Author: 道路交通問題研究会, All Rights Reserved
Date : 2004年11月12日 (作成)


道路交通問題研究会編

道路交通政策史概観

論述編

第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ 昭和30〜45年(1955〜1970)

拾遺録


 以上の各章において書き落したもの、書き残したものあるいは本文では適当でないと思われるものを拾い上げて拾遺録として述べておきたいと思う。
 私見にわたると思われる点やひょっとして思い違いをしていることも叙述の中にあるかも知れない。
 この点は読者において気づかれた場合は是非、編集責任者まで知らせて頂きたい。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第1話 交通課開設

第1話 交通課開設

 本文の中でも述べたが、昭和33年4月、警察庁に交通課が設けられたときその実員は課長以下9人であった。その中の一人は、建設省からとくに出向を求めた人である。
 すでにその前の警ら交通課の時から道路交通法令の改正に取り組んでおり、交通課になったときは、検討のための法案要綱を纏めなければならない時期であった。
 法案を作るためには、警視庁はじめ各都道府県警察の要望及び意見を聞かなくてはならないし、関係行政機関に対しては考え方を提示して折衝を繰り返さなくてはならない。夜を日につぐような日々であった。
 交通課が設けられたとき宛てがわれた部屋はビルの地下の一角であり、当時は冷房などの設備はビル全体になかったので、夏が近づくとまことに暑くその上空気の流通が悪いので、雨の日はじめじめとして湿っぽく、誠に恵まれぬ居住環境であった。今から40数年前のことである。
その中での法案作りの作業は仲々能率が上がらず、やむを得ず真夏の一ヶ月は日本旅館の一室を利用させてもらうことにした。といっても借り切りなどという贅沢なものではなく、その日空いている部屋を朝から夕方4時頃までという借り方であった。それでも冷房のサービスもあり、全員頭を冷やしてシャツ裸のねじり鉢巻でけんけんがくがくの議論を重ねながら要綱作りを行った。
 後日、口さがない人たちから「道交法案は、宿屋で作られた」などとからかわれたけれど、現実は“緊急避難”のようなものであった。
 道路交通法が成立したときは、ビルの最上階の大会議室を臨時に間仕切りをして作ったベニヤ板で囲まれた部屋であった。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第2話 道路公団発足の頃

第2話 道路公団発足の頃

 昭和31年道路公団が発足して間もない頃、将来建設される高速道路の管理についていろいろな問題があった。とくに高速道路の交通規制について警察庁と建設省及び道路公団の間で論議が交わされた。道路公団としては「公団で建設し公団で維持管理する道路であり、しかも行政区画による区分のない道路であるから、道路交通取締法(昭和31年当時)に定める道路交通の禁止制限等の措置は公団で行うようにしたい」という意見である。これに対し、警察庁は「高速道路を例外とする理由は見当たらない。」また、道路についての規制が都道府県公安委員会で行われるため斉一を欠くおそれがあるという意見については、「高速道路が使用に供せられる頃には国家公安委員会による規制の斉一を図る措置がとられ得るように法令の改正を行う準備をしている」旨を答えた。
 高速道路の管理については、公団と警察の両者で緊密な連絡を取って利用者に迷惑のかかることのないようにするということで一応の合意を見たが、公団としては割り切れぬ気持ちは残っていたと思う。
 偶、その頃筆者はアメリカ国に交通事情視察に出張することになり、道路公団に挨拶に行ったところ当時の公団総裁の岸道三氏から、「アメリカ国における高速道路の管理の態様を調べて欲しい」という依頼を受けた。快く承知してアメリカ国滞在中、太平洋岸のフリーウエーといわれる自動車専用道、ターンパイクといわれるニュージャージー州の有料道路を視察した。アメリカ国では交通規制は、警察の職務ではなくそれぞれの道路管理者の所掌となっている。帰国後これらの道路の管理体制等について岸総裁に報告するとともに、アメリカ国の道路交通事情について視察した所見を述べたところ、大変関心を示し「職員の教育のため、是非、地方の支社の者に話をして欲しい」ということで、二三の支社で講話する羽目になった。道路公団創設の頃は今では想像もつかない程、情報は不足していたのである。
 その後、公団の管理する高速道路は大発展して、今や高速道路網といってもよい程になっているが、当初の頃は「利用者は少ないし、観光道路なのか」という厳しい批判をする人もある程だった。その頃のわが国の交通事情は、僅かな時間の経過の中で革命的変化を遂げていたが、高速道路の場合も例外ではない。
 恐らく公団としても、発足の頃は予想もしていなかったような事態が生じ、そのための対策に追われるようになってきたと思われる。高速道路の管理の上で道路の効率的な有効利用と、交通秩序の維持と安全確保ということが、どのように調和を保って行われるかということは、管理者としての最重要のテーマである。
 このテーマに基づいて、公団と警察が寸分の隙もない緊密な一体的な運営が行われることを期待したい。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第3話 交通公害の始まり

