第3章 交通情勢 第1節 交通事情の推移  この期は、 自動車交通が飛躍的に伸びてますます交通の中心的役割を占めるようになったものの、 総合的な交通体系の整備は掛け声だけに終り構築されないまま推移した。 第1 モータリゼーションの急進展をもたらした諸要素 (1) 所有と生産  自動車(除く二輪車)の保有台数は、昭和42年に1,000万台超となった以後、 昭和46年に2,000万台超、昭和51年に 3,000万台超、 昭和55 年に4,000万台超、 昭61年に 5,000 万台超、 平成2年に6,000万台超(23年間に約4,800万台増加) となり、おおむね5年間に各1,000万台づつ増えるという急激な保有増となった。  昭和45年には乗用車の生産はトラックの生産を追い越し同年には乗用車の保有台数が貨物自動車のそれを上回って(8,966,955台>8,540,586台) 日常化し、 その後もとくに自家用乗用車の伸びが著しく、昭和45年(交通事故死者数最多年) を100とした指数で平成元年は375 (3,250万台超) となり、 個人所有の日常的交通機関として普及・定着した。  自動車のほかに二輪車(自動二輪、原付)の保有も増え、 昭45年末890万台弱が平成元年末には1,830 万台超となっている。 これらを車種別にその伸び率と 車種別の伸び率と構成率の変化表 │ │伸び率(指数) │構成率(%) │ │ │ 昭和45年│平成元年 │昭和45年│平成元年│ │乗用車(営)│ 100│ 116 │ 1.1│ 0.5│ │乗用車(自)│ 100│ 375 │ 30.5│ 42.8│ │貨物車(営)│ 100│ 237 │ 1.3│ 1.1│ │貨物車(自)│ 100│ 248 │ 28.8│ 26.7│ │そ の 他│ 100│ 180 │ 7.0│ 4.7│ │自   二│ 100│ 84 │ 18.2│ 5.7│ │原   付│ 100│ 377 │ 13.1│ 18.5│ │  計 │ 100│ 268 │ 100.0│ 100.0│ │合計台数 │28,386,962│5,395,247│ │ │ 運輸省:「自動車保有車両月報」 (各年12月末、原付等一部は4月1日現在。     軽自動車は、一括自家用に計上)    昭和45年は、沖縄を除く。  それぞれの構成率でみると、次表のとおりであり、伸び率の高いのは自家用乗用車、貨物車(営業用、自家用とも)、原付車であり、構成率が高くなったものは、自家用乗用車と原付車であり、これらは各世帯の必需品となったことを示している。   なお、自動車の保有率を人口10万人当たりでみた場合、昭和45年(除く沖縄)は全国平均178.9台あったものが同55年には 332.6台となり、保有率の高い群馬県では、228.9台が458台となっている。   また、昭和60年においては乗用車を2台以上保有する世帯が15%超となった。 (2) 運転免許人口   運転免許保有者は、昭和44年に2,000万人超(警察庁情報管理システム集計。除く沖縄)であったものが、 昭和48年には3,000万人超、昭和54年には4,000万人超、昭和59年には5,000万人超、平成2年には6,000万人超(21年間に約3,600万人増加)となり、これもおおむね5ヶ年間に各1,000万人づつ増えるという自動車の保有台数増と同傾向の急激な保有増となり国民皆免許時代と言われるようになった。   この結果、平成元年末における運転免許人口は、59,159,342人であり、これは全人口の48%、運転免許適齢(16歳以上)人口の60%である。   性別では、女性の保有者が増え、昭和45年対比での平成元年の指数は460 (1,700万人超) となって著しい増加となった。 これにより、この時点での女性の保有率は、43.5% (男性は78.2%) となり、 この傾向はその後も続いた。   また、年齢別の保有率(保有者/免許適齢人口。平成元年末)は、次のとおりであり、自動車運転免許が日常生活上の必要な資格となった。 年齢別運転免許保有状況(%) │ 年  齢 │  男 │ 女 │ │  16〜19 │ 39.3│ 24.0│ │ 20〜24 │ 90.0│ 75.4│ │ 25〜29 │ 96.0│ 80.7│ │ 30〜34 │ 94.7│ 76.0│ │ 35〜39 │ 91.6│ 68.0│ │ 40〜44 │ 92.9│ 63.2│ │ 45〜49 │ 87.8│ 49.4│ │ 50〜54 │ 83.4│ 34.9│ │ 55〜59 │ 78.1│ 22.6│ │ 60〜64 │ 71.6│ 13.1│ │ 65〜69 │ 61.2│ 4.9│ │ 70〜74 │ 44.4│ 1.3│ │ 75〜 │ 18.1│ 0.1│ (このデータは、全日本交通安全協会の資料による) (3) 交通量(走行台キロ)   自動車の走行実態(総量)は、走行台数と走行距離との積である走行台キロが最も優れた単位であるが、全量を実測したものはなく、「陸運統計」により二輪車を除く自動車について推計値が公表されている。   これによれば、昭和45年度に2,260億台キロ(軽自動車を除く。)であったものが、平成2年度は6,285億台キロ(車種別走行台キロの割合は、おおむね乗用車が58.2%、貨物車が40.7%、バスが1.1%)となり、この20年間に2.8倍に増加した。   このほか、建設省がおおむね3年ごとに実施している道路交通センサスには、都道府県道(高速道路を含む)について平日及び休日の1日間の昼間12時間を実測した数値がある。下表に示すとおり、昭和55年度は6.58億台キロ(乗用車、バス、小型貨物車、普通貨物車)であったものが、平成2年度は9.05億台キロとなっており、この10年間に1.4倍増加した。   高速自動車国道については、その延長に伴い、増加率が高い。ちなみに、自動車の総走行台キロは世界各国のうちアメリカに次ぐ台キロである。 