第8章 交通警察の展開(4) ― 交 通 事 故 ― 序 説 交通事故概説 −昭和35年前後の頃の状態を基にして−  戦後10年を経た昭和30年の道路上の交通事故は、93,981件である。その事故によって、死者6,379人、負傷者76,501人の犠牲者が出ている。  同じ年、瀬戸内海で宇高連絡船紫雲丸が沈没して 168人が死亡している。大事件であった。時の国鉄総裁が辞任してその責任をとっている。二度とこのような事故の起こることのないようにするための徹底した調査が行われ、対策が検討された。  年間 6,379人の死者を出している道路上の交通事故と比較してあげつらうことは事の本質を弁えざるものとして不見識のそしりを受けるであろうが、ただここで篤と考えねばならぬことは人一人の死ということについては何の変わることもなく、人の命の重さには些かも変わることはないということである。  とすれば、道路上の交通事故についても大きな関心を以て交通事故発生の実態を解明して少なくとも死者だけでも皆無にする対策を樹て、その対策を強力に実施することが当然の事というべきではないのだろうか。  政府は、この点について昭和30年初頭、交通事故防止対策本部を政府内に設けて「交通事故防止対策要綱」を決定した。しかしそれにもかかわらず、交通事故はその後も年々増加し、死者傷者の数も増加している。昭和38年について見ると、交通事故件数は約53万2,000件、死者は1万2,301人、負傷者は35万9千人となっている。8年の間に事故件数で5.6倍、死者数で2倍弱、負傷者数で約6.7倍と増加している。何故このように交通事故が増加し、死者傷者が増えるのか。 1 道路上の交通は、人々にとっては社会生活であり、日常生活そのものである。自転車に乗っていた人が自動車に変わり、荷車が貨物自動車に変わっても人の心は変わらぬままその生活を続ける。この変化への人間の無関心と対応のまずさが交通事故を引き起こす因の一つになる。誰かが何処かで自動車にはねられても“他人事”ということで、事件性を感じない。終戦直後、宮城県で占領軍の係官から「占領軍の自動車の通行を妨害したときは、射殺することあるべし」などという、およそ非人道的といえるような指示が出されたのも交通に対する“無関心”への残酷な警告であったであろう。昭和33年本郷の東京大学赤門前で東大生が歩道の上でタクシーにはねられて死亡するという異常な交通事故も、その当時は2週間経ってからやっと新聞記事になったのである。 2 自動車が交通の場にあらわれ、その数が増え、その通行が頻繁になるにしたがって交通事故が発生し、その数が増えてくる。自動車は、動かなければ頑丈な鉄の塊であるか、でなければ優美な嗜好品である。その自動車が人と結びついて道路の上を動くと、それはその時から危険な運搬用具になる。   その自動車が、昭和30年に入ってから次第に増加しはじめた。とくに国産化が進展し、小型4輪自動車が製品として市場に出回ってきた。昭和35年を過ぎる頃からは、日本は自動車の製造で欧米諸国に伍するようになり、昭和42年にはアメリカに次いで世界第2位の生産国に成り上がった。しかし生産の実態については、日本自動車工業会の述べているところによると「日本の自動車の生産構造は@乗用車の比率の少ないことA小排気量車(小型又は軽)の比率が高いことB多種車少量生産であることC乗用車、トラックの混合一貫生産であることなど欧米先進国とは異なっていた。」ということである。   この叙述にある生産の現実が、そのまま昭和35年前後の日本の道路の上の自動車の実情であった。貨物自動車が農山村地域を走り、小型四輪車のタクシーが都市内を疾走し、多種類の自動車が経済復興途上の日本経済の波にのって道路の上を運行した。 3 交通事故は、人によって起こされ、人に被害を与えるものである。自動車と自動車を運転する人が結びついたとき自動車は危険な用具となる。昭和35年前後の頃、新しい知識とすぐれた設備によって多種多様な自動車が生産され、市場に供給されはじめた。   他方、その自動車を運転する人の感覚は近代化しつつある道路交通の実情とはずれていた。