第3話 交通公害の始まり ―泥はねと警音―

 昭和30年頃のわが国の道路は、まことにお粗末なものであった。雨が降ればぬかるみとなり、日がてれば土ぼこりが舞い上がるという状態であった。本文でも詳しく述べているように、舗装のある道路は、大都市を除いては市街地の中心位のもので、土煙の立つ道路が大部分であった。その上を大型のトラックやバスが運行するようになると、至るところに穴ぼこができてくる。雨が降るとその穴ぼこが水溜まりになる。その上を自動車が走る。歩行者は泥水をはねつけられて“逃げまどう”ことになる。昭和30年前後の時期はこういう状態だった。
 多数の人から警察に対して苦情の訴えがきた。若い女性が晴着を泥に汚されて裁判にまで持ち込んだ例もある。マスコミも取り上げた。交通公害の始まりである。
 警察でもこれに対処して、法規制を考えたが、実効の確保が期せられないものを法令として定めることは極めてむずかしい。
 その頃、警察庁の警ら交通課の技術担当官の所へ泥よけ装置と称する品物の試作品が持ち込まれてきた。僅かな間に20種類位のものが持ち込まれた。一つ一つについて実験をしてみたが、効果の上では殆ど期待できないアイデア商品というところであったようだ。それに係わってこういうエピソードがある。
 小説の主人公にもなったある相場師が夢の中で天の啓示を受け、これこそ絶対効果のある泥よけ装置であるというものを発案し、それを製品化して会社を作って販売したというのである。その後その製品が大いに売れたという話は聞いていない。
 警察庁も、関係行政機関と泥はねの防止について協議した。
 泥はねの根元は道路にあり、その対策が先決であるが、道路の改良ということになると直ちに効果を期待することはできない。自動車の保安基準で対策を考えても、差し当たっての要請に応えることはむずかしい。結局、当面は道路交通法令で自動車の運転者の注意義務を定め、それを励行させるということに落ち着いた。
 「ぬかるみ又は水溜まりの場所を通行するばあいにおいては、泥土汚水等を飛散させて他人に迷惑を及ぼすことのないように、泥よけ器を備えるかまたは徐行する等して、車馬を操縦すること」という規定を道路交通取締法施行令の「操縦者の順守事項(第17条)」の中に書き加えた。
 自動車が鳴らす警音器の音が、問題になった。昭和31年頃の参議院の地方行政委員会で、この警音器の警音が取り上げられ、これに対処する方策等について屡次に亘って質問が行われた。マスコミでも記事及び社説で取り上げた。
 市民からの苦情が警察庁にも寄せられた。「東京の銀座4丁目交差点の警音器の警音を調べたところ、ニューヨークの都心の交差点の150倍、パリの交差点の2,000倍である。」という資料が示された。
 当時の道路交通取締法では、「見通しのきかない交差点、坂の頂上付近、曲がり角、横断歩道又は雑踏の場所」を通行する時は、「警音器を鳴らし、又は掛け声その他の合図をして」徐行しなければならないと定めていた。もっともその場合も「安全な運転のために必要な場合を除き警音器を鳴らさないこと」という運転者の義務は定められていた。この規定の下においては、横断歩道や雑踏の場所を自動車で通行する場合は歩行者に対して注意を喚起するため、警音器を鳴らさなければならないものと、取締りの側の警察も運転者も共に理解していた。自動車の運転者は、見通しのきかない交差点、坂の頂上付近、曲がり角などでは当然に警音器を鳴らすことは義務と考えていた。自動車の交通が増加するにしたがって警音器の使用はますますはげしくなった。
 警音器の発する警音が騒音化したのは、極く自然的なものであった。この騒音について如何なる対策を実施したかは本文で述べられているが、警音公害に限らず道路交通にかかる問題は、世論に耳を傾け、世論に応えて、できるだけの対策を講ずることが必要なことを痛切に感じさせる事例である。
警音器による騒音対策についての裏話がある。
 警視庁が特別区警察としての警視庁の頃、昭和28年頃だったが、騒音対策を実施したことがあった。ところが失敗ではないが成果が上がらなかった。昭和33年警察庁で騒音対策を考えたとき、もし東京で再び成果が上がらないことになると騒音対策が決定的なダメージを受けるおそれがあると考えて、先ず、大阪府警察で実施し、その結果を見て成果が上がった場合はその実施要領をパターンとして東京はじめ全国に及ぼすことにした。この旨を受けて大阪府警で徹底した対策を実施した。「警察官は脇役に徹し自動車の運転者を主役にし、歩行者を準主役にする」筋書きを作った。この筋書きは見事に運転者の心理をとらえた。運転者が主役を演ずるようになった。警察官は脇役に徹するとともに、時には黒子になって運転者を助けた。歩行者もこの騒音対策劇に引きずり込まれて準主役の役を演ずるようになった。成果は大きかった。  自動車の騒音に苦しめられて夜も眠れなかったという病院の患者から礼状が大阪府警に寄せられたそうである。
 同じ頃、アメリカ国のメンフィース市の徹底した騒音対策とその成果を語るパンフレットが届けられた。それによるとこの町では自動車だけでなく、工場の騒音も、上空を飛ぶ飛行機の音も完全に規制したという。その本の中で“ある旅行者があまりに静かなので目が覚めなくて、列車に乗り遅れてしまった”と書いて、徹底した対策の成果を伝えていた。そのメンフィースは今どうなっているであろうか。
 いろいろな交通に対する諸施策が行われているが、その中で自動車の騒音対策については、大阪も、東京もそして全国すべて、大きな成果をあげ、現在にまで及んでいる。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第4話 交通キャンペーンのはじまり

