらく、タクシーの代役として、駅周辺にその姿をみせていた。

(2) 乗用馬車
  欧米では、馬車を中心とした長い道路輸送時代を経て、鉄道の時代を迎えた。それに比べ、わが国においては、馬車と鉄道がほぼ同じ時期に導入されている。そのうえ、馬車から鉄道への過渡的な役割をつとめた馬車鉄道に至っては、逆に鉄道より10年も遅れて営業を開始したのである。
  わが国における馬車の活動は、開港後、横浜と江戸の外国公館を結んだ外人馬車の運行に始まる。そして、明治2年(1869)。横浜・東京間を結ぶ日本人経営の乗合馬車がいち早く往復を始めた。同5年になると、官営郵便物逓送を請け負った郵便馬車会社が開業する。これらの馬車会社は、東京・高崎間、東京・宇都宮間、東京八王子間その他の路線で、郵便物・とともに一般貨客の輸送も取り扱ったのである。


第3表 乗合馬車・乗合自動車業者数の推移          
      │         │ 乗用馬車  │ 乗用自動車 │   
      │ 大正14年│     3,879 │      3,303 │   
      │ 昭和3年│     2,486 │      4,589 │   
      │ 昭和6年│     1,449 │      5,622 │   
      │ 昭和9年│     1,067 │      3,907 │   
      │ 昭和12年│       832 │      2,858 │   
 資料:警察統計報告 
  注:昭和8年、自動車交通事業法施行により、乱立傾向にあった乗合自動車業者が整理統合された。同9年以降の乗合自動車業者数の推移はそれを示している。
 
  これらの駅馬車路線は、人力車路線とともに発展する。これによって、旅客の1日行動圏は大幅に拡大し、徒歩時代の40km圏の1.5倍から3倍以上に達するようになった。従来の2泊3日行程が1日に、1泊2日圏が半日に、片道1日圏も1日往復圏に短縮され、時代の要請である迅速さに大いに応えたのである。
  しかし、この駅馬車路線が活躍したのは、まだ鉄道が搖籃期であった明治初期だけであった。鉄道が次第に拡張されるに従って、壊滅の運命を歩み、市内及び近距離交通の役割を担う乗合馬車に転じていった。
  乗合馬車は、明治44年(1911)の約9,000台を最高として、以後、鉄道や乗合自動車の便のない地域の交通機関の役割を果たしながら減少していく。前述のように、乗合馬車は乗合自動車と共通する機能を持っていたので、全国各地で競合して買収や廃業などによって、次第に衰退していったのである。
  そして人力車の場合と同様に、戦時期に入って地方都市に復活の動きが少し見られ、戦後もしばらく姿を見せていた。

