第9章 終 章 昭和30年代の総括 はじめに 1 この編では、昭和35年を真ん中にして前後通じて10年程の間の道路交通の実態とそれに対する対策等について述べてきた。   この期は、戦後の占領時代を主とする約10年の道路交通の混乱の時代(自動車交通の揺らん期ともいえる)を脱してモータリゼーションの初動期に入り、本格的なモータリゼーションの実現する次の時代への過渡期の時代ということができるであろう。また、道路交通の実情という観点からは、この時代の政情、経済の状態、社会事情などの影響を最も強く受け、「古きものの中に、急激に新しいものが入り込んで混然雑然となっている状態のままでその発展をつづけている時代」といってもよいであろう。   在来、わが国の運輸交通の主体は、陸上においては鉄道及び軌道であった。道路は歩行者、自転車、人力車、荷車、荷馬車が専ら利用する場であって、自動車の利用は戦後のある時期までは極めて少なく、利用する道路も一部に限られていた。ところが、戦後独立回復を境に、経済力の急激な発展伸長により、経済構造も社会構造も大巾に変貌し、これに応じて道路交通の実態も大きく変わっていった。鉄道軌道に依存していた人員物資の輸送が、次第に自動車による輸送に代替し、道路交通の主体は自動車になり、その自動車交通は、全国津々浦々にまで伸長することになった。   ところが、その自動車交通を受容する道路は、依然として旧態を脱しておらず、また、道路に係る交通安全等のための諸条件の整備は極めて貧弱であった。急進展している自動車交通に対して、適時に対応する措置を実現することは、物理的にも、時間的にも難しかった。   このような自動車中心に発展しようとしている道路上の交通と、それを受容する道路の整備とが大きく整合性を欠いている中で、道路上の交通災害や交通障害が多発しているというのが、この昭和30年代の道路交通の実態である。   そのような実態に対し、将来を見通して、根本的な対策を樹て、先手先手で施策して行くべきところ、実際には、その時々の“一時的”又は“間に合わせ的”な対策しか取り得なかったということもこの時代の特色である、と敢えて言ってよいと思う。   以上述べたことは、すべて詳細に、各章で述べられているが、改めて、この時期の道路交通を通観すると、現在の道路交通の総ての面における問題の原点が、ここにあるように思われる。よって、繰り返すことになるかも知れないが、この時期の道路交通の問題点を集約して、若干の所見を交えて、総括して述べておきたい。 第1 ひずみを内包したまま発展 したモータリゼーション 1 戦後のわが国の産業・経済等を考える場合の一つの基準となるものとして、昭和28年という年が挙げられている。国家主権を回復し、戦後の混乱状態を克服して、戦前の状態に復帰し、欧米並みの近代国家への第一歩を踏み出し始めた年という位の意味であろうか。そのことを頭において、標準と考えられる昭和28年の道路交通の実情を示す若干の数字を挙げると、次のようになっている。  (ア) 車両台数   (原付一種以上)1,025,894台  (イ) 交通事故    80,019件 傷  者     59,280人    死 者     5,544人 (ウ) 道路 一般国道     実 延 長   24,067km   改 良 率   31.8%   舗 装 率   9.9% 市町村道   実 延 長 779,294km   改 良 率 4.7%     舗 装 率   0.3%   これに対し、昭和40年の上記に相当するものの数字は次のようである。  (ア) 車両台数    原付一種以上 15,772,752台  (イ) 交通事故  567,286件 傷 者    425,666人    死 者 12,484人 (ウ) 道  路  一般国道     実延長 27,858km     改良率 60.5%     舗装率 49.6% 市町村道     実延長  839,502km     改良率  12. % 舗装率  1.6%   昭和30年代の道路交通の実情の変化をその始めと終わりを対比して見ると、自動車の数量は約100万台から約1,600万台と16倍に増加し、交通事故は8万件から57万件と7倍に,負傷者と死者の合計は約6万5,000人から約44万人にと7倍にと、大巾な増加を示している。