第4話 交通キャンペーンのはじまり

 警察庁の課長が資料を持って記者クラブを訪ねた。昭和32年の年末である。来年は何とか交通問題について記事を書いて欲しいというお願いであった。その頃、交通事故がだんだんに多くなり、死亡者も7千人を越えた。交通事故をなくするためには、何としてもマスコミの協力が絶対に必要だった。だが当時の記事は死亡事故であっても一段組のベタ記事といわれるものであった。
 ところが、ある事故を境にマスコミのキャンペーンが大々的に行われるようになった。後日、「神風タクシー事件」と呼ばれる交通事故の記事が発端となったのだ。その交通事故は、昭和33年1月30日に東京大学の赤門前で起こった。被害者は東京大学の学生で、サッカー部の選手だった。赤門の前の歩道に立っていたところへタクシーが突っ込んで、その学生をはねとばした。東大病院に入院したが翌日死亡した。そういう事故だった。
 この事故が起こったとき、すぐには記事にならなかった。数日経ってから偶々ある大新聞の記者がこの事故の模様を知って記事に取り上げたのである。この記事が読者の中に大きな反響を生んだ。「神風タクシーが将来有望の青年を轢殺した」という記事により「暴走するタクシー」の実情や「交通事故により全国で 7,000人以上の死者が毎年出ていること」などが明らかになった。端的に言えば、この記事を境にして交通事故というものに対する人々の眼が覚めてきたと言えようか。
 こうなると、他の大新聞も放ってはおけない。昭和34年初頭頃から「交通戦争」という言葉がある大新聞で使用されるようになった。言葉はいささか物騒であるが、その新聞によると昭和30年頃からの交通事故による死者及び傷者の状況は、日清、日露戦争の死者の数字と比較してもさして変わらない程の大きな数字であり、これはまさに「戦争」といってもおかしくないということであった。交通事故の実態が多角的に取材され、「交通戦争」という名の特別企画記事も記載されるようになった。
 同じ頃、長距離運送の貨物自動車の事故が目立つようになり、その事故の原因を調べると、運転者の過労ということがわかり、その過労は長時間の継続運転の結果であると認められた。
 ある大新聞がこの事実に眼をつけ、「神風トラックの事故」というようなタイトルを掲げて、長距離貨物運送のトラックやその頃矢張り取締り上問題になっていた砂利などの建材を運送するトラックの実態を取り上げてキャンペーンを展開した。
 このような昭和33年初頭から35年にかけての大新聞の徹底したキャンペーンは、世論の形成にも大きな力を発揮したが、それ以上に関係行政当局に強い刺激を与えることとなった。運輸省では、「神風タクシー」の実態調査、「長距離トラック」の運送の実態調査等を行って、神風タクシーの事故防止を図るための法令の改正を行い、(昭和33年6月)また、長距離トラック等の路線業者に対し、運行管理の強化を義務付ける等(昭和35年8月道路運送法の一部改正)運送事業の観点から交通事故防止を図ることにした。警察庁でもかねてから検討中の道路交通取締法の全面的な改正に着手した。
 課長が書類を持って記者クラブを訪問してから僅か一年足らずの間の大変化である。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第5話 道路交通法の制定余話