第2 モータリゼーションの     進展による輸送形態の変貌 道路種別自動車走行台キロ │ │昭和55年度│平成2年度│ 指 数│ │ 高速自動車国道│ 38,933 │ 80,526 │ 2.1│ │ 都市高速道路 │ 12,316 │ 20,820 │ 1.7│ │ 直轄国道 │ 191,007 │ 242,528 │ 1.3│ │ 一般国道 │ 93,836 │ 148,720 │ 1.6│ │ 主要地方道 │ 156,748 │ 216,728 │ 1.4│ │ 一般都道府県道│ 165,874 │ 195,980 │ 1.2│ │ 合   計 │ 658,715 │ 905,351 │ 1.4│  建設省:「都市交通センサス」  この期は、人、物の移動(モビリティ)は、自動車を中心に増加した。 (1) 全輸送量の伸び   旅客輸送量は、輸送人員では、自動車(45年度は軽自動車、自家用貨物車分を除く)、鉄道、旅客船、航空の合計で、昭和45年度は40,605,671(千人)であったものが、平成元年度には77,259,742(千人)(指数190)となり、輸送人キロでは587,177(100万人キロ)であったものが、1,267,044(100万人)(指数216)と伸びた。また、貨物輸送量は、貨物トン数では自動車(45年度は軽自動車を除く)、鉄道、内航海運、航空の合計で、昭和45年度は5,253,192(千トン)であったものが、平成元年度には6,509,931(千トン)(指数124)となり、輸送トンキロでは350,264(100万トンキロ)であったものが、508,809(100万トンキロ)(指数145)となった。二度にわたる石油ショックにもかかわらずいずれも伸長をみせた。 (2) 自動車の輸送分担   自動車による旅客輸送の分担率は、輸送人員では、昭和45年度は59.2%であったものが平成元年度は72.3%となり、輸送人キロでは48.4%が66.7%と伸び、貨物輸送の分担率は、輸送トン数では38.8%から51.7%となるなど、自動車の輸送分担率が高まった。 (3) 年間一人当たりの移動   自動車による人の移動は次表のとおり、バスを除き増加した。   なお、女性と高齢者の自動車利用が増え、地域的には地方都市での利用が増加した。 一人当たりの年間移動 │ │ │昭和44年度 │平成元年度 │ │ 人│ 回/人 │ バ ス │ 114 │ 70 │ │ の│・年 │ 乗用車 │ 99 │ 288 │ │ 移│ km/人 │ バ ス │ 979 │ 886 │ │ 動│・年 │ 乗用車 │ 1,384 │ 4,513 │ 日本交通政策研究会「自動車交通研究」 (4) 自動車交通の日常化並びに交通層、保有車両の変化   この期は、人の移動の目的が社会の各層にわたり多様化、日常化した。 従来の交通目的は、通勤・通学、業務、 買物が主たるものであったが、旅行、レジャー、その他単なるドライブを楽しむものが増え、そのほか、通院、 その他社会施設への往復、家族、知人等の一定の場所への送迎、日常生活での小回り(例えば銀行、郵便局、スーパー、コンビニエンス・ストア、 風呂、パチンコ店、ゴミ出しなど)のための交通というように、あらゆる生活面に自動車が使われるようになって、全般的には夜間交通も日常化し、また、身体障害者、高齢者、交通不便者等トランスポーテーションプアと呼ばれる人々も当然のこととしてモータリゼーションの中に参入し、交通上のハンディキャップが低減されることとなった。   これらの自動車利用の日常化は車両の保有形態にも変化を見せ、客貨車兼用タイプの車両の保有増をみることとなった。 (5) 交通機関の消長   モータリゼーションの進展に伴い、従来の交通機関に消長がみられた。 ○ 国鉄は昭和56年3月に77の赤字路線の廃止を決め、昭和62年4月には分割、民営化され、115年の歴史に幕を下ろし、6旅客会社、1貨物会社として発足することとなった。 ○ 路面電車、トロリーバス   路面電車(公営・民営)は、昭和30年代の前半は相応の機能を果たしていた(都電−昭和30年度174万8千人/日(戦後最高))が、同年代後半に入って急速に悪化した。それは、大都市における自動車の増加と道路交通の混雑、自動車の軌道敷内通行による電車の運行速度の低下、企業内の合理化の遅れや、設備更新のコストがバスに代替するより高価であるとの経済的理由などにより、期待される都市交通機能と信頼を失った結果である。そのため利用者減と経営難の悪循環をもたらす結果となった。   このため、昭和32年には過去最高の営業キロ数を示したものの、昭和40年代にはバス、地下鉄に交通機関の地位を譲り、同43年ごろから一部を残して廃止された。(大阪−44年、神戸−46年、横浜−47年、名古屋−49年、京都−53年、以上全廃。東京−1線を残し47年までに廃止)   なお、無軌条電車(トロリーバス)も昭和43年〜47年の間に東京、大阪、横浜ですべて廃止された。(資料編第2-17・18・19) (注:昭和30年代後半にはニューヨーク、ロンドン、パリ等巨大都市でも、路面電車はすべて廃止されていた。)   この現象は地方の中都市にも及び、多くが撤去され、路面電車で現在残っているのは、公営では札幌、函館、熊本、鹿児島の4市(ほかに東京都1線)、民営では岐阜、豊橋、高岡、岡山、広島、高知、長崎など13社線、計18企業線となった。(資料編第2-13・14・15) ○ 路線バスは、明治36年に広島において乗合バス事業第1号が開業したが、戦中・戦後の輸送需要の変動を経て、昭和30年代後半に地域的路線網が形成されてほぼ完了の形となった。しかし、30年代末から40年代初頭をピーク(昭和43年の路線バスの輸送量101億4、000 万人)として輸送人員の伸びは鈍化、減少を始め、なかでも過疎地における輸送需要減が著しい一方、都市部においては通勤・通学の片道輸送が激増し、地方部においては昭和40年代初頭から、都市部においては昭和45年ごろから、いわゆるバス離れ現象が発生した。 ○ 地下鉄、民鉄、モノレール   路面電車の衰退、乗客のバス離れの反面、大都市の地下鉄の整備が進んだ。東京都を始めとして札幌、仙台、横浜、名古屋、大阪、京都、神戸、福岡の各都市では地下鉄が整備されて開通し、また民鉄との相互乗入れが行われるなど新たな交通網が作られた。   なお、昭和39年の東京オリンピックをを機会に羽田〜浜松町間に効率的輸送機関としてモノレールが整備され、新たな交通機関として登場した。 ○ タクシーは、高度経済成長の影響を受けて、昭和30年代後半から著しく伸び、大都市では相当の地位を占めるに至ったが、時間帯によっては需給がアンバランスとなり、さらに労働力不足も加わり、夜間の乗車拒否、不当料金請求、その他接客態度不良、粗暴運転が認められたが、同業界への参入規制もあり、白タクが発生・急増し、警察の取締りにまで及んだ。   なお、間隙産業として「運転代行業」「軽貨物タクシー」が出現し、また粗暴運転の代名詞ともなったいわゆる神風タクシーも出現した。   これらの状況下、個人タクシーが増加(平成元年9月末現在、法人20万7,000台、個人4万7,000台)する一方、タクシー等の利用者ニーズの変化に伴い、昭和45年には深夜タクシーの相乗り制(千葉県花見川団地)、昭和48年ごろからは乗合タクシーが普及し始め、昭和63年には大都市圏9都府県59系統で運行された。昭和52年にはジットニーキャブの運行開始、昭和53年には乗合ジャンボタクシー(大阪)開始、平成元年には大都市の深夜・定路線運行の開始、沖縄におけるいわゆる軽貨物タクシーの運行、昭和40年代からは自家用車代行運転の出現、昭和37年ごろからレンタカー事業の急激な発展等、タクシー等の利用方法の変容がみられた。   昭和63年の全国ハイヤー・タクシーによる輸送人員は33億2,600 万人(うち東京都は18.2%)で、JR、営業用バス、民鉄の合計309億人の10.8%を占めた。 ○ 貨物輸送   トラックによる貨物輸送は明治39年に東京を中心に運送事業として始められたが、輸送需要が少なく振るわなかった。一方、通運(鉄道貨物取扱輸送)事業は、明治5年の鉄道開業を契機に誕生し、昭和30年代までは鉄道貨物として陸上貨物の輸送の大部分を担当し、特殊会社日本通運株式会社(昭和12年〜25年)がその中核をなしていたが、昭和31年〜32年の「神武景気」を契機として同30年代後半の経済の高度成長に伴い、貨物輸送の需要が急増し、戸口から戸口への利便性が受け入れられてトラック輸送が急発展した。   この急増物流需要に対して、供給側としては、車両の大型化(4〜5トン車→10トン車へ、20〜30トンセミトレーラー、フルトレーラー、ダブルストレーラー(実験のみ))、専用化(バルキー貨物車等)、荷姿のシステム化(パレット化、コンテナ化)、高速道路利用による高速化、カーフェリー等による協同一貫輸送など物流の近代化、システム化が図られたものの、大型トラックの都市部への乗り入れの増加、過積載運行に伴う交通事故、渋滞、交通公害の発生をもたらした。 ○ 宅配事業   従来、郵便小包や国鉄の手小荷物に限られていた消費者物流に民間の宅配サービスが登場・普及した。昭和49年秋ごろから消費者物流の一環として宅配事業が行われるようになり、昭和50年代以降、事業者の大量の新規参入がみられ、当初一般家庭からの発着であったものが、企業が荷主又は受取人となる等に変化がみられ、その輸送量は昭和62年度においては7億6,200万個(郵便小包は1億9,600 万個)(運輸経済研究センター1989 年資料)に達し、輸送貨物も多様化してゴルフ、スキーのレジャー用品、産地直送品、無店舗販売品、ダイレクトメールにまで及び、業界内では「宅配便戦争」という言葉が使われるほどに成長する一方、事業生き残りのために厳しい多品種、少量貨物の獲得業務が展開されている。   利用者はその利便性、簡便性のため増加しており、新たな貨物輸送の形態が確立された。 ○ 物流システムについても、経済効率、渋滞対策、ユーザーニーズ、情報化の各観点から変化がもたらされた。   地域内輸送については、共同配送システム、宅配システムが構築され、地域間輸送と地域内輸送との結節点として昭和40年代後半からトラックターミナルの整備による同施設の利用、貨物輸送のジャストイン・タイム方式の利用または配送デポの展開などが行われた。   また、貨物輸送についてコンテナ利用による複数交通手段の一貫輸送等が普及した。 ○ 自転車   イタリア映画「自転車泥棒」(1950年)は、一市民が唯一の生活手段である自転車を盗まれ、それを死物狂で探し回る第二次大戦後のローマの悲哀物語であるが、わが国においても、自転車は戦後の一時期は交通利便性の高い生活に密着した高価な財産であった。相当期間(全国的には明治13年ごろ〜昭和32年度)自転車は税の対象物とされ、地方自治体による徴税・鑑札制度により運用されたが、昭和33年にはこの制度は廃止され、以降、高度経済成長に伴い、モータリゼーションの進展と軌を一にして、その個人所有と利用が増伸を見、昭和46年には、3,000万台超、平成元年には6,000万台超と推算されるに至った。(推算は自転車統計要覧、(財)自転車産業振興会)そして、当初は実用車が中心だったものが、普及とともに軽快車に移行し、その利用の実態と特徴からママチャリとも呼ばれ、また、自動車交通への反撥からバイコロジーあるいはサイコロジーという言葉さえ使われるようになった。   第2節 交通障害等の推移 第1 交通事故の発生状況 (1) 事故の推移   前期に激増をみせた事故の発生は昭和45年には遂に発生件数、 死者数、 負傷者数がピークとなり、 最悪の状態となった。  しかし、 昭和46年以降昭和52〜54年までは減少し、 ピーク年以降の最低値までに減少した。  だが、 この減少傾向は持続せず、再び微増に転じた。