これに対し、道路について、例を一般国道及び市町村道にとって見ると、道路の実延長距離は、昭和28年と40年では殆ど変わっていない。改良率は一般国道では32%から60%に、舗装率は9.9%から約50%に上昇しているが、市町村道は改良率は、5%から12%へ、舗装率は、0.3%から1.6%という具合で、実質的には殆ど改善されていない。 大雑把な数字による表現であるが、道路交通における自動車交通の異常な進展に対し、道路条件の改善は遅々として進んでいないことが明らかである。そして、その間ににおいて交通事故及び死傷者は大巾な増加を示している。これらの数字の較差にあらわれているアンバランスが昭和30年代の道路交通の実態である。 2 昭和30年代の道路交通のアンバランスが生じた所以を理解する上で、昭和31年7月に発表された経済白書と同年8月に提出されたワトキンスレポートの二つの見解を対照して、検討することが極めて有益であると考える。自動車交通を急激に伸長させた原動力である経済成長と旧態を存して変わらない道路の現状を見事に表現しているからである。 (1) 経済白書が示すもの  昭和22年にはじめて発表された経済白書は、その表題を経済実相報告書(付、経済緊急対策)とし、「財政も、主要企業も、国民の家計も、いずれも赤字である」として、その当時の苦しい経済や国民生活の実情を明らかにしている。10年後の昭和31年の白書は「日本経済の成長と近代化」という表現の下に「消費や投資の潜在需要はまだ高いかも知れないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや戦後ではない」と述べている。戦後という異常な状態が克服されたということであろう。終戦後、数年の間は極度な物資不足による物価高騰とインフレに悩まされ、現実の経済市場は“闇市”が繁昌していた。占領中のいろいろな経過を経て、独立回復の後、経済情勢が次第に好転し、昭和28年頃には国民生活の中に家電製品が普及し、電気冷蔵庫、電気洗濯機、テレビは「三種の神器」といわれて、一般市民のあこがれの的となる程に消費経済が伸長した。そのような時代背景の下に“戦後ではない”と結論づけた白書が発表されたのである。このあと神武景気、岩戸景気、高天が原景気といわれる好景気を迎え、池田内閣の所得倍増10ヶ年計画が樹てられるなど、わが国は、経済の高度成長時代に入っていったのである。自動車の生産も、昭和43年には世界第二位になり、またGNPもアメリカに次いで第二位になるというように、終戦後20年にして、経済大国といわれるまでになった。 (2) ワトキンスレポートが示すもの   経済白書と殆ど同時期に発表されたワトキンスレポートは、「日本の道路は信じ難い程に悪い」と総括的な見解を述べ、多角的にわが国の道路を視察した結果を発表している。何れの部門についても「道路の後進性」を極めて率直に指摘している。   もとより、その指摘を受けるまでもなく、政府としても道路の改良、新設、とくに高規格の道路の建設を考えていたが、それらが現実の交通の用として役立つのは長い年月の後のことである。しかしその当時においても既存道路を改良し、事故防止、安全と円滑の確保のための施設の整備は当面必要不可欠のことであった筈である。この点当時の道路管理者に対しては厳しい言い方であるが、どの程度まで積極的な考え方があったかどうか。国道、主要府県道の改良、舗装は比較的進んでいるが、それ以外の道路は30年代後半においても極めて低率である。また、道路交通の安全確保のための施設などは、極めて不十分である。   昭和35年末に、東京オリンピック大会の事前視察に来日したローマの新聞記者達は「日本の交通状態は狂的といってよい程に悪く、道路の状況は、果たして、オリンピック大会が実施できるかどうかと思う程に悪い」と本国に打電している。その2年後、日本の自動車の製造状況などを視察したフランスの新聞記者たちは「日本の自動車の生産施設の整備及び生産体制の充実は見事という他はない」と本国に帰ってから発表したという。二つの記者達の日本視察所見が当時のわが国の道路交通の実情を象徴的に伝えているといえるのではないか。 3 わが国のこの時期の道路交通の構造を構成している自動車による交通と道路の状況を見ると、経済力の伸長に即応して、限りなく伸長している自動車交通と旧態を容易に脱しきれない道路の関係の甚だしいアンバランスを痛切に感じる。