第7章 交通警察の展開(3) ― 問題と対策 ―  モータリゼーションの進展とともに道路交通の実情はますます複雑化し、その中から交通事故が生起し、死者傷者の数は年を逐って増加し、交通事故は大きな社会問題になってきた。  これに対し、交通警察の所掌する「道路交通の危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図る」(道路交通法第一条)という任務も、単なる交通取締りということでなく、広く深く道路交通の実態の中に存する問題を明らかにして、それに対応する適切な対策を立て、適時に実施することが重要なことになってきた。  昭和35年頃から約10年の間における道路交通に対する交通警察展開の中において取り上げられた問題とそれに対する対策について、以下、節を分けて項目毎に叙述することとする。 第1節 交通取締りの問題と対策 1 この節に言う“交通取締り”は、警察法に定められている“交通の取締り”や道路交通取締法等の名称となっている交通取締りという用語の意味と比較すると、狭義の交通取締りを意味している。具体的に定義付ければ、主として道路交通法(付属法令を含む)に定められている歩行者の通行方法、車両及び路面電車の交通方法ならびに運転者及び雇用者等の義務等の諸規定を順守させるために指導し、及び、その規定に違反しているものについては、法に基づいて必要な処置を執ることである。 2 問題と対策を論ずる前に、交通取締りの実情を明らかにするため、昭和33年及び昭和44年の道路交通法令に違反し検挙されて送致(昭和44年は交通反則制度による告知を含む)された件数及び主なる法令違反の件数を述べておく。   昭和33年、道路交通取締法及びその他の道路交通関係法令に違反して送致された件数は 220万件である。その中で、無免許3万3千件、速度違反38万3千件、酩酊6千500件、駐車・停車違反32万1千件などが主なものである。これを昭和44年について見ると告知又は送致された件数は、全件数で約420万件で、その中で、無免許34万4千件、速度違反135万件、酒酔い13万5千件、駐停車違反74万4千件となっている。両年を比較した場合44年は、全件数で約2倍、無免許約10倍、速度約3.5倍、酩酊2倍、駐停車2.5倍の増加となっている。掲記した各違反項目の全件数に対する構成比は両年とも相似たもので、44年について見ると、無免許の構成比率は10%、酒酔い4%、最高速度7%(44年度の告知数の場合41%)駐停車17%となっている。   因みに、それぞれの年に生起している交通事故は昭和33年は、16万8千件、負傷者14万5千人、死者8千 248人であり、昭和44年は72万件、負傷者96万2千人、死者1万6,257人である。   車両(自動車及び一種原付自転車)の台数は、33年は346万台、44年は2,600万台である。免許保有者数は33年 765万人、44年2,480人である。 3 昭和33年から約10年の間において、自動車、原付自転車の数量が7.5倍に増加し、免許保有者が 3.2倍増加しているということは、その間にわが国の道路交通の状態がモータリゼーションの時代に入ったことを示している。にもかかわらず、道路の改良、新設等は必ずしも進転しておらず、また、交通安全施設等の整備も不十分であり、モータリゼーションとは言いながら各条件の調和を欠くひずみの多い道路交通の実情であった。   政府は、このような状態に対し、昭和37年8月に、既述の交通基本問題調査会を設け、これに対し、道路交通についての総合的施策の意見を求め、昭和39年3月に、その答申が出されている。もとより、それまでにも施策がない訳ではない。関係行政機関はそれぞれの分野で対策を樹て、その実施に努めている。しかしその施策が実行されて効果を生むまでには日時の経過が必要であり、またその施策が実現した時にはすでに次の施策を必要とする新しい事態が生じている。道路交通事情の質的及び量的変貌は目まぐるしい程に急激である。   そのような道路交通の状態に対し、即効的な成果を強く期待されるのは警察による交通取締りである。政府は交通事故による死亡者が年々増加する事態に対し、その都度「交通取締り」の強化を要望し、世論も取締りの強化を期待する。