(a表 参照)なお、 交通事故の発生状況は、ひとつの指標として死者数を取り上げる例が多いが、その死者数については、昭和34年に1万人超となって以来、 昭和50年まで17年間にわたり1万人超が続き、昭和54年に8,466人となってピーク年に比べほぼ半減したものの、以降再び微増し、昭和63年には再び1万人超となった。 注. 世界各国における交通事故死者数と比較するに便利な 「30日以内死者」 は、 上記警察統計 (24時間死者) のおおむね1.2倍であり、厚生省統計(1年以内死者)はおおむね1.3倍である。 事故の発生は、 自動車の保有増、交通の需要増に伴い、 都市部に限らず地方部に拡散し、 日本全土の問題と化した。   交通事故死者数が昭和45年16,765 人をピークに昭和54年 8,466人とほぼ半減するという目をみはるような成果を収めたのは、全国の交通事故多発地点・路線等を対象に a表 事故の推移 │ │ 件 数 │ 死 者 │ 負傷者 │ │ 昭和45年 │ 718,080件│ 16,765人│ 981,096人│ │ │ (100)│ (100)│ (100)│ │ 昭和52/54年│ 460,649件│ 8,466人 │ 593,211人│ │ │ (64)│ (50)│ (60)│ │ 昭和63年 │ 614,481件│ 10,344人 │ 752,846人│ │ │ (86)│ (62)│ (77)│ (  )は指数  交通事故分析を行い、その減少のための施策を重点的、計画的に講じたこと等によるものであるが、その具体的な施策内容は次のようなものがある。 @ 交通事故多発地点について、信号機の設置、横断歩道の設定、交差点におけるチャネリぜーションによる交通流の配分、車線の設定、追越禁止などのほか、立体歩道橋、歩道、ガードレールなどの施設を交通安全施設整備事業の3ヶ年計画、5ヶ年計画などの予算を確保、実行したこと。 A 交通の指導取締等、街頭における警察活動が強力かつ活発に行われたこと。 B 交通安全協会をはじめ民間の団体による交通安全広報、交通安全教育が熱心に行われたこと。 C 新聞、ラジオ、テレビ等のマスコミによる交通安全キャンペーン活動が展開されたこと。 (2) 死傷別、類型別、昼夜別の事故の推移   上記各項目について、昭和45年(51年)と同63年を対比した場合b-1表〜b-3表のとおりである。 (死傷別)(b-1表)   事故件数は死・傷事故のいずれも減少したが、構成率は負傷事故については僅かに増加(97.8→98.4%)、死亡事故は減少した(2.2%→1.6%)。 b−1表 死傷別数 │ │昭和45年 │昭和63年 │ │ 事故件数(全)│718,080(100.0)│614,481(100.0)│ │ 死 │死亡事故│ 15,801( 2.2)│ 9,865( 1.6)│ │ 傷 │負傷事故│702,279( 97.8)│604,616( 98.4)│ │ 別 │  計 │718,080 │614,481 │ 昭和45年は沖縄を除く。 (類型別)(b−2表)   類型別の事故件数は、「車両相互」の(負傷)事故が増加した以外はいずれの類型でも減少したが、構成比については「車両相互」の負傷事故と、「車両相互」および「車両単独」の死亡事故が増高し、刺激的表現ながら「走る凶器」型から「走る棺桶」型に移行したと言われるようになった。   死亡事故の7割は車両乗車中の事故であり、歩行中事故は3割弱と減少した。   なお、最も発生の多い「車両相互」事故は、全事故の7〜8割、死亡事故の4割強を占めている。その類型別比率(全事故を100% 昭和63年)は、負傷事故では出合い(25.9)、追突((22.5)、右折時(11.2)のものが多く、死亡事故では出合い((13.2)、 b−2 類型別件数・構成比(%) │ │ │ 昭和45年 │ 昭和63年 │ │ 全│ 人対車両 │ 171,027(23.8) │ 83,427(13.6)│ │ 事│ 車両相互 │ 492,921(68.6) │ 499,771(81.3)│ │ 故│ 車両単独 │ 52,427( 7.3) │ 30,990( 5.0)│ │ 件│ 踏 切 │ 1,705( 0.3) │ 293( 0.0)│ │ 数│  計 │ 718,080 │ 614,481 │ │ 死│ 人対車両 │ 5,774(36.5) │ 2,882(29.2)│ │ 亡│ 車両相互 │ 6,434(40.7) │ 4,381(44.4)│ │ 事│ 車両単独 │ 2,906(18.4) │ 2,470(25.0)│ │ 故│ 踏 切 │ 687( 4.4) │ 132( 1.3)│ │ │ 計 │ 15,804(100.0)│ 9,865(100.0)│ 「車両相互」類型別構成比(%) │ │ │ 昭和45年 │ 昭和63年 │ │ │ 負│ 正  面 │    6.8│ 5.3│ │ 車│ 傷│ 追  突 │ 24.0│ 22.5│ │ 両│ 事│ 出 合 い │ 14.0│ 25.9│ │ 相│ 故│ 右 折 時 │ 9.9│ 11.2│ │ 互│ │ 進路変更 │ 6.9│ 8.8│ │ の│ 死│ 正  面 │ 13.9│ 13.0│ │ 類│ 亡│ 追  突 │ 5.7│ 5.1│ │ 型│ 事│ 出 合 い │ 6.3│ 13.2│ │ 別│ 故│ 右 折 時 │ 4.8│ 5.4│ │ │ │ 進路変更 │ 4.8│ 4.3│   正面(13.0)の事故が多く、45年/63年の対比でみた場合は負傷・死亡事故とも正面、追突時のものが僅かに減少し、出合い時、右折時のものが著増するなどの変化をみせて交通流が複雑になったことを窺わせる。  (昼夜別)(b−3表)   事故発生の昼夜別割合は、全事故については、昼7割、夜3割であるが、死亡事故については昼5割弱、夜5割強である。   事故件数の増減傾向(51年/63年)は、昼間の死亡事故が僅かに減ったが、全事故(昼・夜)および夜間の死亡事故が増えた。 