第5話 道路交通法の制定余話

 一つの法律が無事成立するまでにはかなり長い年月を要し、諸々の手続きを経なければならない。道路交通法の場合も、昭和32年に法改正の準備に着手して以来、昭和35年6月に国会で成立するまで3年間の年月を要している。原局である警察庁で案を作り、内閣法制局の審査を経て内閣より国会に法案として提出し、参議院及び衆議院で審議されるという段階は表通りの歩みである。しかし何れの法律も、それが無事成立するまでの間には、表には出ていない裏話が必ずある筈である。そしてその裏話の中にこそその法律の真実が秘められているかも知れないのである。ここで書いておきたい道路交通法の制定の裏にある余話もまたそういうものである。
○ 昭和30年、交通事故の多発傾向に対処して、政府が決定した交通事故防止対策要綱は、交通事故防止のための道路交通関係の諸法令の検討を求めており、警察庁において道路交通取締法の改正を意図したのも、この「対策要綱」に応えるためであった。しかしこれとは別の視点に立った法改正の意義が考えられていた。すでに繰り返し述べているように、昭和30年前後の道路交通事情は、文字通り混沌とした状態であり、そのような中から死者傷者を伴う交通事故が発生し、その数は月を追い、年を追って増加する傾向にあった。これに対し、政府も国会も、一応の関心は示しても積極的な施策ということになると、余り熱意は感じられなかった。マスコミもキャンペーンを張る程の関心はなく、一般市民も交通事故は対岸の火災という無関心さであった。ひとり警察だけが笛を吹いたが力がないためか誰も踊ろうとしなかった。
  どんな笛をどのように吹けば、それぞれが踊りはじめるであろうかを考えた。普通ではない。切羽詰まった焦りである。道路交通取締法を改正しようと考えたのはその時期である。
  法律案を国会に提出し審議されれば、そのこと自体一つの政治問題となって「国会議員の方々にも関心を持っていただける」と考えた。国会で論議されれば必ずマスコミが取り上げる。マスコミに取り上げてもらえば一般国民が関心を持つ、かくて交通問題は表舞台に出ることが出来る。いささか勝手すぎる三段論法的思考である。
  全く偶々のことであるが法案を検討している頃、第4話で書いたマスコミのキャンペーンが展開され、半年程の間に交通問題の記事が新聞紙上に踊るようになった。法案作業はまさに帆に追い風を受けた感じであった。三段論法思考による秘かな作戦は三段跳のように表舞台で展開することができた。
○ 法案作りは苦闘の連続である。その中の余話である。用語の話である。道路交通取締法及びその付属法令には古いと思われる用語が戦前のまま使われているものがある。だが、用語には文字だけではない深い意味が込められているし、また、長く使われている間にだんだんに泌み込んでいった意味がある。言葉が古いというだけで適当な言葉に取りかえることはできない。道路交通取締法に、「車馬」という用語が使われ、付属法令を含んで最も多く使われている用語である。その定義に「車馬とは、牛馬及び諸車をいう。牛馬とは、交通運輸に使役する家畜をいい、諸車とは、人力、畜力その他の動力により運転する軌道車又は小児車以外の車をいう。但しそりはこれを諸車と見なす」(取締法第2条)と定められている。道路交通取締法以前においては、車馬に該当する用語は「牛、馬、諸車等」(道路取締令(大正9年)第2条)である。
  道路取締令の頃は、道路交通の中心は、自動車でなく、牛や馬又はそれらを動力とする牛車馬車等の諸車であったであろう。道路交通取締法は、その用語の意味を踏襲して「車馬」という用語を定めたと思われる。
  自動車の時代に車馬とはどう考えても適当でない。新しい法律では新しい用語を使いたい。それが当時の考えであった。そして案として考えられたのが「車両」という用語であった。自動車、原動機付自転車、軽車両、トロリーバス等を総称する用語である。
  全国交通課長会議にこの案を示したところ、北海道の課長から異議が出た。「北海道では馬及び馬車、そりは冬季の重要な交通用具であり、その冬季は一年の三分の一以上になる。馬及び馬車については取締りを必要とすることは極めて多く、法の重さという点からも車と同じ位に重いことを表現している「車馬」という現行法の用語は残して欲しい」という意見であった。真剣な意見として関係者は皆耳を傾けたが、これだけは採用できなかった。自動車時代の道路交通法令に車馬は余りにも古く、かつ、実情に適していないと北海道の課長を説得した。英文にした場合、“Vehicle and Horse”では様にならない。
○ 法令の条文というものは読むのにむずかしく、理解するのも困難である。それが道路交通関係の法令になると、さらに読みづらくなる。改正案を検討していた昭和33年に、道路交通取締法施行令の一部改正で「割り込み」(同令27条の2)という条文が作られた。このことは本文で書かれているが、この条文を書き上げるまでの苦心とその結果の条文について述べておきたいと思う。 裏話といえば裏話といえるであろう。
  当時、自動車の割り込みという行為が交通の流れを乱し、事故の原因にもなり、時には運転者同士で喧嘩沙汰になることもあった。第一線の警察から「何とか法規制をして欲しい」という要求が多かった。将棋の駒を並べて列を作り、その中に割り込む状態をいろいろと作ってそれをそれぞれの者が文章として書いて見た。それらを取りまとめて条文を作り、法制局の審議を受けた。法制局の担当官も一緒になって駒を並べた。そしてでき上がったのが次の条文である。少し長いがじっくりと読んで欲しい。
  「車馬又は無軌条電車が、交差点の直前において信号に従って又は遮断機若しくは警報機の設けられている踏切の直前において停止し、若しくは停止するため徐行し、若しくは発進して徐行している車馬若しくは軌道車又はこれらに続いて停止し、若しくは徐行している自動車若しくは軌道車に追いついた場合においては、当該車馬又は無軌条電車は、当該交差点又は踏切を見通すことができる地点から当該交差点又は踏切に至るまでの間において、その前方にある自動車又は軌道車の側方を通過して、当該自動車又は軌道車の前方に割り込み又はその前方を横切ってはならない」ということだが、ただ一読しただけでは、何が書かれているか判らないであろう。しかし「割り込み」という行為を正確に捉えて、条文として作文すれば結局はこういうことになってしまう。それは複雑を極める道路交通の通行の状態を法令として規定する場合の宿命のようなものである。
  この条文は、道路交通法においてはかなり言葉を整理して、分かり易くなっている。
  道路交通法には罰則を伴う規定が多い。これは法の性質上やむを得ない。この法の真の趣旨を知らぬ人は道路交通法は交通刑法であるなどという。
  道路交通法の条文がむずかしくなる理由の一つは、この罰則を伴っていることにある。違反ということについての構成要件を正確に定めなければならないからである。道路交通法の中の「車両及び路面電車の交通方法」の規定はできる限り、この法律を守らなければならない自動車の運転者に読み易く理解し易い文言でありたいのだが、構成要件を厳しく書くとやたらにむずかしくなる。しかしこのことはできるだけ違反になる条件を厳しく、かつ正確に定めて、徒らに違反者を出すことのないようにしようとする法の良心である。それにしても、道路交通法はその言葉を易しく、判り易く表現するという作成方針であったが、結果はあるいは、ますますむずかしくしてしまったのではないか。もう一度言っておこう。それは道路交通法の背負っている宿命であると。
○ 国会での審議は参議院先議で行われたが、熱心な討議が行われ、全員一致で可決された。警察関係法案で、共産党を含んで全員一致で可決された例は今迄には、なかったのではないかと言う。衆議院に送付され、衆議院においても地方行政委員会で全員一致で可決され、本会議に上程される運びになった。その時である。かねてから日米安全保障条約の改訂に反対して、抗議していた学生団体を含む集団が国会議事堂を取り囲んで気勢を上げていたが、その最中、警備に当たっていた警視庁の機動隊の制止とぶつかり、議事堂周辺は騒乱状態になってしまった。その騒乱状態の中で女子の大学生が転倒して死亡する事故が起こった。その死亡事故を契機として騒乱状態は益々激しくなり、ついに国会は機能を停止してしまった。
  国会の会期は後僅かである。もし、このまま国会が開かれないということになると、審議中の法案は全部審議未了ということで廃案になってしまう。道路交通法案もまさに本会議上程の直前で廃案になってしまうおそれがあった。もし廃案になってしまうと、道路交通法案についての国会審議は、もう一度新規まき直しで、一から始めなくてはならない。当時の政情、社会情勢などを考えると、果たして何時の日に再度提案できるのか全く判らない状態だった。何としてもこの国会で成立させて欲しい、その願いは悲願であった。偶々筆者は、担当課長であった。毎日、朝から夜にかけて、与党の議員はもとより野党の議員の各部屋を訪ねて何とか審議再開になりますようにと、果てしないお願いをして回った。
  法案審議に当たった議員方は、与野党を問わず、同情してくれたけれど、一向に好転する模様はなかった。それでも毎日訪問を続けた。外では依然として騒ぎはおさまっていない。
  会期終了ぎりぎりのところで、岸総理大臣は断固とした決意をもって審議再開を決行して、会期の延長を行い、その後審議が再開された。たしか、野党は全員欠席だったと思う。次々に法案が上程された。審議を省略して、法案が一気に可決された。その間、道路交通法案の上程の声が告げられたとき、傍聴席に居た筆者は思わず涙を流してしまった。感動的というよりも、何か悲壮といった思いだった。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第6話 高速自動車道の初期の交通事故