所管行政庁である警察庁は、その要望に対応し、更なる取締り態勢の強化を全国の警察に指示している。   昭和37年6月、警察庁長官は全国交通課長会議において、次のような訓示を行っている。「交通取締りは交通事故防止上最も直接的な効果を期待し得るものであり、このことは一斉取締りを実施すれば交通事故は減少するという従来の実績に徴しても明らかである。しかしこれを反復継続することは自ら限度があるので、恒常的な取締りの体制を強化することが必要である。」(資料編 第6−3)   交通事故防止には、交通取締りは確かに直接的な有効手段であると言えるかも知れないが、それには自から限界がある。取締りを強化しても、交通事故の増加を抑止することはむずかしい。交通警察の運営上の苦悩はここにある。 4 終戦後から数年の間は交通警察の運営は占領軍の指導下にあり、「交通事故の防止は交通取締りの如何にかかっている」「交通事故の数量と交通取締りの件数は反比例の関係にある。」というアメリカ流の考え方が第一線の警察に浸透し、交通警察の主な仕事は交通取締りに集中していた。ところが、日本経済の復興発展に伴って、道路交通は自動車の運行を中心として、年を逐って活発となり、多様化し広域化して来ている。他方、その交通を受容する道路条件は、何れの点を見ても不備又は欠陥が多く、また危険防止のための安全施設も殆ど設けられていないという状態である。このような道路交通の実情の中で交通事故が起こり、その後を追いかけてさらに新しい交通事故の原因となるような事態が生じている。   これが昭和30年前後の道路交通の実情である。  そのような実情の中では、交通取締りをどのように強化しても交通事故の防止については自ら限界のあることが極めて明らかである。そこで警察庁としては、その当時(昭和30年〜32年頃)における道路交通の実態とその中に存する問題をできるだけ明らかにして、その当時考え得る限りの対策意見をも加えて「道路交通における問題と対策」を発表した。交通事故の防止は道路交通に係わる道路の条件の改善整備、交通安全施設の整備充実、運送事業の適正化等が的確に行われない限りは、交通取締りを如何に強化してもその効果には必ず限界があるということを明らかにすることがこの「問題と対策」を発表した大きな理由であり、そのような総合的な対策の中における交通警察の位置づけを行い、その交通警察の任務と課題を明らかにして、その強化を要望することがもう一つの理由であった。 5 交通取締りの目的は、道路交通の秩序を確保して交通事故の防止を図ることにある。しかし現実に行われる交通取締りには、何時の場合も、厳しく行えば行うほど、その取締りをこころよしとしない者が必ず出てくるという宿命のようなものがある。取締りが厳しすぎる、取締りのための取締りであるという非難が起こり、挙げ句は「如何にして取締りを逃れるか」「如何にして取締りの警察官に対処するか」などを教える書物までも出版されるようになる。交通取締りはむづかしい。取締まる者と取締まられる者とは相対立する関係にあるように見えるけれど、実は両者共に危険防止に協力し合わねばならぬ関係にあるものというべきである。スピードを出し過ぎている運転者はそのままであれば交通事故を起こす可能性は極めて高い。それは発生した交通事故の原因を調べれば直ちに判ることである。その出し過ぎを取締まられたことによってその運転者は事故から免れたといってよいのである。多くの運転者は、駐車違反で取締まられることを嫌う。しかし駐車を取締まって道路の利用をよくすることは即ち運転者にとっては安全円滑な通行ができることになる。身近な例をあげたが、交通取締りの問題の根本はこういうところにある。取締まりに当たる警察官については「納得のいく」取締りということを常に念頭に置いていることが望まれるし、取締まられる運転者についてはその取締りに協力という心情であって欲しい。このことは当時の交通警察の関係者の強い願いであり思いであった。   交通警察についての磧学といわれる藤岡長敏氏は、その著書の中で「交通取締法規は円滑にして安全な交通の仕方を公示しているものであるから、その規定の内容には所謂注意規定が多分に含まれている。