(3) 自転車・輪タク 
  幕末到来の自転車は、明治10年代に入って、貸し自転車として若者たちの人気をよんだ。しかし、このブームは、通行人との衝突事故(ことに夜間の無灯火運転など)が頻発。迷惑車、厄介車・馬鹿車などと呼ばれて問題となったものである。その後、この流行は次第に地方にひろがり、いろいろと波紋をおこし、群馬県や京都府などのように、人通りの多い道路や夜間の使用を固く禁止する府県もあった。
  その後、明治20年代後半になると、華族・富豪のステータス・シンボルとして、最新の欧米製自転車がもてはやされる時代を迎える。同26年(1893)には、日本最初の自転車クラブである日本輪友会が設立された。以後、各地に続々とサイクリストたちのサークルが結成され、次第に自転車への関心が広がっていった。
  当時の輸入自転車は高価なもので、とても一般庶民に手が出るものではなかったが、明治31年(1898)、欧米において自転車価格の急落がおきた。自転車産業の爆発的発展が生産過剰を生み、メーカーは大衆向けに軸足を動かすようになったのである。このような背景によって、輸入価格も急速に下がり、同30年代中頃になると実用化の段階に入った。一方、国産化も次第に進み、普及に拍車をかけることになった。
  明治33年(1900)、東京市は、吏員の出張巡回に使用していた人力車を自転車に替えた。同34年には、警視庁始め各警察署に米国製自転車が2台づつ配備された。当時、電話を置いているような商店や会社では、たいてい1、2台は使っているように普及してきている。
  当時の状況を端的に伝えた新聞記事がある。明治35年(1902)の「東京朝日新聞」に「昨今の東京輪界」と題して、「昨今、輪界の形勢を見るに発達著しく東京府庁の調査に係る車両のみにても約2万の多数に達し、乗用者は官吏、会社員、銀行員より実業家及び各商店員にして、従前の上流一部の贅沢玩弄品は一変して実用に供する次第とはなりぬ・・」と伝えている(8.21)。
  先ほど触れたように、実用化の時代を迎えて、全国自転車保有台数の伸びは著しいものがあった。明治31年(1898)の約2.6万台を基準にすると、大正2年(1913)には16倍の約42万台、昭和10年(1935)には280倍の730万台に及んでいる。都会の商店・工場やデパートでは、ご用聞き・配達そして運搬など、毎日の仕事になくてはならない存在となっていた。大正14年(1925)6月3日、東京市は291箇所で交通量調査を行っているが、自転車は全体の54%を占めていた。その報告書の解説に曰く「自転車ハ現今商取引上欠クベカラザル交通機関トシテ各種商店・銀行・会社其ノ他アラユル方面ニオイテ使用セラレ」と述べられているほどである。
  この伸びの因は、第一次大戦を契機に生産力を増大した日本の自転車産業が、大衆の求めやすい低価格で提供したことが大きい。大正2年では、まだ123人に1台の普及にしか過ぎなかったが、昭和2年(1927)になると13人、同10年には9人に1台と、急速なひろがりをみせるようになったのである。
  しかし、戦時期に入ると、原材料の不足、メーカーの軍需工場への転換、配給制などによる新車・補修部品の入手難、そして戦災による焼失など、やむを得ない事情によって自転車利用は衰頽していった。

 輪タク
  ガソリンの窮乏期に入った昭和14年頃から、路上でみかけるようになった乗り物で、タクシー代わりに客を乗せて走った三輪自転車である。人力車風の車体と自転車を結合させたような乗り物で、工業所有権では「乗客用三輪自転車」という名称で登録されることが多かった。
  戦前・戦中は「更生車」「厚生車」「国策車」などと呼ばれていた。戦時中も「リンタク」の呼称が一部にあったが、戦後は「輪タク」が一般化した。戦前における営業者数や台数は不明である。
  現在、東南アジア、南アジアにベチャ、サムロー、リクショーなどの人力三輪タクシー(輪タク)がある。


第4表 荷牛馬車・荷車と貨物自動車台数の推移                                                               
                │ 西 暦│ 年  号│ 荷 馬 車│ 牛   車│ 荷   車│荷積用自動車│                
                │  1887 │ 明治20年│     14,987│      6,929│    575,184│          −│                
                │  1897 │ 明治30年│     82,507│     16,430│  1,222,417│          −│                
                │  1907 │ 明治40年│    126,823│     35,039│  1,489,814│          −│                
                │  1917 │ 大正6年│    208,880│     35,362│  1,936,406│          42│                
                │  1927 │ 昭和2年│    306,473│     87,358│  2,142,590│      14,467│                
                │  1937 │ 昭和12年│    306,793│    111,146│  1,519,334│      52,995│                
                  資料:『日本長期統計総覧』第2巻、546頁
           :貨物自動車の昭和12年の統計は、『日本経済統計集』日本統計研究所、昭和33年、68頁