b−3表 昼夜別件数・構成比(%) │ │ │昭和51年 │昭和63年 │ │ │ 全│ 昼│ 340,532(72.3) │ 425,767(69.3) │ │ 昼│ 事│ 夜│ 130,534(27.7) │ 188,714(30.7) │ │ ・│ 故│ 計│ 471,066(100.0)│ 614,481(100.0)│ │ 夜│ │ 昼│ 4,461(41.5) │ 4,345(44.0) │ │ 別│ │ 夜│ 4,735(51.5) │ 5,521(56.0) │ │ │ │ 計│ 9,196(100.0)│ 9,865(100.0)│ (3) 車両数、人口当たりおよび状態別  の死・傷者(c表)   交通事故による死・傷者は、45年/63年対比では、いずれも減少し、自車1万台当たり、人口10万人当たりの死傷者数も著減をしめした。ただし状態別の死者数は、「自動車乗車中」、「二輪車乗車中」、「自転車乗車中」、「歩行中」、「その他」の何れの場合も減少したが、死者数に占める比率は、「自動車乗車中」および「二輪車乗車中」の計が約5割であったものが6割となるなど増加を示した。 c表 死傷者数/車両、人口、状態 │ │ 昭和45年 │ 昭和63年 │ │ 死 者 │ 16,765│ 10,344│ │ 負傷者(千人) │ 981.1│ 752.8│ │ 自動車1万台│ 死 者│ 9.0│ 1.9│ │ 当たり │ 負傷者│ 527.9│ 136.5│ │ 人口10万人 │ 死 者│ 16.1│ 8.4│ │ 当たり │ 負傷者│ 944.6│ 613.2│ │ │ 自動車│ 5,612│ 3,719│ │ │ 乗車中│ (33.5)│ (36.0)│ │ │ 二輪車│ 2,941│ 2,559│ │ │ 乗車中│ (17.5)│ (24.7)│ │ 状態別死者 │ 自転車│ 1,940│ 1,061│ │ │ 乗車中│ (11.6)│ (10.3)│ │ (  )は │ 歩行中│ 5,939│ 2,967│ │ │ │ (35.4)│ (28.7)│ │ 構成比 % │ その他│ 333│ 38│ │ │ │ (2.0)│ (0.4)│ │ │ 計 │ 10,765│ 10,344│ │ │ │ (100.0)│ (100.0)│ 注 昭和45年は沖縄を除く。 (4) 年齢層別の死者数   年齢層別の死者数は、次のd-1表のとおり経年にしたがって、著変が認められ、このため、交通安全上の世代対策が求められるようになった。   なお、年齢層別死者数を状態別で昭和55年と同63年の対比(指数55年を100)でみた場合、次のd-2表のとおり、16〜24歳の若年層と65歳以上の高齢者層がいずれの状態でも平均値を上回り、世代対策の必要性を示 していることが分かる。 d−1表 年齢層別死亡者数(%) │  年齢層 │ 昭和45年 │ 昭和63年 │  増 減 │ │ 15歳以下 │ 12.5│ 5.1│ 著 減 │ │ 16歳〜19歳│ 10.7│ 15.9│ 増 │ │ 20歳〜64歳│ 60.5│ 56.1│ 減 │ │ 65歳以上 │ 16.3│ 22.9│ 著 増 │ d−2表 年齢層別、状態別死者数対比 │ 年齢層│自動車│自二車│原付車│自転車│歩行中│ 計 │ │ │乗車中│乗車中│乗車中│乗車中│ │(含その他)│ │ 〜15歳│ 101│ 59│ 53│ 53│ 46│ 54│ │16〜24歳│※ 127│※ 214│※ 140│※ 113│※ 108│ ※ 149│ │25〜64歳│ 110│ 179│ 84│ 98│※ 112│ 109│ │65歳以上│※ 152│ 133│※ 149│※ 133│※ 138│ ※ 139│ │計(平均)│ 116│ 194│ 109│ 101│ 107│ 118│  ※は、平均値より高いものを示す。 (5) 死亡事故の原因となった車両運転者の違反   死亡事故において自動車等車両運転者が第一当事者である率は9割を超えているが、その中で高率を占めている違反種別は安全運転義務違反、最高速度違反、酒酔い運転であり、昭和63年中は安全運転義務違反(運転操作不適、前方不注意(漫然運転)、動静不注視、安全不確認、安全速度、その他)が37.1%、最高速度違反が25.8%、酒酔い運転が6.2%であり、この率には著変は認められない。 (6) 高速国道の人身事故   高速国道における人身事故の発生は、その供用延長距離によって逐次増加したが、昭和45年には649.3kmの延長供用に対して2,671 件(うち死亡事故119件)であったものが、昭和63年には4,402.9kmの供用延長に対して4,084件(うち死亡事故237件)となった。 第2 路上駐車と交通渋滞の状況 (1) 路上駐車   路上駐車は、@発生・集中交通量の多い建築物が集中している市街地において、Aそれら建築物における駐車施設・荷捌き施設並びに道路内外の駐車施設が不足・不備であり、これに加えてB運転者の駐車モラルの欠如によるものであるが、自動車の保有増および交通需要増は、必然的に路上駐車増と交通渋滞を招いた。   東京都区部における瞬間路上駐車台数(幅員4.5m以上の一般道での平日午後の四輪車)は、昭和50年代前半はおおむね15万台であったものが、昭和63年には20万台に達し、うち8〜9割は違法な駐車であった。(資料編第13-25)   同様に平成2年における大阪市の瞬間路上駐車台数は20万台(うち8.5割が違法)、名古屋市は13万台(5.5割が違法)であった。   なお、平成2年の全国道路交通センサスによる目的地での駐車需要(車庫代わり駐車需要を除く)は、790万台、そのうち路上需要は150万台(うち既成市街地100万台)と推計されているが、これに対する路上に設置された駐車枠は3万台に過ぎず、路外・路上とも整備の遅れがみられた。   ちなみに、平成2年における110 番通報による要望・苦情40万件のうち駐車に関するものは約13万件(31.9%)にのぼり、迷惑駐車が日常語となった。   