第6話 高速自動車道の初期の交通事故

 昭和38年7月、わが国ではじめて高速自動車道が開通した。名神高速自動車国道の尼崎―栗東間である。その後、名神高速道は逐次開通し、昭和40年7月1日、昭和33年着工以来7年の日子をかけて 189.7qの全線が開通した。このあと、東京―名古屋間の東名高速道をはじめとして、相次いで高速道が開通した。
 今では高速自動車道は、自動車の交通する道路の主流になっているが、開通当初は利用も少なく閑散としていた。名神高速道の38年中の一日の平均利用台数は約 8,200台であった。
 名神高速道が全通した頃、ある皮肉な評論家が「贅沢な自動車専用道が開通した。その道路はフランス式工法(?)による、まるで芸術道路というものである。当局の予想を遙かに下回って、その30%程度しか利用がない。運転マニアの遊び場か観光道路というところか」とある雑誌に書いていた。
 高速道路が利用されはじめた頃、その高速道路で特異な事故が時々に起こった。比較的多かったのは所謂ガス欠といわれるガソリン切れである。何故こんなことが起こるのか。走行距離と速度の関係の錯覚である。ガソリンの量は平地の距離で計算する。ところが高速道路ではその速度は倍近い早さである。この計算違いが高速道路の走行中にガス欠を起こしたのである。当時、練達のハイヤーの運転者でさえガス欠を起こし“申し訳ない”と客に謝ったという話を聞いた。タイヤの破裂事故があった。極く普通に起こるのはタイヤの中のチューブの故障である。ところが、車輪の外側にはめるゴムの輪が切り裂かれるように破れたのである。高速道路の上をハイスピードで飛ばす中に、その摩擦にタイヤが堪えきれなくなって破裂したのである。タイヤのメーカーは愕然として調査をした。同時にアメリカの製品と比較した。強度が大きく違っていた。製造業者にとっては晴天の霹靂というものであったであろう。その後全力を挙げて新製品を作ったことは申すまでもない。
 昭和40年頃、名神高速道路を走っていた自動車が大きな自損事故を起こした。側端だったか中央分離帯だったか明らかでないが、そこに設けられていたガードレールにぶつかったのである。その途端にガードレールの継ぎ目が壊れ、ハイスピードで走っていたその力で一方の継ぎ目に突っ込んでしまった。自動車の前方から継ぎ目のレールが運転台にまで突き刺さり、運転をしていた人の右腕か左腕をたち切ってしまったのである。夫妻で乗っていて、夫が運転していた。馴れない場所を今迄経験したこともないハイスピードで運転した未熟と好奇心の結果である。
 同じ頃、三重県の中山峠付近でカーブを見誤ったか、廻りきれなかったか、そのカーブの所をまっすぐに走ってまるで飛翔するような状態で谷底に転落したという事故の報告もあった。夕暮れ時の霧のかかった時であったという。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第7話 東京オリンピック大会余話