そのずれたところに交通事故の原因が潜んでいる。その頃の交通事故の第一当事者の比率は自動車が70数パーセント原付自転車を加えると80 数パーセント、になっている。その運転者が自動車を運転する生態を調べると、運転技量の未熟と、モラルの欠如が目立っている。運転技量の未熟ということは、運転する場合その地域、時期、環境の何れにも適応して運転できる能力が十分でないということである。モラルの欠如ということは、運転マナーが悪く自分本位で、順法意識を欠いたまま運転することである。(現在でも自転車に乗っている人の状態はこれに近いように思われる。)   歩行者(その当時は道路の使用者といってもよい)の状態も異常であった。とりわけ、道路を交通する上でルールに対する知識と感覚はゼロといってよい位であった。昭和24年から、歩行者の道路の通行は「右側」に変わった。左側通行に慣れてきていただけに、右側通行が慣習化するまでには時間がかかった。昭和34年、道路交通法の案を検討している時、もう一度、左側通行に返せという強い意見もあった程である。道路上での遊戯も多かった。在来、子供達は道路は遊び場と思っていた。親もまたそうであった。その頃の「人についての交通事故」には「路上遊戯」が最も多い原因となっている。道路が店の延長になり、物置場になり、また、作業場にもなっていた。 このような歩行者や沿道の居住者の状態の中に、危険物と化した自動車が交通するようになったのであるから、交通事故は起こるべくして起こるという有様であった。 4 道路環境も悪い。このことは前各章でくどく述べているので、繰り返さないが、昭和31年のワトキンス報告にある「日本の道路は信じ難いほどに悪い」という言葉に代表される道路の状態であった。そしてその実態を明らかにしているのは、昭和33年に発表された警察庁の警ら交通課が作成した「道路交通の問題と対策」である。   これらの資料に記載されている劣悪な道路及び交通環境を改良し、改善するための対策は樹てられていたが、東京オリンピック大会が開催された昭和39年頃までは、未だその成果は生じていなかった。 5 この時期、昭和30年から約10年の間の道路交通の状況を総括して言えば、道路交通に関わる総ての諸条件のアンバランスということに尽きる。例えば、自動車を製造する工場は、近代技術を駆使して多様な種類の自動車を生産して市場に供給する。他方、それを運転する人の条件は旧態を少しも脱しておらず、また、それを使用する使用者も近代経営の感覚には程遠かった。   産業経済の態容は急速な近代化の道を辿り高度な発展を遂げつつあるが、一般市民の日常の生活意識は殆ど元のままである。自動車交通は、わが国の地勢地形を考えないまま、大きく発展し、都市構造の条件を無視した形で増加した。   このような諸要件のアンバランスを包摂したまま発展をつづけたのがこの時代の交通の実態である。そして、その中から交通事故が増発し、死亡者負傷者が増えつづけた。 第2節 交通事故の発生の      推移と実態 第1 交通事故の推移 1 昭和30年から40年までの交通事故は年々増加の傾向を続けているがその中の30年及び40年の両年において発生した事故の状況をその総数及び事故の原因となった第一当事者の主なものについて種類別にその数を示して、増加の状況を明らかにしておこう。(交通事故の発生状況については前各章でそれぞれの形で述べているが、ここでまとめて下段に一覧表にして示す。) 2 昭和34年の交通事故−「道路交通法案を国会に提案したときの交通事故についての説明の概要」− (1) 昭和34年中の交通事故は、発生件数は 371,763件、死亡者10,079人、負傷者数 230,504人、物的損害額約4億8千万円であり、前年比で事故数  増、負傷者24%増、物損19%増となっている。 (2) 自動車の台数は、約270万台で昭和22年の19万台に比較して14倍となっており、戦後におけるわが国の急速な復興を示すものである。 (3) 交通事故を原因者別に見ると、自動車75%、原付自転車15%、自転車又は歩行者9%となっており、原因の大半は自動車にあることが明らかである。