しかし、義務化された自動車の保管場所の確保に関しては、その証明取扱件数が昭和47年には500 万件/年であったものが、昭和63年には1,000万件超/年となるなど堅実な実行がなされて推移した。   保管場所については、その後、軽自動車への適用、適用地域の拡大などが計画されることとなった。   路外の駐車場の整備については、駐車場法(昭和32年、法律第106号)により、都市計画駐車場、届出駐車場、附置義務駐車場が整備される仕組みになっていたが、整備の遅れが見られ、また路上駐車場、パーキングメーター、パーキングチケットについては、道路法、道路交通法により設けられる仕組みになっているが、やはり整備の遅れがみられた。   なお、路上駐車は、同車両への衝突事故の発生を招くこととなるが、昭和54年における死亡事故のうち駐車車両への衝突が原因となったものは1.4%であり、平成2年には、これが0.4%となった。同年における全人身事故の中にこの原因による事故が占める率は2.4%に達している。   さらに、路上駐車は、その場所の住民の住家への出入り、通行、営業を阻害するところから、多くの日常的トラブルを発生させ、所によっては住民の違法駐車監視活動まで行われるようになった。これと並行して自転車の放置が主として駅周辺に起こり、通勤者の歩行、営業の妨害が発生し、のちに法令の制定、条例の制定等を生むこととなった。   反面、医療機関の宅診、福祉機関の介護のための駐車、身体障害者の使用車両に対する駐車禁止規制の除外を求める声が大きくなり、警察においてそれらに対応した。   このほか、官公庁、学校等の一部において日曜休日に駐車場を開放する措置がとられるところもあった。 (2) 渋滞   交通渋滞は、各所で慢性化、地域的にも拡散化し、また特定の日、シーズンに特定の路線に恒常的に発生するようになり、各種の対策が打たれたが、現場的対応には限界がみられた。   すなわち、東京都における1交差点あたりの交通渋滞時間(平日の午前7:30〜午後7:30)は、昭和45年には2時間11分であったものが、昭和63年には4時間25分と約2倍になるなど、時間的にまた箇所的に増加拡大した。   このほか警視庁管内の特定の交差点(昭和57年までは344箇所、同58年からは455箇所)の平日の昼間における渋滞状況(渋滞時間延長)を指数で見た場合、昭和44年と同57年の対比では、100が218となり、同58年と同63年の対比では100が133となるなど、いずれも増加を示している。   なお、警察庁の平成元年5月の全国調査によれば、ほぼ年間にわたって300m以上の渋滞が1日に2時間以上生ずるいわゆるボトルネック箇所は1,583箇所であり、そのうち1,450箇所は交差点であった。   一方、全国道路交通センサス(1980/1994)によるピーク時平均旅行速度は、次のとおりであり、いずれも低下の傾向を示している。(単位:km/H)   高速自動車国道 82.9→78.3   都市高速道路  42.2→24.5   一般国道    39.3→35.9   地方道     36.2→32.4   平均旅行速度の低下は都市部において著しく東京・大阪においては18〜19km/Hに低下している。   同様に、道路交通センサス(昭和60年と同63年)によれば、幅員5.5m以上の改良済みの道路においても、混雑度1.0以上の区間は、(60/63)の対比でみた場合、DID(人口集中地区)区間の一般国道では、60.5%が75.0%と増加し、同地区の高速道路では28.9%が37.8%と増加し、一般国道のその他の市街地では38.1%が59.7%に増加するなど、いずれにおいても渋滞区間が増加している。  (注:混雑度1.0とは、道路の交通容量と交通量が等   しい状態をいう。)   さらに、別の視点から、交通渋滞の影響が大きいパトカーのレスポンスタイムについて警視庁におけるものをみてみると、急訴受理、パトカーの配備体制の整備にもかかわらず、特別区においては昭和45年に3分7秒であったものが、平成10年には4分34秒になり、多摩地区においては同様5分18秒が6分33秒となり、急訴事案に対する対応時間の遅れという社会的損失の増大をみている。   この状況に対して、道路整備その他交通容量を増やすことには限界があり、時間的にも間に合わないことから、交通の中で優先されるべき交通、つまり緊急交通、優先交通は何か、それをどういう風に処理すべきかという問題が現出し対応を迫られた。   そのほか、一般交通についても渋滞区間を避けた車が住宅地等を通り抜ける形で経路の変更がなされる、いわゆる抜け道問題というものが発生し、関係車以外の車両の通行禁止を望む声が高くなった。 第3 交通公害の状況  この期は、 道路交通に伴う生活環境及び自然環境の悪化が顕出した。とくに交通公害(大気汚染、騒音、振動)が新たなものとして大きくクローズアップされ、特定の健康被害のみならず一般的な生活環境の問題として提出されるに至った。  交通公害は、 他の公害、 例えば有機水銀、 カドミウム等による水質汚濁に基づく疾病として訴訟にまで発展した水俣病(昭和31年)、 新潟水俣病(昭和39年)、 イタイイタイ病(昭和30年)や、 硫黄酸化物などによる四日市ぜんそく(昭和35年ごろ)、京葉・水島の各コンビナート、川崎、尼崎、 北九州などの工業地帯における大気汚染などを背景として社会問題と化した。  まず、 自動車の排出ガスによる大気汚染は、 すでに昭和40年代初頭において東京都世田谷区大原町交差点の一酸化炭素によるものとされる大原ぜんそくが伝えられ、次いで、 昭和45年5月には、 東京都新宿区牛込柳町付近の住民に自動車排出ガス中の鉛の中毒の疑いが提起され、 さらに同年7月には、東京都杉並区立正高校グランドで運動中の生徒40人が倒れる光化学スモッグによるものとされる被害が発生、 同月21日には都内の被害届が 5,208人 (東京都公害研) に及び、 以後夏には各地の都市部でも発生、 昭和47年5月には東京都杉並区石神井南中学校では連続して発生し、 社会問題化した。  