このバランスを欠いた条件の中から多くのひずみを生じ、そのひずみを抱えたままモータリゼーションが進展している。ひずみのある道路交通事情を解明してみよう。 (1) 都市構造と自動車交通の関係である。わが国の都市構造の基本型は往昔のままである。一見近代的に見える都市の相貌も、在来から存していた街の形のままで都市化したものである。道路を作り、その道路を基礎にして、計画的に作り上げた都市構造とは全く異なるものである。大都市の都心は、ごく少数の表通りを除いては道路ではあるが街筋の空間というべきもので、文字通り「街路」である。その街路に多量の自動車が入り込んで通行するようになった。渋滞が生じ、混乱が生じた。そして、そのような交通状態が常態化してしまった。 (2) 昭和20年代には自動車の通行が殆ど見られなかった農山村の地域に自動車が入り込むようになった。大小様々の型の貨物自動車が通過するようになったのである。沿道の住民の被害は大きく、そして、長い間つづいた。ここでも、そういう状態が常態化した。   地域開発の促進によって、都市に近接した地域に自動車交通の需要が大きく増大し、また農村地域が工場地帯化して工場を中心とする自動車交通需要が発生した。このように在来殆ど自動車の通行のなかったところに、短い年月の間に、交通量が急に増加した。にもかかわらず道路の条件の整備はできていない。そこに居住する人々は、自動車交通についての感覚が鈍い。こういうことで、交通事故が多発した。そして、このような環境の悪い交通状態がこの地域で常態化した。 (3) 産業活動の活発化は人員物資の移動の広域化、長距離化を招いた。とくに大型貨物自動車による長距離輸送が頻繁になった。主要国道といえども、当時は十分な耐久性を備えたものではなかった。大型自動車の多量、かつ頻繁な通行は、著しい道路の破損を生じさせた。昭和30年代は「花の東海道」も土埃り、穴ぼこ、泥水に悩まされる道路であった。 (4) 道路を通行している自動車の種類、型式の多様なことは、この時期の特色の一つといえる。10トン級の大型トラックから、軽三輪自動車、そして、原動機付自転車等に至るまで、まことに種々様々の自動車等の車両が交通の用に供されており、その上昭和35年頃までは東京銀座の繁華街を荷馬車が通行していたのである。   モータリゼーションの中味の判断の基準となる乗用自動車と貨物自動車の数量の対比を見ると、昭和35年は乗用車33万台対貨物自動車117万台で、その比率は1:3、昭和40年は乗用車178万台対貨物自動車400万台で、その比率は1:2となっている。乗用車と貨物自動車の比率が逆転して、乗用車が優位になるのは、昭和46年のことである。乗用車910万台対貨物自動車855万台である。わが国の昭和30年代のモータリゼーションは貨物自動車による貨物輸送のモータリゼーションであったのである。 第2 交通事故 −その生態− 1 道路の上を交通するものがある限り、何らかの理由で、交通事故が起こることは殆ど必然といってよいようである。明治43年(1910)の警視庁の記録によると、当時、東京府においては、自動車960台、電車1,000両、自転車2万台、人力車26,000台、荷車15万台という交通用具があった。それらの交通の中で交通事故2,000件が発生し、死者10名、傷者1,700名と報告されている。大正8年(1919)自動車取締令の施行の際に、「近時交通災害は急速に増加し、早急に、その対策を講ぜざるを得ぬ仕儀と相成り」と述べ、東京府における交通事故件数8,000件、死傷者合わせて6,000 名以上を数えると報告している。以来、100年近く経過した平成11年(1999)、全国の交通事故(人身事故のみ)85万件、死者9,006人、負傷者105万人と報告されている。   このように見てくると、交通事故は避け難く、そして事故が起これば必ず死者が出、負傷者が出るのもやむを得ぬものと考えざるを得ないようである。しかし、道路の交通の中で、多数の死者が出、負傷者が出ることをやむを得ざる事態と考えてよいのか。ここのところは、政治にかかわる者も、行政にたずさわる者も、真剣に考えねばならないことである。 