さらに、自動車を第一原因とする事故数の中、死亡者及び負傷者を1,000台当りで計算すると、年間、貨物自動車は死亡者10人、負傷者83人、乗用自動車は死亡者3人、負傷者65人となっており、貨物自動車の事故発生率が高い。 (4) 交通事故の主な原因を自動車について見ると、速度違反33%、追越不注意12%、わき見運転11%、未熟運転8%、めいてい運転7%となっている。歩行者の原因は自動車の直前 │ │交 通 事 故│死 亡 者 │傷 者 │ │  年  │30 年│40 年│  30年│ 40年│ 30年│ 40 年│ │総   数│ 93,981│ 567,286│ 6,379│ 12,48│ 76,501│ 425,666│ │        ( 第 一 当 事 者 別 ) │ │乗用自動車│ 22,763│ 46,384│ 954│ 2,36│ 17,120│ 105,062│ │貨物自動車│ 40,293│ 23,456│ 3,051│ 5,23│ 30,765│ 136,814│ │歩 行 者│ 6,416│ 14,366│ 881│ 573│ 5,750│ 14,37│ 注1. 自動車台数は、昭和30年に196万8,000台、40年に1,570万台、免許保有者数は、34年に765万4,000人、   40年に2,110万3,000人。 注2. 事故の第一当事者の70〜80%が自動車であり、自動車の中では貨物自動車が多い。 注3. 事故総数の増加の割合と負傷者の増加の割合は、殆ど同数である。 注4. 歩行者のうち、死亡者が減少しているが、これは道路交通法の施行により、歩行者の保護の施策が行わ  れた結果である。 注5. 第一当事者としての歩行者の行為は、自動車の直前・直後の横断、路上飛び出し、路上遊戯などである。 直後の横断56%、幼児の一人歩き7%、路上遊戯6.5%、めいてい歩行5%、踏切不注意4.5%等がおもなものである。 3 昭和39年の交通事故−昭和39年、交通基本問題調査会が総理大臣に報告した答申の中で述べている「“交通事故の現状とすう勢”の要約。」− (1) 昭和38年の事故の総数は531,966件で死亡者は12,301人、負傷者は359,089人を示している。   この中、交通事故総数の78.4% が自動車による事故であり、全死亡者のうち、歩行者及び自動車操縦中のものが、あわせて46.9%で半数近くを占めている。このことは、わが国の道路整備のおくれ、とくに歩車道の区分が十分に行われていない混合交通であることに起因している。 (2) このような交通事故激増のすう勢の中にあって、昭和37年における死者が 1,420人減少したこと及び昭和36年以降の交通事故発生件数の増加率が減少したことは注目すべきことである。これは、道路交通法の施行を契機とする交通取締、交通安全運動の強化、マスコミのキャンペーンのもり上がり等によるものであり、また、運転者及び歩行者の順法意識が高まったことの結果である。 (3) 交通事故の防止には人間の注意力が重要な要件であるが、その注意力にも限度があり、わが国の劣悪な交通諸条件が交通の現状に即応して改善されない限り、交通事故の防止の効果的な成果を期することは不可能といわざるを得ぬ。折角、下降傾向を見せていた交通事故の発生も、昭和38年を過ぎると再び上昇傾向に転じている。 第2 交通事故の実態 − 交通事故発生の背景 − 1 交通事故の原因を詳しく分析すると、事件処理上記載されている原因のほかに、種々様々な原因となる要素があり、それらが複合して、事故となっていることが判る。最も多い事故の原因の一つとして挙げられる速度違反も、“何故速度を出し過ぎたか”ということを解明すると“列車の時間に間に合わぬ”、“病人が危篤”など多様な理由が出てくる。一般的に見ても、道路条件の悪いこと、交通環境が悪いことが間接的な原因になっていることもある。また、運転する人のその時の心理状態にその原因があることも少なくない。  