故にこの規定に違反したからといって直ちに処分処罰を以て臨むというが如きことは、法規の最もすぐれた執行方法ではないのであって、「よく知らせて導く」ということを主眼としなければならない」と述べている。戦後の混沌とした道路交通の事情の中で行われる交通取締りについて述べた見解である。「よく知らせて導く」ということは、「納得のいく取締り」というように理解できる。藤岡氏はさらに続いて「しかしながら導くべからざる悪質なものに対しては、社会的地位等を顧慮することなく飽くまでも糺弾し、法の威力によって順守を強制しなければならないことはいうまでもないところである」と述べて、交通取締りの意義を端的に指摘している。 6 交通取締りの強化と合理的な業務の展開について、次のような問題がその対策とともに検討された。  (1) 人の問題   交通事情が大きく変化しているにもかかわらず、警察官の数は殆ど変わっていない。その当時は交通警察に従事していた人員数は全警察官の人員数の5%未満に過ぎなかった。極めて大雑把な叙述であるが、例えば当時定員7,000名の府県警察(愛知、神奈川、兵庫等の県)を例にすると、約300名が交通警察の専従者であるが、これには本部要員分が含まれるから、これを除いてこれを約50の警察署に均分配分すると1署3〜5名ということになる。処理すべき事務量からすると絶対的な人員不足というべきである。   交通警察に専従する者についての訓練が不十分である。法令の知識、自動車の運転、街頭における取り調べ等は取締りに従事する警察官が備うべき最小限必要な能力条件である。  ところが、昭和30年前後の頃は、その条件を充たす者は少数であった。交通警察専従員の養成は、喫緊の要請であり、とくに幹部要員について早急にその対策が望まれた。   このような問題に対し、警察庁は人員の増加について検討し、昭和37年12月、1万人の増員を決定し、2年間で増員を実現することにした。   交通警察に従事するものに対する教養訓練の対策の一環として、交通取締り等についての訓練、装備等の知識を得させるため、昭和33年頃から同36年頃にかけて、警察庁ではとりあえず2名の要員を米国に派遣し、ノースウエスターン大学の交通研究所に一年間入所させ、また、警視庁、大阪府警察等では幹部を米国に出張させて、主として交通取締りの実情を視察させた。   国内においては、警察大学校に交通専科を設けて警視庁、各道府県警察の交通警察の中堅幹部要員の養成を行うことにした。 (2) 装備の問題―取締りの科学化   交通事情の変化に対応して、交通取締りの態容も変えていかなければならない。その中で特に取締り用の装備を科学化し、かつ充実することが最も大事である。   戦前から戦後にかけて殆ど唯一といってよい装備は、オートバイであった。警視庁では初め「赤バイ」と呼称していたが、昭和11年白バイと改称し、自動車の取締りに当たった。しかし自動車の性能がよくなり、その自動車が頻繁に運行するようになり、さらにオーナードライバーが増加して暴走するような事態が起こって来ると、それに対応した高度な機動力を備えた取締りが必要になってきた。 これに応ずるため、昭和32年頃から警視庁及び大都市の存する府県においては、白バイ及び四輪の自動車による機動取締りを行うことにし、取締り用の車両を整備するとともに速度測定装置を装着して動的な違反取締りに備えるようにした。昭和36年には定置式のレーダーによる速度測定装置を設置した。これらの機械的装備は、一方において機動取締りに力を発揮したが、他方においてこの取締りに対する非難の原因にもなった。定置式測定器による取締りについて“ねずみ取り”などという俗語が使われるようになったのも昭和38年頃のことである。   飲酒による危険な運転やそれによる交通事故が漸増し、その取締りを厳しく行うことになった。とくに昭和35年の道路交通法の制定により「酒気を帯びて運転すること」が禁止されるとともに、飲酒の運転について厳しい規制が定められた。それ以前からも飲酒運転についての取締りは厳しく行われていたが、社会生活の習慣から飲酒の運転は容易に止まず、道交法の制定を機としてその取締りを一層厳しくすることになった。これにともなって、法律によって「アルコール度」の検査が不可欠のことになり、精度の高い測定機器を設けなければならなかった。