2 戦前から平成の現代に至るまでの交通事故について観察した場合、事故の急激な増加の傾向、発生の原因、その他の交通事故の態容の総てについて、昭和30年代は、最も特色の多い期間であるということができる。そのことについては、前述の各章において、統計を挙げ、事例を示して詳しく述べられていることにより明らかに判ることであるので、繰り返して述べることはしないが、その当時の交通事故について、実務者が所見の形で述べていることを引用して、この時期の交通事故に対する考え方を述べておこう。「交通事故を起こそうとして、起こしている者はいないであろう。自己の命を犠牲にしてまで事故を起こそうと考える者はいない。にもかかわらず交通事故がこのように多数起こっているということは、考え方によっては、それ自体、一種の社会的病気であって、その病巣は社会の構造の中にあるということができるのではないか」。と述べ、交通事故を社会病という病気に診立てているのである。今、これを読む人は、その考え方が理解しにくいかも知れない。あるいは、単純素朴な考え方に基づく見解と見られるかも知れない。しかし、この実務者が敢えて、社会病と唱えたのには、それなりの理由があったと思われる。当時の交通事故の原因を見ると、殆どが道路交通の取締法令の条項に違反して自動車を運転したことが挙げられている。   しかし、発生した交通事故を詳しく調べてみると、法令違反が原因ではあるが、その法令違反の誘因となっている背後の事情があることが明らかである場合が多いのである。取締法令に違反する行為は、交通事故の場合以外にも、警察官による交通取締りによっても多数検挙されている。ところが、現実の道路交通の場においては、事故の原因にもならず、また、公然と行われていながら取締りによって検挙もされていない法令違反の行為の数は膨大なものになっているのである。   例えばスピード違反は恐らく検挙数の何十倍にもなっているであろうし、道路上に違法に駐車している自動車等車両の数は、検挙された数を遙かに上回っている。このような当時の道路交通の実情について「法令違反が常態化している」という極論も出た程であった。そのような道路交通の状態に対決していた実務者は、「交通事故や交通違反は、社会病である」と断じ、その病巣は社会の構造の中にあるとして、その病巣に手を入れない限り、法令違反の行為や交通事故を防止することは困難であると考えたのである。「交通事故が起こる背景として、運転者をして事故を起こさせるような社会的条件、その他の諸々の事情があることは否定できない。それらの諸条件、諸事情を解明しない限り、事故の起こるすべての原因を解明したとはいえない。」と実務者は、交通事故が運転者の所為のみによって起こされるのではなく、その背後に多くの原因となる事情のあることを指摘し、その事情の解明を強く求めている。そして「事故を解明して、運転者以外にもその原因(必ずしも直接的なものでなくても、その事故を誘発させるような事実又は事情)が考えられる場合には、それらの責任を放任しておくことは許されないものと思う。今日のように、交通事故が多様な形で発生し、あらゆるところに事故を誘発する原因が存する実情の下では、その事故の責任を糾明するために、新たな理論と新たな法規制が考えられる必要が極めて大きいことを痛感する」と述べている。実務者が述べているこのような所見は、前各章で述べているような昭和30年代の道路交通の諸条件や環境が、交通事故の直接又は間接の原因となり、さらに、社会構造そのものの中に、遠因となる事情が存することを述べて、一方において政府の積極的な施策の実施と他方において、運転者及び運転者を雇用するする者等の厳しい自覚を求めて発表したものというべきであろう。 第3 交通取締り −その任務と限界− 1 昭和20年代末期から交通事故が増加し、死傷者が多数発生するに及んで、政府はその対策として、前述各章で屡々述べている交通事故防止対策本部を設けて、昭和30年6月事故防止対策要綱を決定した。その後においても交通事故の増加の都度、交通事故防止に関する声明を発表し、また、対策の推進を表明している。国会も衆議院・参議院の両院の関係委員会で交通事故防止に関する委員会決議を行って、政府に対し、厳しい要請を行っている。マスコミも大きく、交通事故防止に関するキャンペーンを展開した。