自動車の騒音については、 とくに幹線道路沿いの住民からの苦情が多発した。  このため、 国道43号及び阪神高速道路大阪神戸線の沿道住民からは昭和51年8月に道路管理者に対し、走行自動車から排出される二酸化窒素及び一定基準以上の騒音の差止めと損害賠償の請求がなされ、 川崎市及び大阪市西淀川区の住民からは、昭和50年代から60年代にかけて数次の自動車排出ガスの差止めと損害賠償の請求訴訟が為される等の道路(交通)公害訴訟が提起されるに至った。  しかし、排出物、騒音等と健康被害との因果関係は必ずしも明確であったわけではなかった。  また、 国立公園等においては、自動車交通及び道路建設による自然環境破壊が問題となった。 さらに、昭和50年初め頃からは、 スパイクタイヤによる粉じん問題が北海道、東北、北陸の積雪寒冷地の市街地部で発生した。  ほかに、一部では、自動車交通に起因する「低周波音」(100ヘルツ以下の音)が人体へ影響するとの報道がなされ、環境庁により調査が開始された結果、人体に及ぼす影響を証明できるデータは得られなかった。  公害(交通関係を含む)に対する苦情は、大気汚染に係るものは昭和45年は12,911件であったものが、同63年には8,978件と微減し、騒音、振動に係るものは、昭和45年に合計22,568件であったものが、同63年には騒音20,080件、振動2,666件となり依然横ばいの状況であった。(資料編第10-11)  このような状況に対し、 昭和46年の環境庁の発足、 国及び地方自治体による大気、騒音の測定局の設置、閣議決定(昭和59年8月)による環境影響評価の実施、米国マスキー法(1970年大気清浄法)を参考とした自動車排出ガス(CO、HC、NOX、黒煙)の規制措置、自動車騒音、 道路交通振動の規制措置等が執られることとなった。(資料編第3-10、11)  しかし、 環境基準の設定されている項目について、 その達成状況をみると、「二酸化硫黄」、「一酸化炭素」については良好であるが、 「二酸化窒素」については、幹線道路の沿道の自動車排出ガス測定局のうち、基準非達成は全国で2〜3割、自動車NOX法(注)指定地域では6〜7割に及んでいる。浮遊粒子状物質についても、基準非達成は全国で6〜7割、自動車NOX法指定地域で9割となっており、達成率は低い。 (注 「自動車から排出される窒素酸化物の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法」(平成4年5月))  「光化学オキシダント」は全国のほとんどの地域で基準をこえており、注意報レベルの出現日数が依然として多い状況にある。  自動車騒音については、 全国の沿道騒音測定地点で、 朝、 昼、 夕、夜の時間帯区分で、全ての時間帯で非達成が約6割、 いずれかの時間帯での非達成は9割になっている。  なお、 40年代後半から50年代にかけては、 街頭で勤務する警察官に対し、 派出所等に酸素吸入器を設置して利用させる等の健康対策も取られたほどであった。 「窒素酸化物」の環境基準適合状況 (NOx法特定地域) ┌──┬──────────────┬────┐ │ │達成率(%) │測定局 │ ├──┼──┬─┬──┬─┬──┬─┼────┤ │ │昭和│ │平成│ │ │ │62年度〜│ │ │ │ 63│ │ 2│ 3│ 4│ │ │ │62年度│ │元年度│ │ │ │平成4年度│ ├──┼──┼─┼──┼─┼──┼─┼────┤ │首都圏│ 27│ 37│ 29│ 25│ 26│ 45│ 89〜95│ ├──┼──┼─┼──┼─┼──┼─┼────┤ │大阪・│ │ │ │ │ │ │ │ │ │ 39│ 38│ 40│ 41│ 32│ 47│ 49〜57│ │兵庫県│ │ │ │ │ │ │ │ ├──┼──┼─┼──┼─┼──┼─┼────┤ │全 体│ 31│ 37│ 33│ 31│ 28│ 46│138〜152│ └──┴──┴─┴──┴─┴──┴─┴────┘ 「自動車交通騒音」の道路別     環境基準達成状況 │ 道路別 │ 測定点│ 基準達成測定点(%)│ │ 高速自動車国道│ 312│ 68 (21.8) │ │ 都市高速道路 │ 82│ 4 ( 4.9) │ │ 一般国道 │ 1,761│ 131 ( 7.4) │ │ 主要地方道 │ 1,153│ 125 (10.8) │ │ 一般都道府県道│ 778│ 130 (16.7) │ │ 市町村道 │ 803│ 181 (22.5) │  平成4年「自動車交通騒音実態調査報告」(環境庁)  これらに対しては、低公害車の開発等自動車という単体(発生源)対策のほか、円滑な走行に加えて交通総量の削減というような交通総量対策並びに路面対策、沿道対策等の道路側の対策が求められた。  さらに、交通体系の整備、都市構造の改善が課題として浮上したものの、いずれも即効的解決をみることはできなかった。  この間に、法令の整備による各種の規制の強化並びに公害測定技術の向上、自動車排出ガス還元技術の向上等技術面での対応、道路整備の際の環境アセスメントの実施などがみられたが、公害発生の実状は上記のとおり横ばいの状況で終始した。  なお、1980年代には地球環境温暖化が国際的に問題となり、平成4年(1992)6月ブラジルのリオデジャネイロ地球環境サミットでは「気候変動に関する国際連合枠組条約」が採択(平成6年3月発効)された。日本も締約国となったが、気候変動のもたらすところの温室効果ガスの中でもとくに重要な位置を占めるCO2については、その総排出量に占める自動車交通の排出量は約17%といわれており、その減量が強く要請されている。 