第7話 東京オリンピック大会余話

 昭和39年10月に東京オリンピック大会が開催されることになった。招致はしたけれど、無事に開催することができるかどうか、いろいろな問題があった。その中で、最もむづかしい問題の一つは交通問題であった。
準備に入った昭和35年頃の東京の交通事情は最悪であった。
 オリンピック大会開催とその準備のために1兆8,000億円が計上され、その中で道路の新設・改良のために、1,700億円、新幹線に3,800億円、地下鉄に1,900億円を投入して、交通事情の改善に全力を傾けた。しかし、現実は厳しかった。開催年の直前まで、東京の道路はまるで工事現場のようになっていた。道路の改良工事、首都高速道路の建設、都市構造の改良工事に伴うガス管、水道管等の埋込み工事などで、一時的ではあるが、道路が破壊され、掘り返された。昭和39年の開催の日までにすべてが終わるのだろうか、これはオリンピック関係者の大きな危惧であった。
 昭和35年夏、ローマオリンピック大会が開催された。政府、東京都、スポーツ団体等がそれぞれ視察団を組織して開催状況を視察した。警察庁も政府の視察団に参加した。主として開催の準備の状況、道路交通事情等を視察するためである。ローマの場合も東京と同様に、道路条件は必ずしもよくなく、選手団の輸送や観覧客の運搬などがズムースに行われるのだろうかという懸念が近隣の欧州各国の関係者から表明されていた。
 開会まであと1ヶ月というのに、ローマ市内の道路の立体交差の工事が行われていた。話に聞くと、さすがに古都である。道路や建物建設予定地を掘りかえすと、あちこちで遺跡らしきものが発掘されるそうで、そういうものが出ると工事は一時中止しなければならないし、場所によっては完全に中止しなければならないとか。そのために、準備作業が随分遅れているということを日本大使館の人から聞いた。
 ところが、開会当日、メインスタジアムに満員の観衆を集めて見事に滞りなく入場式が行われた。何処にも交通障害は起こっていなかった。制服の警察官がオートバイに乗って要点をパトロールしていた。
 日本大使館の人の話によると、これがイタリー人であり、ローマ人なのだそうだ。  だらしなく、スローモーションにみえるけれど、蓋をあけて見るとちゃんとでき上がっている。日本人の完全主義、そのための緊張の連続ということとは随分違っている。国民性の違いということか。
 因みにこのローマオリンピック大会で、エチオピアの無名のランナーアベベさんが、裸足で走ってマラソンレースに優勝している。
 さて、東京の準備は困難を克服しつつ順調に進み、大会開催の直前までには、道路の改良も概ね終わり、自動車専用道である首都高速道路の第一号線が昭和37年12月に供用を開始した。東海道新幹線は開催年の昭和39年10月1日に営業を開始した。
 ところが1つ問題があった。オリンピック大会のメインゲームであるマラソンレースの道路が仲々決まらなかった。昭和37年秋、陸上競技団体から警視総監に対し、“競技団体でマラソンレースのコースについて論議を重ね、幾つかの予定コースを選んだが、道路の条件、交通の条件等を考え合わせると、最終的に決定することがむづかしい。ついては、警視庁を中心にして検討して頂いて、それを参考として決定したいので協力を頼む”という申入れがあった。要するに、競技団体では決めかねているので警視庁で決定案を考えて欲しいということである。当時の事情から考えて、尤もと思われた。警視庁を中心に陸上競技団体、道路交通関係の行政当局の関係者で検討した結果、最終的に甲州街道を予定コースとして決定した。しかしその条件として、現に進行中の一部区間の拡幅工事の完了ということが挙げられた。このことで建設省で検討したところ、その拡幅工事は難行しており、果たして大会までに間に合うかどうか不安定ということで、急拠、同一地域で予定している拡幅工事を一時中止し、バイパスによるマラソンコースの方の完成に全力を集中することに方針を変更することにした。これは大成功であった。大会開催の前年、バイパスは未だ完了していなかったが旧道路を利用して甲州街道でプレオリンピックということでマラソンレースを試行した。甲州街道もこれに隣接する道路も交通量が増え交通事情も悪化していたが、市民の協力を得て甲州街道の自動車等の交通を止め、正規の形でレースが行われるように道路交通の条件を整えた。レースは全く支障なく行われ、また、交通の大幅な禁止制限にかかわらず混雑も混乱も全く起らなかった。全面的な市民の協力の成果である。オリンピック関係者、とりわけ、陸上競技関係者は、この成果に本番の成功を期待した。そして、昭和39年10月、マラソンレースは整備された甲州街道で完璧に実行された。マラソンレースの終わった直後に眺めた甲州街道は見事な大ハイウエーの貫禄を誇示しているように見えた。そして、そのレースで、靴をはいたアベベ選手が二回目の優勝を遂げた。