路上において、かつ即刻アルコール度を検知することのできる機器が必要であった。通称「風船式検知器」といわれる呼気を風船様のものに採取し、その呼気を分析してアルコール度を検知する機器が使用された。   取締り機器について欧米先進国の状況を調査したが、装備そのものについては概ね前述のものと同様なものであり、アルコール検知器などはむしろ日本より輸入したいという要望がある程であった。しかしそれにもかかわらず、欧米の取締りが適切に行われているのは、そのための機材が豊富に使用されていることと、道路交通の環境条件が日本に比べると遙かに整っていることによる。  (3) 違反の処理   取締りを強化することにより処理を要する違反件数は増加し、昭和30年以降の件数は年間1,000万件を超えるようになって来ている。このような状況に対し、その大半は「指導」という考え方で、警告にとどめていたが、なお取締り件数の中の30〜50%位は検挙して検察庁に送致することを必要とするものである。   検挙して送致した厖大な事案が適切かつ迅速に処理されることは、取締りに当たる警察にとっても、また検挙された運転者にとっても望ましいことである。このようなことから昭和29年5月「交通事件即決裁判手続法」が制定された。この法律に基づいて東京都においては、東京墨田区検察庁内に「交通事件即決裁判所」が設置され、警察、検察、裁判の三者が一体になって処理の迅速化を図った。   しかし、この制度の下においても、処理すべき事案がますます増加し、また、出頭に応じないものも多く、東京都ほか大府県においては適正かつ迅速に処理するということが必ずしも行われ難くなってきた。その結果、昭和38年1月1日から東京及び大阪において交通切符制度を採用することにした。この制度は、違反が検挙された時、取締りの警察官が違反者に対し「交通切符(告知票)」を交付し、警察、検察、裁判の三機関で構成している交通裁判所への出頭日(あらかじめ指定されている)を告知し、その日に出頭すれば即日処理されるという方式のものである。その後も引き続いて警察庁、検察庁、法務省の間で事件処理の簡素化迅速化を図ることを検討した結果、昭和42年8月道路交通法の一部を改正して「反則行為に関する処理手続の特例」の規定を設け、昭和43年7月から実施した。   この制度は、大量の道路交通法令の違反の事犯の処理をさらに迅速にし、その手続きを簡素にするために考えられたもので「比較的軽微で、おおむね現認、明白、かつ定型的な違反行為」を「反則行為」とし、取締りをした警察官がこの反則行為を行った「反則者」に告知し、その告知の報告により警視総監又は道府県警察本部長が一定額の「反則金」の納付を通告し、納付した場合はその時点で公訴が提起されなくなるというものである。   この制度の創設が決定するに至るまでには、いろいろな経緯もあったが、警察、検察、裁判の各機関で慎重に、しかし前向きに検討し、「一定の軽微な違反行為については、刑罰に先行して行政上の措置として処理されるものである」ということについて意見の一致を見て実現したものである。この種の制度としては、先に国税犯則取締法の例があるが、この制度は、それともまた一味違っており、行政法犯の処理方策としては、画期的なものであるということができる。この制度は、発足の当初は少年が除外されていたが昭和45年8月に少年にも適用されることになった。因みに、この制度が定着したと考えられる昭和48年には、全交通事件の80%がこの手続きで処理され、95%の者が反則金を納付している。[資料編 第4−8] (4) 違反行為について自動車運転者の適性調査   法令違反行為がどのような原因で行われるかということを理解することは、交通取締りの上で大きな参考になることである。   科学警察研究所に交通部が設けられたことを契機として、違反行為についての研究が行われているが、その一環として違反行為者の適性等について調査をした。   昭和34年の間に交通法令違反をした者を含んで約100名の運転者に同意を得てあらかじめアンケートによる事前の調査をし、さらに再び同意を得て心理学者、精神医学の医師、警察官の三者のプロジェクトチームにより面接による調査を行った。   