このように交通事故を多角的に解明すると、その時代の社会生活、経済構造などの有り様が交通事故に色濃く反映していることが判るし、また、そのような中から交通事故が生起していることも判る。その意味から交通事故には時代的特色があるということができる。そして、そのような視点に立って交通事故を考えると、それは社会学的、経済学的考察の対象となるものであり、そのような考察によって、交通事故の防止の方策を導き出すことができると考える。   交通事情が悪くなり、交通事故が深刻な問題になりはじめた昭和33年頃、マスコミの上でも大きく取り上げられ、また、警察庁、運輸省等の行政機関でも積極的に実態を解明し対策の推進が図られたものに所謂「神風タクシー」と「長距離トラックの運送」という大きなテーマがある。   このテーマは単なる道路交通問題というのではなく、モータリゼーションの始動期の頃、わが国の社会生活と経済活動の実態と深くかかわっているものであり、その実態が偶々道路交通上の問題として具体的な形をとって表れた事象であると考えられるものである。その視点に立って、このテーマの解説を当時の資料によって試みたい。 2 タクシー及びトラック運送の実態とその背景にあるもの   昭和30年代を通して、この時期の道路交通問題を最も象徴づけるものは、交通事故の急激な増加である。その中でタクシーとトラックの運行とその結果による事故の発生が特徴的であり、かつ、その事故の原因がその運送企業の経営形態の中に深く根ざしているという点がこの30年代の交通問題の特異な点でもある。 (1) タクシー事業の場合   タクシー問題が生起しはじめた頃の昭和32年の統計によると、タクシーによる事故は、約15,000 件で、全事故数の10%に及んでおり、さらに1,000台当たりの比率で見ると、タクシーは273(東京の場合は376)と高く、他の自動車の53に比し5倍以上になっている。タクシー運転者には原則的に一日の走行量と水揚額が「ノルマ」という形で義務づけられている。そのノルマは、金額で1万円、走行量で370kmとなっている。370kmの走行量による水揚額は 9,000円から11,500円と推 定されている。   この水揚額と走行量の「ノルマ」が運転者の月額収入と直接的にかかわって来る。タクシー運転者の平均月収入は29,000円であり、この額は他の労働者のそれと比較して必ずしも低いものではない。しかし問題は給与の定め方にある。月収入は基本給と歩合給の二本建てとなっている。基本給は平均4,800円と少額の手当である。収入の大半は歩合給によっている。歩合給は一ヶ月の水揚量の20%が例である。一ヶ月の水揚量は概ね12万円である。   このような給与体系の下においては運転者は水揚量をあげることに熱中し、その結果、無茶な運転を敢行することになる。ここに交通事故の原因の根がある。   この当時、このタクシー問題を解明した人の述懐の中に「わが国のタクシー事業の経営の中に存する宿命的とも言える要因が完全に除去されない限り、一時を糊塗する対策を積み重ねるだけでは、根本的な改善は期し得られない。事業経営者と運転者との間の業務上の信頼関係が確立され、経営の近代化が実現するまでは、現在の経営者は依然として形をかえ、表をとりつくろって、在来のような経営をつづけることであろう。そして、運転者は客を拾うことに血眼になり、その稼働率を最高のものにするため、無理な運転をつづけることであろう。運転者の無茶な運転とそれによって起こる事故の背後にあるこのような事情を法律はどうとらえるべきか」と述べている。 (2) 長距離路線貨物自動車   大型トラックを運転して、長距離を運送する運転者は、近代交通を代表する職業人のように思われ勝ちである。アメリカでは大陸を横断して運送するトラック運転者はテレビドラマの主役である。欧米では職業運転者はアマチュア運転者とは異なる高い評価を受けているプロフェッショナルである。アメリカでは、取締りの警察官も彼らに対してはプロとしての敬意を表している。   わが国では事情は全く異なっている。   終戦後数年間の貨物運送の実情を見ると、運送企業の使用している運送器具の半数は、荷馬車であった。