この限りにおいては、少なくとも交通事故防止に対する方策は、十分に尽くされているように考えられる。しかし、その方策の実施は、実質的には警察による取締りにしわ寄せされた形で、警察がその責任の大半を背負うというような結果になった。 2 昭和22年に制定された道路交通取締法は、「この法律は道路における危険防止及びその他の交通の安全を図ることを目的とする」と定めている。そして、この法律の執行の責任官庁は、国家公安委員会及び都道府県公安委員会である。具体的には、警察機関である。   この法律の規定から言えば、交通事故防止の任務と責任は偏に、警察にあるということになる。   そのような任務を行うために、昭和30年代において警察は、どれ程の体制を整えることができたか。昭和29年の警察法が改正されるまでは、警察組織は、多数の公安委員会が併立しており、組織的に業務を行うということについては、決して能率的な組織ということはできなかった。昭和30年代に入って、はじめて全国を通して業務を行う体制を作り上げたが、なおかつ、道路交通に関する警察業務(以下交通警察の業務ということにする)は、都道府県公安委員会(具体的には、警視庁及び道府県警察)が行うことになっているので、それぞれの警察の規模、組織、人員等の差もあり、業務の執行の斉一を図り、かつ、同様の成果を挙げるということには、問題があった。さらに、それぞれの都道府県警察の交通警察の組織及び業務の執行体制についてみると、警視庁、大阪府等の大府県を除くと、人員も少なく、備うべき取締り用の装備も乏しく、また、交通警察の任務となっている交通規制のための施設に要する財政措置も十分に行われず、運転免許に要する施設も各県の努力にかかわらず極めて貧弱なものであった。そのような状態は昭和30年代を通して継続していた。他方、その対象となる道路交通の事情は屡々述べている通り、文字通り月を逐い、年を逐って悪化していった。   交通事故数       12万件   死者負傷者合計   10万8千人   車両台数  240万台  の昭和31年の道路交通の状態の時の 交通警察の体制は、   交通事故数 55万件   死者傷者合計    41万4千人   車両台数  1,300万台  の昭和39年になっても、僅かに人員、装備が増加している程度で殆ど全く変化していないのである。   このような対象条件の大変貌に対し、これに対する交通警察の体制の強化が図られないまま、「交通事故防止」の対策を迫られ、その任務と責任の大半が交通取締りに負わされることになっていた。昭和33年、「道路交通に関する問題と対策」を綴って発表したのは、当時の道路交通の実態を明示して、その改善を図るための対策を提示して、交通取締り以前に、あるいはこれと併行して積極的な対策が執られるべきことを要望するためであった。   交通事故防止のため政府が例えば「死亡者をこれ以上増やさないよう」とか「何人以下にすること」などの目標を示すと、警察としては第一線において必然的に取り締まりを強化して、これを行うことになり国民から見れば厳しい取締りが行われることになる。取締りを逃れるための卑劣な手段がとられたり、取締りに対する厳しい批判をするものが出て来るということで、第一線で取締りに当たる警察官は、「報われることのない苦悩」を味わいつづけたものである。政府は、交通安全対策を定め、国民運動を展開するけれども、最大の安全対策は、具体的な安全施設を充実することである。安全施設の充実と交通取締りが併行するとき取締りの効果も期待できる。   交通安全も事故防止も国民の理解と協力があってはじめて実効をあげることができるものであり、実現するものである。交通取締りには限界がある。国民の理解と協力の大きな部分は学校教育にある。英国では小学校の入学式には、校長の訓示の冒頭に「学校の登下校の際には、必ず、警察官の指示にしたがうこと」ということが言われるという。米国においては、小学校の生徒の登下校は、警察との協力で絶対安全の対策がとられている。   また、米国の大学では交通安全、交通規制、交通取締りなどの学科が設けられており、警察官がそれらの学科を修得するため入学している。ロスアンゼルス市の警察長は、屡々、ロスアンゼルス大学の教授が就任している。   昭和30年代、第一線の警察は、小学校、中学校等に協力を要請したが、警察が学校に入ることはできなかった。