その結果を研究所の交通部で分析、整理したところ興味ある調査結果が得られた。その調査結果の中で「違反のない者と違反の経験のある者との間には適性の上では殆ど相違のないこと」、「本人が気が付いてない神経性の病が口頭面接の間に明らかになったこと」など、交通取締りの上でも注目してよい事実が指摘されている。 7 まとめ   以上昭和35年前後における交通取締りについての問題と、これに対処して考えられ執られた対策を述べた。   思うに、その対策、施策は,当時の混沌とした道路交通の状態の中で、自動車の数量と交通量だけが際だって増加し、益々混乱の度合いが深まるその中で多量の交通事故が発生し、その事故によって多数の死傷者が出たという事態に対し、如何なる取締り体制を作り上げるかについて多くの試行錯誤を繰り返して作り上げたものである。そしてそれこそはその当時だけでなく、将来にわたって行われる交通取締りの理念と方策の基礎を作り上げたものである。   この時期は、交通警察に従事する者にとっては、交通事故防止と交通秩序の確保のために、その責任を一身に感じて苦闘を重ねた時代であり、また、人権問題と厳しい交通取締りの狭間に立って苦悩の続いた時代であった。 第2節 交通規制の問題と対策 第1 交通規制の概念 1 交通規制という用語が法令の中で交通警察に関して使用されているのは、警察法に定められている国家公安委員会の任務権限の中の「全国的な幹線道路における交通の規制に関すること」(昭和33年3月の改正で追加)と、警察庁交通局の組織の改正で設けられた、「交通規制課」(昭和42年警察庁組織令の改正)という名称である。   ここに書かれている規制の意味内容は、道路交通取締法(昭和35年12月まで有効)及び道路交通法(昭和35年12月20日より施行)に定められている主として道路における通行の禁止制限に係るものである。 2 戦前、戦後を通じての道路の交通規制の概念を、道路交通関係法令の規定内容によって見ると、その時代、あるいは、その時代の道路交通の状況によって、考え方にも内容にも相違のある事が判る。   戦前の交通規制は道路取締令(大正9年)及び自動車取締令(昭和8年)によって行われている。道路取締令は「地方長官(現在の都道府県知事)は、危険防止その他公安上必要と認めるときは道路の通行を禁止し又は制限することを得」と定め、警察官についても「一時道路の通行を禁止制限することができる」と定めている。(令18条)   自動車取締令では「地方長官は自動車の通行する道路、区域又は時間に関する制限を設けることを得」(50条)と定め、このほか最高速度の制限、自動車の停車駐車の禁止制限等について、地方長官の権限を定めている。   この道路取締令及び自動車取締令の規定の内容から考えると、戦前の交通規制は、その実施については「地方長官」の権限が広汎かつ強力なものであり、実施するに当っては、地方長官の裁量判断による場合が多いように解される。道路取締令の規定に「その他公安上必要と認める場合」と定められているが、この規定は、道路の交通のためというよりは、道路の使用の必要というところに意味があるように解される。例えば陸軍の大演習、大規模な祭典行事等で道路交通を確保することの必要な場合等であろう。 3 戦後間もなく、道路交通取締法(昭和22年11月。同24年5月改正)が制定された。その中で、「公安委員会(都道府県公安委員会、市町村公安委員会及び特別区公安委員会をいう。)は危険防止及びその他の交通の安全のため必要があるときは、道路の通行を禁止し、又は制限することができる。」と定められ、同じ条文の第二項で「当該警察官又は警察吏員は、危険防止のため緊急の必要があるときは、一時道路の通行を禁止し又は制限することができる」と規定されている。(法6条)   次に、「道路を通行する歩行者、車馬等は、信号機、道路標識もしくは区画線の表示、又は警察官(吏員)の指示に従わなければならぬ」と定められている。   最高速度について「公安委員会は道路、区域又は時間を限って制限することができる」、駐車、停車について「公安委員会は時間又は場所について必要な制限を定めることができる」と定められている。   