その荷馬車が数年の間に貨物自動車に代わっていったが、その企業の経営理念と形態は、余り変わることはなかった。   一方、経済活動の急進展に伴って、貨物の移動は限られた地域から次第に広域化し、長距離化した。運送の実体と企業の考え方にずれがでてきた。長距離貨物運送の問題はこのずれに始まっている。運送企業としてはできるだけ多くの貨物を運送するためには、時間と距離を考えて、トラックの運行の回転率を高めることを考える。そのしわよせは、殆どすべてトラックの運転者にかかって来る。経営規模の小さい企業の運転者は生きていくためには、そのしわよせを甘受せざるを得ない。ここに交通事故の起こる原因が潜んでいる。これが昭和30年代を通じてのトラック運送の現実である。   長距離トラックの運送の実態について昭和33年に公表されている資料に基いて説明する。   昭和33年、神奈川県警察の調査によると、約1,500台の長距離トラックの貨物積載の状況を調べたところ、定量のものは38%でその余のものは全部制限超過となっており、その中には5トン以上超過したもの8台、4トン以上が18台、3トン以上が54台が数えられた。   運行距離と運転者の稼動状態について、東海道を通過した 527台の長距離トラックを調べたところ、その半数以上が400km以上の路線を運行していること、それらの大半がいわゆるトンボ返りという運行で、目的地に到着すると、運転者自身で荷物をおろし、新たな荷物を積み、再び出発するという強行運転をしていることなどが明らかになった。   このような運送では多くの場合20〜30時間を継続して運転することになるが、極端な例では兵庫県下で居眠り運転で事故を起こした運転者を調べたところ、継続して61時間勤務していたことが判ったという。東京都内の 209の事業所の調査においても調査対象の60%が10時間以上の勤務となっている。   運転者の給与の条件はタクシーの場合に比べてやや合理化されているが、それらは大手と考えられるものに限られ、他の多くのものは旧態依然とした固定給と歩合給の二本建てになっている。固定給は 5,000円から10,000円位で、あとは歩合給で補っている。歩合給は運送の回数、走行距離、貨物の量などによって細分化されている。この歩合給を稼ぐために、超過積載をし、走行距離を伸ばすためトンボ返りの運転を強行する。この結果が交通事故に結びつく。給与体系と勤務形態の根本的な改革が行われない限り、長距離トラックの交通事故は無くならないであろうということが当時の結論であった。 (3) 砂利運搬トラック   砂利その他建設材料を運搬する貨物自動車の運送実態は、観方によっては、昭和30年代のわが国の道路交通問題を端的に示しているといえるであろう。それ程特徴的な事例である。   戦災復興は道路の修繕、改築、住宅その他の建築物の建設を促進し、さらに経済活動の計画的な進展に伴い建築材料、とくに砂利の需要は増大する一方であった。   この大きな需要に対する供給者が砂利運送事業者である。   その事業は、砂利の生産地で砂利を採掘し、採掘した砂利を供給先まで運送して、砂利という商品を販売するということである。その事業者は100両以上の貨物自動車を保有して、その事業を経営している大規模なものもあるが、一応の経営形態は整えていても、その多くは10両〜20両を保有する小規模経営のものであり、その他の大部分は、一、二両の自家営業のものである。中には出稼ぎ営業をするものもあり、その数は必ずしも少なくなかった。たとえば北海道その他冬季が長く積雪の多い地域で砂利運搬をしている者は、その冬季の期間は、貨物自動車ともどもに、大都市地域に出稼ぐのである。このように砂利運搬事業は、極く少数の例外を除いて大部分のものは企業体としてすべての点で前近代的といって差し支えない状態であった。その一方行政上の指導監督という点でも甚だ明確を欠き、主務行政機関というものがないといっても過言ではなかった。