中央において、小・中学校で何らかの形で学校教育の一部に交通安全を取り入れるよう警察側から要望したが、当時の文部省は消極的であった。その頃の政情、社会情勢の下では、むずかしかったのかも知れない。 3 昭和30年代の交通事故の防止は、実質的には、交通警察による交通取締りに一方的に依存していたといってよいであろう。このように断ずることは、関係の行政機関には、異議もあり、反論もあると思う。しかし、その当時の道路の安全対策の実情、自動車の運行の実態を見れば、現実に、街頭に立ち、道路をパトロールして、交通の安全を図り、危険を予防することが、殆ど唯一の方策であったことは、誰も否定できない筈である。   交通事故防止の任務と責任の大半を交通警察(交通取締り、交通規制、交通安全教育等)に負わせるのであれば、政府は、更に積極的に交通警察の能力を向上し、その活動を強力に展開できるための措置を講ずべきものと思われるが、そのことについての政府としての積極的な対応は、決して十分ではなかった。そのことは、後述する「交通基本問題調査会の総理大臣への答申」の中において明らかである。 第4 道路交通政策について 1 道路交通についての総合政策がない。   昭和30年代を通して、道路交通に係わる基本政策を考えると、道路、自動車運送、交通警察等については、それぞれその基本的な考え方及び方策を定めた法律が存在している。しかし「道路交通」という概念を基にして、道路交通そのものを対象とした総合的政策というものは、少なくとも昭和30年代には存在していない。もっとも総合政策とまではいえないけれども、道路交通という概念を考えて立法されたものがない訳ではない。交通事故被害者対策としての自動車損害賠償保障法(昭和30年7月)道路上の駐車についての駐車場法(昭和32年5月)、道路と自動車等の通行上の関係を定めた車両制限令(昭和36年7月)等は、その僅かな例である。   ここで、当然考えねばならぬ総合政策が策定されなかった理由を考えてみたい。   既に、屡々述べているように、終戦後の占領軍最高司令部の指示の下で、道路交通に関する行政は、大きく分けて、道路、運輸、取締りの三つの分野に分割され、その結果、道路交通を全体として把握してその行政を行う機関がなくなってしまった。これが理由の一つである。行政が分割されると、所掌する行政は厳しく守る反面、関係の深いものであっても、他の所掌には関与しないという現象が起こる。世にいう縦割り行政である。もう一つの理由がある。道路交通という概念が明確でないということである。道路交通を道路の概念の中で考える。車両、輸送の中で考える。交通取締りの中で考える。これらは、何れも道路交通の全体の概念ではない。この概念が曖昧で定立していないところに的確な総合政策が策定されない理由がある。   昭和30年6月、内閣に設置された「交通事故防止対策本部」で決定した「交通事故防止対策要綱」は、当時としては関係行政省庁を通じて協力して実施すべき方策を明示したものであり、高く評価さるべきものである。しかし、「交通事故の憂慮すべき現況にかんがみ、この際、交通事故防止に関する諸施策に再検討を加え、関係行政機関の緊密な連携のもとに、これが実施を強力に推進し、もって、交通安全の全きを期する」という要綱制定の目的に明らかなように、当面の問題に対し、限られた範囲の対策を実施することを目的として定められたもので、到底、総合的政策ということはできない。 2 基本問題調査会の答申   昭和37年8月、政府は深刻化しつつある道路交通について基本的に検討し、対策を樹立することを考え、総理府内に交通基本問題調査会を設置し、道路交通に関する総合施策として、とくに陸上交通体系の整備、大都市及びその周辺における交通需要の調整、交通安全体制の確立等の項目を挙げて、その検討を依頼し、答申を求めた。政府としてはじめて「道路交通の総合施策」の策定という提示を行い、公的機関としての調査会で民間からも多数の有識者の参加を得て、長期の検討が行われて、昭和39年3月に答申が提出された。   その答申については、全文資料編に所載されているし、この論稿でも別の章で詳細に引用しているので、繰り返して述べることはしない。