この法律が制定された当時は、終戦直後の不備な道路条件、整備不良の自動車の運行、雑多な荷馬車、荷車の通行、法令無視の歩行者群など交通の危険を生じ、混乱を引き起こすような条件が重なっており、法律は多分にそのような状態を意識して、交通の規制を定めたと考える。即ち道路交通を如何にして秩序づけるかということが規制の主眼点であったといえよう。   その後、道路交通取締法の一部改正と共に、その付属法令である道路交通取締令(内務省令)が全面的に改正され、道路交通取締法施行令(昭和28年政令)が制定された。この改正により交通の規制に関する規定についても、改正前の考え方を踏まえつつ、自動車の通行を中心とするモータリゼーション化しようとしている道路交通に対して「交通の安全の確保」を大きな目的とする考え方が強く滲み出ているように考えられる。即ち、道路交通の危険を防止し、交通の安全を図るために積極的に規制を行うということである。 4 昭和35年11月、道路交通法が制定された。その法の目的が「道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図ることを目的とする」と定められた。旧法にはなかった「円滑を図る」ということをとくに目的として取り入れたことは、今迄の交通規制の概念を消極的なものから積極的なものに拡大したという点において、道路交通法令としては画期的な改正であったといってよいであろう。   そのような改正を促したのは、大きく変貌しつつある道路交通事情に柔軟に対応する必要が大きくなってきたためである。道路交通の現状及びその将来を展望したとき、交通警察の立場からも、積極的な総合的な交通規制を行う必要が生じてきていたのである。   道路交通法の制定によって、道路交通の円滑を図るための政策的な規制という考え方を在来の既成概念の中に導入したというべきであろう。 第2 交通規制の実施の概要 1 道路交通法の制定は、交通警察によって行われる規制の考え方を、その実施方策と共に大きく進展させることになった。   その考え方として、(イ)交通の安全を図るため。(ロ)交通の円滑を図るため。(ハ)道路利用の効率化に寄与するため。というように整理して見た。交通規制を行うに当って、安全を図ることのみを考えると、道路の利用効率を低下させることもあり、円滑を図ろうとすると、安全に影響するおそれがあるかも知れない。しかし、モータリゼーションが深化したわが国の道路交通の実態からみて、その矛盾していると思われる各様の交通規制を調和を図って実施することが交通警察の任務であるということになる。   以下、それらの考え方に基づいてこの時期にどのように交通規制が実施されたかを例示によって解説したいと思う。 2 主として交通の安全を図るための規制 ―交差点交通の整理―   交通事故の発生状況を分析すると、道路の交差するところ即ち交差点に最も多くの事故が起こっている。交通の安全を確保し、事故を防止するためには、交差点における対策が極めて重要である。   交差点について道路交通法は、その定義を定め、その場所の通行の仕方について詳細な規定を行っている。しかし、ルールはどこまでもルールであり、現実は仲々ルール通りには行われない。昭和30年頃、漸やく自動車の交通が増加し、交差点においてクロスする自動車、その他車両(電車、荷車等)そして横断する歩行者等が雑然として通行する状態に対し、これらを如何に秩序立てて通行できるようにするか、このことは、交通警察の展開の上で重要な課題であった。   交差点の交通整理には、その手段として、警察官の手信号又は指示によるものと信号機の合図によって行われるものがある。しかし、その何れかの方法によって交通の整理が行われている交差点は、昭和30年代とくにその前半においては大都市又は中都市の都心部位であって、その他の交差点は、ひとえにその場所を通行する自動車の運転者や歩行者の自律に一任されている形であった。   交通整理の手段について沿革的に見ると昭和30年代前半迄は警察官の手信号によるものが主流であった。東京の都心の交差点の真中に設置された台の上に立つ交通整理の警察官の姿は、東京の風物詩の一つであった。その頃、警視庁では交通整理に当たる各署の専務員の“交通整理コンクール”を行っていた。