その頃、砂利運送トラックが大きな問題となり、その対処策を検討する会議を開いたとき、そこに集まった行政省庁は、警察庁、運輸省、建設省、通産省、労働省等であり、それぞれ砂利採掘、運送、販売、労務管理、交通安全と取締り、というように行政上の関係はあるが何れが主務官庁であるかというと、明確な官庁はない。これが、その当時の砂利運搬、砂利供給という事業の真の姿である。  そのような事業がどのように行われていたか。   砂利供給の事業は、砂利を採取し、これを商品として、供給先まで運搬し販売することである。商品としての原価の最も大きな部分は運送に要する費用である。したがって、運搬を効率的に行えば行う程、販売利益は大きくなる。そこで運搬を効率的に行うということは一台のトラックにできるだけ大量の砂利を積載し、できるだけ早く供給先に届けることである。   その実情について、神奈川県警察が神奈川県内の砂利採取場から東京都内に運搬している砂利運搬トラック 675台について積載重量を調べたところ、殆ど全部が積載超過であり、その中で4トン以上が41件あり、2トン以上が 250件あった。最もひどかったのは5トン車に10トン、7トン車に14トン積載していたものであった。これらは何れも積載構造を改変して、枠組みを高くして、積載量を多くしていた。   次に、それらの運搬のための運行状況について調べたところ、神奈川県厚木(砂利採取地)より東京の間を1日に3往復、距離にして 400kmを運行していたもの28件、2往復 290kmを運行していたものが 236件あり、また、厚木横浜間を5往復 370kmを運行したものが9件あった。トラックには運転者のほか作業員3名が乗っているのが例のようである。   これらの給与については自家営業又はこれに近い零細企業の場合は給与というよりも、個人の事業収入に近いものであり、前述のタクシーや長距離トラックとは趣を異にしている。比較的事業規模の大きい企業では、月給制、日給制、歩合制と区々であり、月給、日給の場合に歩合給を併用している例もある。   砂利運搬トラックは益々大型化し、かつ、その数量が増加し昭和42年には約14万台となった。これらによって交通事故が多発するようになった。東京厚木間の路線では、殆ど毎日のように交通事故の発生が警察署に通報されていた。そのような事故の報告の中で「厚木街道に面して居住していた住民の幼児がダンプカーの事故で死亡したので、住居を他に移したところ、また、その移した先でダンプカーによって2人目の子供を亡くし、再び住居を移した」というのもあった。   昭和41年には、死亡者負傷者合わせて約6,500件の被害事故が発生している。その中の一つに昭和41年12月愛知県猿投町で砂利運搬トラックが幼稚園児の列の中に突入し,悲惨を極めた事故がある。この事故がマスコミで伝えられると,世間の非難は爆発的になり、このようなことがきっかけとなって、砂利運搬のトラックの事業及び運行に対する法規制が行われることになった。昭和42年8月「土砂等を運搬する大型自動車による交通事故の防止等に関する特別措置法(通称、ダンプカー規制特別措置法)」が制定された。はじめて総合的な観点から砂利等の運搬トラックの規制を行ったものであり、その効果が期待された。ある程度の企業経営としての秩序付けと道路上の運搬についての規制は行われたが、大型ダンプカーの事故は他の自動車事故に比較すると依然として約2倍位高い。 第3節 交通事故の防止対策 1 昭和30年代の社会状況を、道路交通という視点で観察すると、これに係わるすべての条件がバランスを欠いていた時期であるということができる。道路の容量と交通量、交通需要と交通施設、都市構造の中の建築物と道路等のそれぞれの間の較差、こういうことが正常であるべき道路交通に大きなアンバランスを生じさせ、そのアンバランスが道路交通の渋滞を引き起こし、混乱を生じさせ、そして、交通事故をひき起こさせる要因となっている。そのような道路交通の状況の下で交通事故が増加し死亡者が増えると政府はその都度、交通事故防止についての緊急対策を発表して来た。そのことについてはこの稿でも何度も述べて来ている。それらの対策は、その時点では道路交通の当面している問題に及び、また、それぞれを所掌する各行政にも及んでいる。