しかし、この答申は、交通取締りを重点とする交通事故防止のための当面の対策を述べている在来のものに比べると、その内容において、特段に充実しており、とくに厳しく政府の反省を促し、かつ、積極的に取り組むべき政策を提示しているなど、この時期においては画期的なものとして評価すべきものである。この答申の中で、交通安全体制の確立について述べられていることは、交通事故防止対策の基本的な理念にまで及んでいるもので、将来にわたっての交通安全等についての道路交通政策の基本的な理念として考えるべきものである。以下繰り返して述べることになるが、はじめて道路交通についての総合的な基本政策を提示したものであるという意味から、答申の要点を再度摘記して述べることにする。 (1) わが国においては、伝統的に人命尊重の概念が稀薄である。とくに最近は経済成長を急ぐあまり、交通事故防止対策が等閑視されている。政府は従来の考え方を根本的に改めて、人命の尊重が何ものにも優先するということを確認し、あらゆる施策の立案に当たって最優先するという原則を貫くべきである。この見地から交通事故防止対策を他の政策に優先して早急に確立し、強力かつ迅速に実施すべきである。 (2) 現在の交通事故発生の深刻な事態を招来した最大の原因は近代交通の急激な発展に対処して、これに応ずる総合的な安全対策が必要であったにもにもかかわらず、交通安全に対する配慮が十分でなく、熱意も乏しく、交通安全施策が他の諸施策に比べて著しく立ち遅れいることにある。徹底した総合的な交通安全施策を迅速に確立すべきである。 (3) 風水害等の自然災害については、一般的な関心も深く、対策も重点的に行われているが、交通事故という社会的災害については、毎日多数の死者傷者を生じているにもかかわらず、これに対する安全確保のための投資が等閑視されている。   交通安全の確保のためには、できる限り国の予算配分に際し、重点的に資金を投入することが極めて必要である。  資金の投入について、道路交通法違反に係る罰金又は科料として年額100億円以上が徴集されているが、これと見合う資金が交通安全のための諸施策の強化資金に投入するなどを考えるならば、事故防止の成果は一層上がることであろう。交通安全の資金の確保に関連してこのような見解もまた検討の余地がある。   以上摘記した三点の提言は、在来、交通警察関係の首脳者の間で長年に亘って要望しつづけて来たことと全く一致するものであり、この提言は、以後、交通事故防止対策を検討する上の基本的理念となった。 3 交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法(以下交通安全事業法という)   交通基本問題調査会の答申の中で、「歩道の整備、路面の舗装、踏切道の改良等近代化が著しく遅れている上に、安全施設及び交通環境にも不備欠陥が多く、これらが交通事故の大きな要因になっているにもかかわらず、既設の道路においても、道路の改良に際しても、それらの整備が軽視されてきた。ついては、政府は安全第一の基本方針を確立し、資金等の優先的裏付けを与え、緊急かつ強力に実施する必要がある。」と厳しいけれど、適切な提言を行っている。   政府はこの提言に基づいて、「総合的な計画のもとに、交通安全施設等の整備事業を実施して道路の交通環境の改善を行う」ことを目的とし、この事業を推進するための年次計画を定め、これに必要とする国費の支出による財源措置を定めた法案を国会に提出し、昭和41年4月交通安全事業法が制定された。この法律の内容は詳細に前述の章で述べているが、道路交通対策として、建設、警察の両省庁の共同の対策であること、年次を定めた計画的事業であること、財源を設定することを内容とする道路交通の安全に係る法律であり、このような法律が制定されたことは、わが国の道路交通政策史上、まさに画期的なものであるといわなくてはならない。   この法律に基づく実施計画により在来、停滞していた交通安全施設の整備が進展したし、また、はじめて財源の裏打ちを得て、交通安全のための警察関係の施設及び装備の科学化が着実に進められるようになった。   この法律の制定を機として、わが国のモータリゼーションは、漸く長い間のひずみを克服して、近代的なモータリゼーションに入るようになったといってよいであろう。   交通基本問題調査会の答申及びこの答申に基づく交通安全事業法の制定の意義は極めて大きい。