(4) 荷牛馬車・荷車
  圧倒的な輸送力をもつ鉄道は、鉄道貨物の集配のために膨大な輸送需要を創出した。荷牛馬車と荷車は、その輸送手段として大きな役割を果たしている。『日本帝国統計年鑑』によってその状況を見ると、明治20年を基準として、20年後の同40年には、国・私鉄営業線キロが8.9倍、国鉄貨物輸送量が32.2倍の拡大に対して、荷馬車8.5倍、荷牛車5.3倍、荷車2.9倍といずれも増加している。勿論これらの車は鉄道集配用だけでなく、近距離用輸送手段としても大いに活躍していたのである。
  その後、大正期に入っても増勢は続く。石井常雄『馬力の運送史』は、この状況を「大正期に入り、第一次世界大戦による経済の発展は、巨大な輸送需要を生じ、鉄道は新線建設を早め、自動車は輸入を促進して対応したが、地域輸送の大部分は、馬力か人力に依存せざるを得なかった」と説明する。
  その具体的な内容について、「道路」大正14年2月号掲載の「東京市の道路交通近況について」は、この荷牛馬車の漸増現象の因について、低運賃や、道路不良の場合でも荷積み下ろしに便利などの諸点を挙げている。
  昭和期にいると、貨物自動車は、昭和2年の1.45万台から、10年 後の同12年には7.5倍の10.9万台と急増傾向を示している。荷車は大正11年(1922)の222万台、荷馬車は昭和5年(1930)の31万台を頂点として減少傾向に入る。しかし、牛車は逆に漸増を示して、自動車の影響に対して大きな抵抗力を見せている。これは、地方道の整備が不十分のために、軒先での集配など、自動車の運行範囲が限られていた


第5表 東京市内における各交通機関別利用の割合

          │          │ 大正8年│ 昭和元年│  昭和5年│  昭和10年│  昭和15年│            
          │ 市   電│     79.0 │     50.1 │     33.4 │     21.6 │     22.4 │            
          │ 国・私 鉄│     21.0 │     41.9 │     46.3 │     42.7 │     51.1 │            
          │ 市・私バス│        - │      5.9 │     10.8 │     18.3 │     17.5 │            
          │ ハイ・タク│        - │      2.1 │      8.6 │    15.3 │      4.7 │            
          │ 地 下 鉄│        - │        - │      0.9 │      2.1 │      4.3 │            
          │   計   │    100.0 │    100.0 │    100.0 │    100.0 │    100.0 │            
    資料:「東京都交通局60年史」143頁
     注:昭和15年におけるバス・タクシーの減少は、昭和13年からのガソリン規制による影響である。

ものと考えられる。戦時期に入り、自動車の代替として再び荷牛馬車や荷車の活躍が見られるようになる。

(5) 市内馬車鉄道・路面電車
 明治15年(1882)、東京馬車鉄道会社が開業した。翌16年の年間乗客数は391万人であったが、その後の路線拡張、複線化、品川馬鉄の吸収合併などの経営努力によって、電化前年の同35年の乗客数は、約11倍の4,221万人に達していた。馬車鉄道の多くは、地方小都市がより大きな都市や幹線鉄道との連絡を求めて建設されたもので、東京馬車鉄道のように市内交通として用いられたのは、むしろ例外であった。他には函館、札幌、秋田、岡崎、愛知、大阪の各馬車鉄道があげられる。
  日本最初の路面電車として、明治28年(1895)、京都電気鉄道が開通した。次いで同31年に名古屋電気鉄道、同32年には川崎の大師電気鉄道が、同36年には、東京馬車軌道を電化した東京電車鉄道と東京市街鉄道、そして大阪市営電気軌道が、翌37年に土佐・横浜・東京の各電気鉄道が開業する。同39年に東京の3社は合併して東京鉄道に、同43年に神戸・福岡、44年に東京鉄道は東京市営となった。このようにして、主要各都市に路面電車が次々に開通した。
  明治33年、僅かに4事業者、43kmにしかすぎなかった路面電車は、20年後の大正9年には42都市、892km、昭和7年には最高の67都市、1,479kmに達する程に発展した。しかしながら、都市交通機関の主役として活躍してきた路面電車も、次第に台頭してきた乗合自動車に押される傾向が見え始める。その傾向を東京市で見てみよう。大正8年における東京市内各交通機関別利用全体を100とした場合、市電は79%と高い割合を占めている、しかし、その後は次第に漸減し、反面、他の交通機関の利用増加が見られている。(第5表)