しかし結果的に見ると、その対策の実施の重点は、交通取締り、当面の交通安全施策等に集約され、一時的な対策の推進に終わってしまっている。一時的な交通事故の抑止、死亡者の減少の効果はあっても、やがてまた次の対策を必要とする事態が起こる。道路交通の根本にあるアンバランスの状態を解消しない限り、交通事故は依然として発生するであろうし、死亡者も絶えることはないであろう。   この時期において道路交通の対策は、将来の交通状態を見通すすぐれた先見性と、それを裏付ける先行投資という考え方が必要であった。そして、そのようにして樹てられた骨太な対策を強力に根気強く継続して推進することが望ましかった。 2 昭和30年代に展開された交通防止対策を回顧して、その当時の交通警察の関係者の中で論議されていた見解を集約して述べておこう。そしてその論議されていたことが、ある程度、次の昭和40年代の事故防止対策に反映していることをつけ加えておきたい。 (1) 昭和39年の交通基本問題調査会の答申の中に「わが国においては、伝統的に人命尊重の観念が稀薄であり、かつ、最近特に経済成長に急なあまり、交通事故防止対策が等閑視されて来たため、今日の深刻な事態を招来した」という指摘があり、さらに「従来、政府においては、ややもすると、人命尊重の観念が稀薄であって、交通安全に対する配慮が十分でなく、とくにその実施に対する熱意に乏しく、交通安全諸施策が他の諸施策に比べて著しく立ち遅れている」と、まことに厳しい意見が表明されている。内閣総理大臣が諮問した道路交通問題に対する答申の中の見解である。   この答申にあるように、昭和30年代はわが国の経済が急速に進展した時代であり、政府の最大の関心は、経済力の伸長発展にあったことは事実である。しかしまた、同じ時期、政情も社会情勢も不安定であった。昭和33年の警察官職務執行法の改正をめぐって、政局も動揺し、各地で改正反対闘争が起こった。そのため第一線の警察は、職務執行に影響がでる程であった。次いで昭和34年頃から、日米安全保障条約の改訂問題が政治問題となり、また社会問題となり、昭和35年には「安保騒動」といわれる騒動事件に発展し、政局を揺るがした。たしかに、この時期は、政府はとても交通事故防止対策について考える余裕はなかったであろう。    昭和35年6月、道路交通法が成立した。「安保騒動」の頂点の時であった。もし、このようなことがなければ、道路交通法が制定された時点は、国として交通安全だけということでなく、道路交通の総てに亘る総合対策を立ち上げる最も条件の良い時であった。交通事故防止に対する世論が高まっており、マスコミの論調も交通安全対策に対し積極的であった。しかし残念なことだが、政情不安の故に、その機を逸した。交通事故防止は、政府が「人命の尊重観念」を厚くして国の最重要政策の一つとして真剣に取り上げたとき、はじめてその成果が挙がるのである。基本問題調査会を設置し、その答申に応えて政府が積極的に対策を推進したことは、その点から考えて大きな意義があったといえよう。昭和40年代は、30年代に比べて交通事故防止対策の画期的な進展を示している。 (2) 戦後10年間は各行政省庁は、機構改革に伴う組織の整備と、当面の所掌事務の処理に追われ、関連行政の調整、省庁間の連絡調整などを考える余裕はなかったといってよいであろう。道路交通にかかる行政は戦後、大きく分けて道路は建設省、自動車の運輸企業等に関することは運輸省、そして交通取締りは警察に分掌されることになった。各行政省庁は、その所掌行政についてそれぞれの立場で政策を定め、法令の策定に当った。その間に、政策の策定、法案の作成等を通じて各省庁間の意見の対立などもあり、道路交通行政に最も必要な政策の総合化ということは殆どできなかった。   交通事情が悪化し交通事故が増発するようになった昭和30年、政府は、内閣に交通事故防止対策本部を設け、関係行政省庁の主管局長を本部員として、交通事故防止対策についての行政の調整を図ることにし、事故防止対策要綱を定めた。   