道路交通政策史概観論述編> 第3編 混沌よりモータリゼーションの時代へ> 拾遺録 >第8話 車種別規制の波紋

第8話 車種別規制の波紋

 昭和36年の初頭、東京都の都心部の交通事情は最悪の状態であった。昭和39年秋に開かれる東京オリンピック大会を控えて、道路は掘り返され、破壊され、せまい道路が一層せまくなっていた。警視庁に届け出られていた道路上の工事件数は 152,000件に上ぼっていた。
 警視庁では、この一年の間に、数次にわたって、都内の大規模な交通規制を実施した。交差点の右折禁止、道路の一方通行の指定、駐車禁止が主たる規制の内容である。
 交通規制を実施した後、しばらくの間は小康状態を保つが、その規制の効果は、次の新しい交通需要を生み、再びより大きな交通渋滞を引き起こすことになり、道路の交通規制ということでは限界に達してきた。次の対策は、都内に流入する交通量を規制する以外には考えられなくなった。
 昭和37年2月、警視庁は、かねてから調査をつづけて来た結果を纏めて交通量を抑制するための交通規制の概案を発表した。
 考え方としては、都内の極度な交通渋滞を緩和するため、自動車の中でもその通行が交通渋滞の大きな原因になっている特定の大型貨物自動車の昼間帯の運行を制限して夜間帯に運行するように措置しようということであった。この考え方に立って、通行を規制する自動車は、路線トラック、長物運搬トラック、長大けん引自動車、ならびに大型観光バスとする。規制する道路は、主要幹線道路38路線とする。制限する時間は午前8時より午後8時までとする。という概案である。
 この案が発表されるや、路線トラック運送事業者を中心として貨物自動車運送事業者の団体が「国民の生活と産業活動に密着しているトラック輸送を無視する暴挙であり、トラック事業に与える影響はもとより日本の産業経済に与える影響は甚だしいものであり、許すことのできない」として、激しい反対運動を展開した。大小の貨物運送会社の社長や役員達が断固反対と書いた鉢巻をして、会合を開いて気焔をあげ、国会に陳情し、関係省庁にも陳情して、ますます反対運動を盛り上げて行った。
 その当時、開かれた反対集会の決議には次のようなことが陳べられていた。「トラック運送事業者は都市交通の緩和にあらゆる努力を払い、東京都内における路線トラックの6割はすでに夜間運行に転換している。トラック運送事業は、公共的使命を有するものであり、一般国民生活に直結する大衆輸送機関である。今回の規制が強行されると東京のみならず全国に波及して、産業経済の円滑な流通を阻害し、物価高を招き、国民生活に及ぼす影響はもとより、トラック運送事業の死命を制すること火を見るよりあきらかである」(日本トラック協会20年史の記述より引用)
 この問題は内閣法制局でも取り上げられた。道路交通法に定める規制の範囲を大幅に逸脱しているのではないかという疑義である。政府では交通関係閣僚懇談会を開いて、警視庁の原案について警視庁及び運輸省において再検討することを決めた。
 事が政治問題になり、また、トラック運送業界の“死命にかかわる一大事”ということで大反対運動が継続されるということになると、産業経済に与える影響も軽視できないので、警視庁は警察庁、運輸省等の意見も聞いて、公表した概案を修正すると共に、法律上も疑義を挾む余地のない理由づけをして、最終案を作成し、4月5日に東京都公安委員会で告示した。
 この交通規制問題は“公安委員会による交通規制”という道路交通対策から大きく離れたところで論議されることになったが、このことを通して、警察関係者は、“道路交通の危険を防止し、その他、交通の安全と円滑を図る”ことを目的として行われる交通規制について、その交通規制が産業、経済、その他国民の生活に与える影響をどの程度まで、考慮すべきものかということについて深く考えさせられることになった。その当時、当面の責任者が書いた所見がある。要約して書き留めておこう。「東京の交通の現状は、そのまま放置していたのでは遠からず交通麻痺という状態が到来し、どの自動車もまともに動くことができなくなるおそれがある。これを未然に防止しようとすれば、いろいろな非難があっても今回のような措置はやむを得ないことになる。自動車を動くようにするためには、その一部の自動車を制限せざるを得ぬという矛盾がある。その矛盾を少しでも少なくすることは、当然のことであるが、同時に無理を承知で行わなければならない場合もある。」
 今回の規制の対象となった事業者の中には、全財産を投入して購入した貨物自動車で事業をはじめたばかりというような人もあったという。重要な資材を運搬している事業者のあることも知った。運輸事業者が強く主張したように、産業経済に及ぼす影響のあることも十分承知していた。しかし、もし、それらのことを考慮してきめ細かく特例を認めて行くと、規制自体の意味がなくなるおそれがあるのみならず、法の目的から逸脱するおそれがある。効果の期待できない交通規制は無意味である。
 今回の交通規制はいろいろな非難はあったけれども、このことの経験は運輸事業者にとっても、また警視庁にとっても、深刻な交通事情を前にして多くの教訓を得たことと思う。そして、今回のような交通規制は所詮は一時的な対策であり、東京都の交通事情を改善するためには、国として道路交通全般についての総合対策を早急に樹立し実施する必要のあることを痛感した」。