第3 自動車交通の発展

(1) 自動車
  現在、我が国の道路を走っている4輪自動車は7,587万台を数えるが、その最初の一台は何時、誰がどこからもたらしたものであろうか。従来、幾つかの渡来説の中で、明治33年、皇太子(後の大正天皇)ご成婚を祝して米国の桑港在留日本人会が献上した電気自動車の「献上車説」と、同年、横浜の米国人が購入した米国製ロコモビル蒸気自動車であるとの「ロコモビル」説の2説が有力であった。しかし、その両説よりさらに2年ほどさかのぼる同31年2月6日、仏人テブネによって築地・上野間の試運転が行われている。日本に初めて自動車が披露された日である。
  その後、しばらくは話題も少なかったが、明治35年、東京京橋の食料品店「亀屋」、そして三井呉服店(三越)は、商品運搬用として自動車を導入した。また同じ頃、銀座の明治屋もキリンビールのビン型ボデイの運搬用自動車を購入している。貨物自動車の使用は、商品の運搬と同時に広告宣伝の役割が大きかったのである。
  その翌明治36年、事業家たちの意欲を大きくかき立てた催しがあった。大阪で開催された第五回内国勧業博覧会で、米国から出品された自動車が彼らの関心を呼んだ。この博覧会の会期中から年末にかけての僅か約半年間に、乗合自動車営業の許可を求めて、各地の起業家たちがぞくぞくと名乗りをあげた。その中で、最初の営業に漕ぎつけたのは、同36年9月試運転を開始した京都の二井商会である。しかし、故障や事故の続出で当初の評判は長続きせず、5カ月で廃業という予想外の終幕となってしまった。
  だが、この京都の失敗にもかかわらず、翌明治37年から同42年の間に、乗合自動車路線の出願件数は3府20県で47件を数えた。さらに計画中のものは、おそらくその3倍に達したのではないかといわれている。しかし、当時の悪路、自動車の損傷、乗合馬車の御者や車夫の妨害、コスト高などで経営は不成功に終わるのが多かった。
  一方、大正元年(1912)8月15日、東京有楽町に「タクシー自働車株式会社」が開業。わが国タクシー営業の誕生である。明治45年という年は、7月30日の明治天皇崩御、そして皇太子嘉仁親王践祚によって大正に改元された。この会社の創立は7月10日であるので、明治に発足し、大正に活動を開始したということになる。
  さて、我が国における自動車事業の発端について紹介したが、明治40年代に入るにつれて、自動車台数の増加がみられるようになってきた。先ず、黎明期における自動車への関心は、もっぱら皇族・華族そして富裕な政財界人の間に高まった。「世界一高級な玩具を楽しむ」と羨望されながら、ドライブなど活発な社交活動が展開された。大正元年における警視庁管内の保有台数は327台(推定)を数えている。
  このようにして、明治末期から次第に自動車実用化への萌芽が育てられた。大正期に入り、企業化はますます活発となり、全国的な広がりをみせてきた。その契機となったのが、第一次世界大戦時の好況と関東大震災復興時における自動車の活躍である。この機会をバネとして、自動車交通は一段と飛躍した。
  さらに、昭和期に入り、自動車性能の改良と米国における量産化、そして、フォード、GMの日本進出による価格の大幅引き下げ、月賦制度の導入などで非常に求めやすくなり、事業熱は大いに高まった。その結果、自動車業界は小規模業者の乱立と過当競争から、乱許や円タクという現象を生んだ。また、乗合自動車、貨物自動車業界の急速な発展により、鉄道・軌道は大きな影響を受けるに至った。
  ところで、逓信・内務・鉄道の3省で争われた陸運の行政監督権は、昭和3年に鉄道省の所管となり、同6年には、自動車交通事業法が制定された。この法律によって、膨れあがった小規模業者の整理統合が図られたのである。
  その後、昭和12年、日中戦争が勃発し、年を追って戦時体制が強化された。同13年の「国家総動員法」の成立や「陸上交通事業調整法」制定などによって、陸運産業は戦時交通統制と業界再編の強化の方向をたどることとなる。そして、3次に及ぶ石油消費規正と代燃化推進を余儀なくされ、併せて新車や用品の補充困難も重なって、輸送需要はますます増大するのに拘わらず、自動車輸送力は低下していった。