第3節 個別的・特異現象(事案)  この期における交通事情及び交通障害等の推移の概括的状況は、 上記の通りであるが、ほかに次のような個別的・特異な現象、 事案が発生(派生)した。 第1 暴走族   昭和38年頃から若年層により主として二輪車で暴走し、高スピード、急発進、急ブレーキ、ジグザグ運転等によるエンジン音、タイヤ摩擦音と騒音をまき散らしていたカミナリ族と呼ばれていたものが、昭和40年頃からは四輪車も加わり、その規模が大きくなり、かつ悪化して、昭和47年4月には群集をも巻き込んで大規模騒動事案となった富山市の暴走事案、同48年には東名高速道路海老名サービスエリアでの暴走族グループ間の乱闘、昭和51年5月には死傷者が出た「神戸祭り」暴走事案が発生するなど規模の差はあるものの各地に及び、 社会問題化した。暴走行為も刺激を求めまた観客を意識する等その形態は変化、エスカレートする一方、 暴走族の組織化、 組織間の対立抗争に発展、 殺人、傷害、凶器準備集合、 シンナー吸引等の刑事法犯にも及び、本来的な自動車の用法を著しく逸脱するというモータリゼーションの鬼っ子(反社会的)現象が派生し、 これは現在に至るも消滅していない。   警察庁が把握した暴走族グループは、全国で昭和48年は611グループであり、平成元年の状況は、グループ数552、総人員35,472人(グループ未加入が約70%)、走行回数5,875回、人員150,349人、参加車両70,340台(うち、二輪車57.5%)、暴走に関する110番通報114,936件であった。   そして、この間(昭和63年まで)で暴走およびい集状況等の最も多かった年は、回数−昭和63年(5,713回)、参加人員−昭和53年(延293,000人)、参加二輪車−昭和53年(延54,000台)、参加四輪車−昭和53年(延85,000台)、補導人員−昭和55年(7,158人)となっている。   なお、暴走族構成員と認められる者について、平成5年の警察庁調査(計2,153人についての構成率)によれば、  @年齢別では次表のとおりであり、 │年齢│〜15│ 16 │ 17 │ 18 │ 19 │20〜21│ 計 │ │ % │ 4.5│15.1│32.1│23.8│15.8│ 2.7│ 100.0│ A身分別では、学生18.9%、有職者62.0%、無職者19.1%、 B学歴別では、中卒41.4%、高校在学13.7%、高校中退33.1%、高校卒8.5%、 C運転免許別では、無免許32.0%、免許取消中6.6%、何れかの免許あり61.4%、 D交通違反歴別では、違反なし19.8%、違反あり80.2%、 E非行歴(交通関係を除く)別では、非行歴のないもの22.6%、犯罪行為のあるもの22.1%、不良行為があるもの29.2%、犯罪と不良行為のあるもの26.1%、 F暴走族グループへの参加状況は、加入47.2%、加入していた27.7%、加入していない25.1%となっている。   このような暴走行為、暴走族の実態に関連して、@少年に対する二輪車免許の在り方、A暴走行為、グループ間の対立抗争に対する制圧、捜査方法、科刑の在り方、B少年非行との関連性、C暴力団との関係などについて具体的、効果的対策が求められた。   しかし、全国的、全体的傾向は把握できても、個別的には年齢に応じて新規参加と離脱が繰り返されて交通社会における特異な社会層(グループ)を形成し、排除困難な厄介な存在となっている。 第2 車両改造   上記暴走族出現とほぼ期を同じくして、 自動二輪車のハンドルを変形ハンドルに改造したものの流行、 車高を極端に低くしたもの、ワイドタイヤに装着し替えたもの、 消音器の中途カット、 警音器の改造、など安全性を損ない、 迷惑性を高める車両改造が流行し、 一部業者がこれに加担した。 第3 新規犯罪   モータリゼーションの進展はまた新しい犯罪を産むこととなった。国際運転免許証の偽造、 あたり屋による保険金詐欺、いわゆる車庫とばし、ひき逃げ、ダンプカー等による家屋損壊、軽油引取税脱税等の各事件であり、 また運輸面においてはタクシーの乗車拒否、白タク、白トラ、白バス運行等の運輸法規免脱行為が時の社会情勢を反映した形で発生した。 第4 国際的連動、 波及   モータリゼーションはその性質上一国のみで完結・維持することは困難であるところから、 国際的な諸条件・動静に従って新たな展開を見せた。   中東からの石油輸入減少に伴うエネルギー消費節約としてのマイカー使用自粛、 経済速度走行の推奨、 米国発信のマスキー法による排出ガス規制への対応、 欠陥車指摘によるリコール制の採用、米国、欧州、 豪州発信のシートベルト、エアバッグの車両備付とユーザー装着の着務化、技術開発に伴う主として日本発の四輪駆動、 アンチロックブレーキの採用による車両機能の向上、 米国要求の海陸一貫輸送器たるコンテナ輸送の規制緩和など、 国際的レベルでの対応が求められ実施された。   国際運転免許証の偽造(フィリッピンにおけるものが多かった)も国際交流がもたらしたものである。 また、 外国発の交通対策も大きな話題を提供した。 英国における歩車分離思想に基づくブキヤナン・レポート、オランダのデルフト市で採用された歩車共存思想に基づくボンエルフなどである。 第5 高速道路等事故   高速自動車国道は昭和45年対比昭和63年現在で供用延長は 6.8倍、 通行台数 (台/年)は7.3倍 (8億5,400万台)となったが昭和40年代後半から50年代前半にかけては重大事故が発生した。 昭和46年9月10日東名下り線(静岡県下)で大型16台の玉突き事故(死1 重軽傷13)、 昭和47年2月1日東名下り線(静岡県下)での濃霧のための自動車33台の連続追突事故(63人死傷)、昭和54年7月11日東名下り線(焼津市)日本坂トンネルで車5台玉突き衝突炎上事故(死者7、傷者2、炎上車両173台)などである。   また、昭和43年8月18日、国道41号線において土石流によりバス2台が飛騨川に転落し、乗客104名が死亡する事故があり、道路管理が問われた。