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第9話 交通整理の心 −ある警察官の述懐−

 終戦後、間もない頃、占領軍総司令官のマッカーサー元帥が彼の宿舎から壕端の総司令部に出勤する途中の道路で交通整理をしている警察官の整理ぶりに目をとめ、いたく感心したらしい。他日警視総監に是非あの警察官を進級させてやって欲しいと通知してきた。今日の眼で見ればずいぶんとお節介なことであるが、当時は光栄至極ということであったであろう。
 その警察官は、その頃すでに10数年の経験を重ねたベテランの交通整理の警察官であった。その後も定年で退官するまで30数年の間一筋に交通整理の業務に従事した。その人が自らの長い交通整理の体験を語った話を題材にして、交通整理に従事した警察官の心情を伝えたいと思う。
 昭和12年頃、交通整理の仕事に従事して数年経っていた。交通信号機は、特に主要な交差点には設置されていたが、東京都内の交差点の大部分の交通整理は警察官によって行われていた。
 その頃の道路上の交通機関は、路面電車、自動車、荷馬(牛)車、荷車、自転車、人力車であった。自動車は漸く増加の傾向を示していたが、人力車は極端に減少していた。荷馬車、荷車は依然として貨物の運搬の主力として動いており、自転車は急速に増加していた。自転車は人の乗用というよりは簡易な貨物運搬の用具として重宝されていた。これらの多種多様の車両が混然として交通し、それらが交差点に集中して進入する。その上に歩行者がその中に入り交じるようにして交差点を横断していた。
 交通整理は、それらの車両と歩行者を腕一本で“止まれ”“進め”と合図して進行させるのである。側から見ればただ機械的に手を振っているように見えるかも知れないが、交通整理の警察官は神経を通行する車両と歩行者に集中して、すり減らしながら止まれ、進めを指示しているのである。
 そのような経験を重ねているうちに、よりよく交通整理をするためには、交通している車両のそれぞれの性能と動かし方を自ら体験して知ることが何よりも必要であると考え付き、まず、最初に当時、漸く増加して交通の中核になろうとしている自動車を学ぶことにした。その頃、警察官であっても、自動車の運転免許を保有しているものは極めて少なかった。非番の日を利用して教習所に通って運転を学び構造を覚え、当時の俸給の1ヶ月分を使い切った頃、やっと運転免許を得ることができた。次は電車である。実際に電車の運転士の横に置いてもらって、説明を聞きながらその性能と運転の方法を学んだ。人力車はすでに少なくなっていたが、繁華街では時間によってかなりの通行があるので、これも人力車の親方に頼んで実際に人力車を引いてその動きを学んだ。人力車は力と呼吸である。問題は荷馬車である。交通量は極めて多くその動き方は是非とも学ぶことが大事である。実地に馬の曳き綱をひき、荷馬車を動かして見た。むずかしい。道路を通行してみた。交通整理の合図で動かす相手は操縦者である人間であるよりは、馬そのものであることが判った。操縦する人と馬が呼吸を合わせてはじめて荷馬車はスムースに動くのである。合図は馬に向かってするつもりでなければよい整理はできないことが判った。単純な乗馬でも騎手と馬の呼吸が合わない限り馬は動かない。荷馬車の体験は貴重なものであった。
 このような体験を重ねながら交通整理に当たって見ると、それまでとはかなり変わった気持ちで交通整理をするようになった。物である車両を対象として整理していたが、整理の対象は人であることが実感できるようになった。実感して見ると、交通整理のコツは人と人との間の心の感応ではないかと考えるようになった。こちらが相手の心に呼びかけ、相手がその呼びかけに反応する。このときにスムーズな交通整理ができる。とはいえ、一時に種種さまざまな車両及び歩行者が集中している交差点で個々別々の人を区分けして呼びかけるなどということは不可能なことである。だからこそ一年のうち、今日は満足のいく交通整理ができたと思う日は数日しかないのである。
 戦後になり、自動車交通が増加し、道路交通の主流は自動車に移行していった。しかし昭和30年頃までは荷馬車や自転車などの軽車両はまだ多量に動いていた。歩行者はとくに繁華街ではまるで群をなして動いていると思われる程多くなった。自動車という近代的な用具と旧態をそのままとどめている荷馬車、そして無防備な歩行者、自転車乗りが混在して通行しているのが当時の状態であった。そしてそのような状態は自動車の急激な増加により益々異常になってきた。腕一本で整理するのには最早限界である。
 昭和30年頃を境に、次第に交通信号機が増設されるようになり、また、その信号機の性能も向上し、道路交通の整理は急速に科学化していった。警察官の交通整理は、補助的なものになった。それでも退官した昭和36年頃までは、機械である信号機以上に警察官の交通整理は大きな使命を果たしていた。
 体験を重ね、研究を続けて練り上げられた交通整理技術はたしかに名人芸というにふさわしいものであった。そしてそういう警察官は、全国に存在していた。
 交通信号機を含む交通処理施設の科学化の進展により、次第に交通整理の警察官は街頭からその姿を消していった。しかしいかに性能の優れた自動車であっても、人が運転してはじめて交通の用具として機能するものである限り、道路交通の場はすべて人の交通の場であると言い切ってよいと思う。交通整理の警察官は、その人に対して、その人の心に対して、呼びかけてきたのである。呼びかけてそれが反応するためには、すぐれた整理技術とともにその姿、形、そして動作が相応じて相手方によい印象を与えることが極めて大事なことを体験的に知った。占領開始早々から米軍のMPの腕章を付けた軍人が交差点に立って、日本の警察官とともに交通整理をしている姿を見た人は多いと思うが、あのMPから学ぶことが多かった。頭から足の先まで行き届いた服装である。笛を口にして、リズミカルに手足を使って交通整理をした。それを見習い、帽子に真っ白な被いをかぶせ、ズボンの筋目をきちんと立て、手袋は毎日洗濯して真っ白なものとするなど、服装を先ず清潔に美しく保つことを心がけた。このような心掛けは微妙に交通する人に反応するように思われた。交通するものが気持ちよく反応するとき、自ら交通の流れはスムーズになる。信号機の性能は向上し、交通処理の科学化が進んでも、心を表現して人に訴えることは出来ない。交通整理の警察官は街頭から消えても道路交通の場には警察官が常に存在して総ての交通する人の心に呼びかけて行くことが道路交通の安全を確保する上で最も大事なことである。
×        ×
 昭和3年に警視庁の警察官になって以来、戦前、戦後を通じて昭和36年に退官するまで30数年間、ただ一筋に街頭に立って交通整理と交通指導に専念した人が訥々として語った体験談の聞き書きである。交通整理のこつは、人の心に呼びかけ、馬に眼を向けることにあり、その呼びかけは心だけでなく形を整え、衣服を清潔にして魅力ある姿であることが肝要であると言う言葉が、経験からにじみ出ているものであるだけに心を打った。そして、道路交通の場がどのように科学化されても街頭から警察官の姿を消してはならないというこの人の願いは切実である。「道路交通の施策が科学化し、機械化するに従って、とかく人のことが忘れられ勝ちである。道路交通に係わるすべての問題の原点は人にある。されば、その問題の処理及び解決の鍵もまた、人にある。」

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参考にした資料及び文献

警察白書(平成13年版)                   警察庁
道路交通の現状と対策(平成11年〜13年版)          警察庁
警察によるITSの推進(平成11年)             警察庁
交通安全白書(平成13年版)                 内閣府編
交通安全対策実務必携(平成11年)              総理府
道路交通の現状と対策(平成13年)              警察庁
道路審議会基本政策部会中間とりまとめ(平成9年)
総合的な交通政策の基本的方向について(平成12年運輸政策審議会答申)
ITSハンドブック(建設省監修)
新道路整備5ヶ年計画(平成9〜14年)
21世紀に向けた新たな道路措置のあり方(平成6年道路審議会答申)
道路政策変更への提言(平成9年 道路審議会建議)
車社会はどう変わるか                    国際交通安全学会
道路交通問題研究会におけるヒアリング−これからの道路交通について−
 太田 勝敏 氏
 越 正毅 氏
 矢代 隆義 氏
現代用語の基礎知識(2001年)                自由国民社
わたしの考える21世紀のクルマ社会(交通工学研究会)     新谷 洋二
交通心理学                         宇留野 藤雄
日本自動車産業史                      日本自動車工業会
文明にとって車とは                     トヨタ自動車株式会社編
高速道路と自動車(高速道路調査会)             所載記事
交通工学(交通工学研究会)                 所載記事


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*資料編目次

URL=http://www.taikasha.com/doko/chapt3x.htm