昭和35年の道路交通法は、その要綱の趣旨を実現するための立法であった。この道路交通法の制定の作業の過程で、主管当局である警察庁は建設省及び運輸省との間で、協議、折衝を繰り返した。道路交通法の制定は、交通事故防止に関する三省庁の行政の考え方あり方を調整する好機であった。道路交通法の制定の時の衆参両院の地方行政委員会は、それぞれの付帯決議で「警察庁、運輸省、建設省等の関係行政機関の相互の連絡調整を徹底して総合的な道路交通行政の実現を期すること」(衆議院地方行政委員会昭和35年5月)「交通関係行政の連絡調整を強化し総合的施策の策定推進を図るため、内閣に法的根拠に基づく強力な審議機関を設置すること(参議院地方行政委員会昭和35年5月)ということを述べて、道路交通行政について関係行政省庁の連絡調整を強く要望している。   省庁間の行政の総合化ということは、それに関する考え方を一致させその実現の目標を共同のものとして一体的な運営を行うということである。容易なことではないが、そのための努力は是非とも必要なことである。   道路交通法が制定されたときは、たしかに好機であったが、機は熟していなかった。総合対策が樹立され、関係行政省庁が一体となってその対策を推進することになったときこそ交通事故防止の真の成果が挙がる時である。 (3) 交通事故防止対策は声高く言われるけれど、財政上の裏打ちは殆どない。警察庁の昭和30年代の予算書を見れば、そのことは極めて明らかである。如何にすぐれた効果のある対策を樹てても財政の裏付けがなければ実現できない。   費用対効果の理論をもち出すまでもなく、年間、交通事故によって失われる1万名以上の生命、死亡者の50〜100倍になっている負傷者、そして破壊され、失われている財物の被害を考えればこれを少しでも軽減し、さらに無くするための費用の支出は断じて惜しむべきでない。基本問題調査会の答申にいう「わが国においては伝統的に人命尊重の観念が稀薄である」という一文は、交通事故防止を考える上で真剣に取り上げて考えねばならぬことである。交通事故による死亡者が増えると取締りの強化をいう。しかし、交通事故は道路交通の諸条件のバランスを欠いていることにも大きな原因がある。その原因によって生起している交通事故もすべて交通取締りでカバーすることには限界がある。アンバランスな状態を改善する対策の実施と併行するとき、より大きな交通取締りの成果が期待できるのだ。金の力は時期と対象を選ぶことによって、大きな効果を発揮する。その例として、昭和39年の東京オリンピック開催を挙げたい。オリンピック開催準備のため1兆8,000億円が支出され、道路に1,700 億円、新幹線に3,800億円、地下鉄に1,900億円というように,関連事業に多額な費用が支出されている。 このことは道路交通の観点から見れば、その当時の東京を中心とする地域一帯の交通事情を改善するために集中的に金が使われたということである。この結果は東京の都心の交通事情はその相貌を一変した。   昭和45年をピークにして、わが国の交通事故も死亡者も負傷者もその翌年から減少をはじめている。何故か。政府はますます増加して行く交通事故と死亡者、負傷者の実情に対し、緊急措置をとって、その防止を図るため、昭和41年“交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法”案を国会に提案するとともに、この法に基く第一次三ヶ年整備計画を樹て、三ヶ年の交通安全施設等の事業費として603億円を計上した。さらにその翌年、722億円に総額を修正した。その目的は歩行者の安全通行とりわけ、学童の安全登下校のための安全施設の整備と自動車等の交通事故の防止のための道路の安全対策の実施である。さらに引きつづいて、第二次三ヶ年計画、第一次五ヶ年計画と現在に至るまで計画的に事業を継続し、その事業費もその年次計画の都度増額している。   この法律に基づく事業が昭和45年以後にその成果を生むことになった。はじめて道路交通安全対策に財政上の裏打ちが行われ、その金が集中的に使われるようになった結果である。