訳者序文  絵を描くのが大好きな子供だった訳者は,高校時代に時実利彦氏の「脳の 話」や中山正和氏の「カンの構造」に出会い,創造的思考という一見複雑で 高級そうなこころの働きが,所詮は脳というモノに支えられており,単純な 操作の組合せで実現されているらしいことを知って,感銘を受けた.大学に 進んでから,教養課程の政治学の教授が推薦してくれた「パーティー学」と いう本から,チームワークと創造的思考の間に関連があることを知った.大 学紛争の最中,毎日のように同じようなスローガンを聴かされ,学生同士の 議論も必ずしも生産的なものとは言い難かったとき,異質な人と人,データ とデータの相互作用から新しいアイデアが生まれるという説は,一服の清涼 剤とも言えるものだった.  この説の主唱者が川喜田二郎という東京工業大学の先生で,黒姫高原で移 動大学と呼ばれる新しい試みを実施する計画だと新聞で読み,資格年齢に達 していなかったにもかかわらず,応募した.こうしてKJ法に出会った.  KJ法は川喜田先生が発明されたアイデア生成の方法で,我が国では産業 界,学界を問わず広く実践されてきた.しかし,そうした方法があることも, その方法に関わる理論も,そしてそれが日本で実践されている事実も,いっ たん海外に渡るとそれほど知られていない事実に気づく.  創造的な活動そのものや発想技法の実践をさらに一歩進めようとする人た ちには,そうした活動や実践の基礎に横たわる個人の心のメカニズムについ てのヒントが得られるだけでなく,広く海外のひとびとに,彼らが理解でき る合理的なことばで,KJ法を初めとする我が国の独創的な発想法や創造性 研究の成果を伝えるための枠組を与えてくれる本が必要だった.また内外を 問わず,人間の認知機能やそれを増幅する方法を理論的に研究している認知 科学者にも通じる,創造性についての共通言語の開発が待たれていたと思う.  認知科学者の側では,高次の認知過程,とくに創造的思考のような扱いに くいものにまで,関心が向けられるようになってきており,さまざまな発想 支援システムが提案されている.本書はその基礎を為す認知メカニズムのモ デルを提供し,実証的な裏付けを与えるものである.創造性は個人の努力に も,資質にも,またチームの協力的な活動や社会的,文化的な環境にも支え られた多面的な現象であるはずだが,とくに個人の認知に関わる側面では, 本書,「創造的認知」がきわめて有用だろう.  「創造的認知」の原著はテキサスA&M大学の心理学者,Ronald A. Finke, Thomas B. Ward, Steven M. Smith の3氏の共著になる,“Creative Cognition: Theory, Research, and Applications”The MIT Press, 1992 である.この 本の背景にある考え方は著者の一人であるスミス博士が寄せてくれた「日本 の読者へ」に要領よくまとめられているので,ここで繰り返す必要もないが, 視覚や視覚的なイメージ(フィンケ博士),発達や想像(ウォード教授), 記憶や問題解決(スミス博士)といった,心理学の中でも異なる専門分野を もつ著者らが,創造性や発想の基礎をなす認知的なメカニズムの解明を試み た野心的な仕事である.その特徴は (1)ジェネプロアモデルという創造的認知プロセスの一般モデルを使って, これまでの認知心理学の成果と創造的思考の認知的メカニズムを統合的に説 明していること, (2)心理学的な実験の手続きを創造的思考の研究に適用する方法を工夫し, 実践して見せたこと, にあり,この点で認知科学書としても,創造性に関する本としても類を見な い.ジェネプロアモデルは,新しいアイデアやものの発明に先行するパター ンの生成とその探索という2つの段階を表現していて,生成検査法(Generate and Test)という人工知能の古典的な技法と形の上では似ている.しかし,ど ちらの段階もこの技法の2つの段階よりはるかに複雑で,特に探索段階が単 なるあらかじめ性質のよくわかった解の発見ではない点が特徴的である.  どんな興味から本書を手にとったかたも,著者たちの目的とこの本の視野 が記された第1章と,創造的認知アプローチの基本的なモデルが説明されて いる第2章を注意深く読んだあとは,視覚的イメージ(第3章)でも,想像 (第6章)でも,記憶(第8章)でも,自分が最も関心を持つ分野を扱って いる章を入り口として進まれるのがよいだろう.さらに,モデルの主要なコ ンポーネントのそれぞれと,主にそれらを扱っている章との対応関係を示す 表を用意したので,これも必要に応じて利用していただきたい.  訳文は平易であるとともに,認知科学の標準的な言葉づかいから外れない ように留意した.このため日本認知科学会のメンバーである理工系,文科系 双方の研究者の中から,石崎俊(慶應義塾大学),楠見孝(東京工業大学), 鈴木宏昭(青山学院大学),野口尚孝(千葉大学)の各先生に原稿のチェッ クをお願いし,また,石崎研究室の学生である伊藤英二,竹下公一朗,坂口 琢哉,小林賢治,石澤賢,秋友美穂の諸君にも試し読みをしていただいた. この場をお借りして深く感謝したい.訳文がわかりやすいものになっていれ ばこの方々の貢献であるし,まだ難点が残っているとするならそれはもちろ ん訳者一人の責任である.専門の用語は訳語に原語を添え,外国人名のうち 明らかに文献を指示している思われるものについては,原語で記載した.こ れは本書を手がかりに英文の文献を参照しようとする方々への配慮である. また,心理学や研究法の用語で一般の読書になじみの恐れがあるものについ ては訳注をつけた.あるいは違和感を感じる方あるかも知れないがお許しを いただきたい.森北出版株式会社の星野定男氏と石田昇司氏からはこの訳書 の実現に向けて根気の良いご支援をいただいただけでなく,こうした細かい 点についてもご理解をいただき感謝している.  訳書をどなたかに捧げるというようなことを訳者がしてしまっていいのか どうかわからないが,発想法の精神を教えて下さった川喜田二郎先生に感謝 の気持ちをこめてこの本を翻訳したことを記しておきたい.  1999年6月6日 小橋康章