 (2) オートバイ
  明治29年(1896)1月19日の「東京朝日新聞」に「石油発動機自転車試運転」というタイトルの記事が掲載された。
  「昨年独逸に於いて発明したる石油発動機自転車は、極少量の石油を用い円筒内の空気を熱し、一種の促進機を働かして1時間60哩を疾走するものの由にて、十文字信介氏はさきに之を購入し数度試運転をなしたりしが、今19日午後1時より、東京ホテル前より乗り初め、川岸を西方和田倉橋へ走らしめ、坂下門前を廻り二重橋東に出て、緩急各種の運転を行いつつ衆覧に供すと云う」
  これは日本に初めてお目見えしたオートバイの試運転について、伝えたニュースである。その後、しばらく空白期間があったが、明治34年に上野で行われた「大日本双輪倶楽部秋期大競走会」の余興レース出場や、同36年の第5回内国勧業博覧会における展示なと、次第に人々の目にふれる機会も増えてきた。
  しかし、大学卒の初任給が20 〜40円の時代に、1,000〜2,000円もする高価なオートバイはとても庶民の乗り物ではなく、華族や富豪の子弟などのステ−タスシンボルであった。その中で、官庁への納入がすすめられた。大正5年(1916)に逓信省がサイドカー付きのオートバイを郵便輸送用に、同7年に陸軍がサイドカー付きを採用している。
  そして、同年、警視庁はオートバイによる交通の指導取締りのため、白バイの前身である「赤バイ」6台をスタートさせた。次第に増加し始めた自動車に対する交通指導・取締りにはオートバイの機動力がどうしても必要だったからである。
  その後、次第に価格も求めやすくなったので、大都会だけでなく地方にも愛好者が増加し、大正末期になると1万台を超えるようになった。ことにツーリング(当時は遠乗りと称した)やスポーツとしての走行を楽しむ愛好者が多く、各地にグループも結成されて遠乗り会やレースが盛んに催された。
  昭和に入ると、オートバイを貨物運搬用に改造した三輪車やサイドカーが、自動車の代用として、商店や会社・官庁に利用されるようになって、急速に普及していった。そして、国産車の生産がたかまり、昭和8年になると輸入車を凌駕するようになる。
  しかし、昭和12年、戦時体制下の石油消費規正によって、次第に利用も困難となり、同15年にはオートバイレースも全面禁止となった。そして、国産オートバイメーカーも軍需品生産体制に組み込まれていった。


第6表 自動自転車保有台数の推移                 
 │    年   │ 台  数│    年   │ 台  数│  
 │ 大正6年│    1,057│ 昭和4年│   20,212│  
 │ 大正10年│    3,422│ 昭和8年│   27,436│  
 │ 大正14年│   11,582│ 昭和10年│   50,041│  
   資料:日本帝国統計年鑑


浅草金竜山広小路馬車人力車往来之図
明治4年 二代国輝(トヨタ博物館提供)


道路交通政策史概観論述編> 第1編 前史> 第1章 道路交通の変化と発展> 参考文献

参考文献


第1節関係
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道路交通政策史概観論述編> 第1編 前史> 第1章 道路交通の変化と発展


*資料編目次

URL=http://www.taikasha.com/doko/chapt11.htm