その交通整理の指導に専念したヴェテラン警察官の体験談は変貌を続けて行った交通事情とその中における交通整理のむづかしさを切切と訴えている。   信号機による整理が一応形を整えたのは昭和8年の系統式信号機が東京に設置された時からである。それ以来、東京はじめ大都市においては、信号機による交通整理を発展させたけれども、信号機の性能は、昭和36年の自動感応系統信号機が輸入されるまでは殆ど変わっていない。昭和33年、米国で宇宙飛行が行われたとき、“この科学の時代に何故交通信号機は旧態依然として変わらないのか”と交通警察の首脳が嘆息をもらした。   昭和35年の統計によると、信号機は全国で2,500基余が設置されているが、その大部分は東京、大阪、名古屋等の大都市であった。当時、地方の中小都市では殆ど信号機は設置されておらず、秋田県や佐賀県などの報告によると“県内の中心都市に、1基乃至2基設置しているが、何れもどちらかといえば道路交通の教育用である”ということであった。警察官の整理で足りていたのである。   なお、大都市においては信号機の必要はますます大きくなっていたが、現実的には財政的制約が大きく、設置できないという事情があった。   昭和36年に米国より自動感応式系統信号機を輸入し、これを土台にして実験と研究が行われた。その当初の実験段階の頃、国道1号の東京都品川付近約3km程の間に機器を設置して現実の交通に対応して実験を試みたが、アメリカの技術者の説明による性能通りの効果が出ず、果たしてこの機器がわが国の道路交通事情に適合するものであるかどうかという疑念も生じた。その後、実験と研究の試行錯誤を重ねて昭和38年6月にわが国独自のシステムを完成し、東京都内で実験して、その成果を確認した。この成功が、それから後の道路交通の信号制御についての研究を促進し、現在のような高度な制御システムを完成させたのである。   そのような発展の中で、信号制御の改善を図りつつ、昭和40年には全国で8,285基の信号機が設置された。その頃になると、交差点の真中の台上の交通警察官の整理の姿はなくなっていた。   信号による交通規制のほか、横断歩道の設置、横断歩道橋の建設等による安全対策がとられ、また、交差点内及びその周辺の道路に対し、道路標示によって通行を指示するチャネリぜーション交通規制対策もとられた。   横断歩道は、歩行者の安全のため道路上に道路標示によって横断の場所を指定したもので、自動車の運転者に対しては、歩行者の優先通行を明らかにしたものである。歩道橋は、歩行者と自動車の通行を分離したものである。道路上の道路標示による自動車の通行の指示は、交差点の交通の円滑と安全に大きな効果を発揮した。   信号機による整理及び前述の各様の対策によって、昭和40年代に入って、漸やく交差点交通についての総合的な規制対策が行われるようになり、交差点通行の相貌は大きく変わった。 3 主として交通の円滑化を図るための例   昭和35年頃になると、自動車の交通量とこれを受容する道路の諸条件の間にアンバランスな状態が生じはじめた。自動車の数量は233万台で昭和33年に比べて1.6倍に増加している。これに対して、道路の諸条件は殆ど変わっていない。   このような道路交通の状況に対して、交通の円滑を図る方策は、自動車の交通量を制限して道路の条件とのバランスを維持する措置を執ることである。このためには、交通の渋滞を生じ、混乱を起こしている路線及び地域を全体的に調査して、総合的な交通規制を行うことを考えなければならない。   大阪府警察は昭和35年、大幅な交通規制を計画し、大阪市内の219路線の「一方通行」の規制を行うとともに、さらに主要路線である29路線を選んで、自動車の駐車禁止を行った。   その後も大阪府警察では交通の円滑化対策を推進し、昭和45年に開催される万国博覧会開催に伴って予想される自動車交通量の増大に対処するため、大阪市内の目抜き道路の一方通行を決定したが、余りにも厳しい措置であるとして、大阪市議会で論議を引起すこともあった。   警視庁においては、昭和36年頃から都内の中心部の交通の円滑化のため、約一年間にわたって、計画的に、混雑する路線について、右折及び左折の禁止、一方通行の指定、駐車禁止などを組み合わせた総合的な交通規制を実施して来た。一時的には円滑のための効果は出たけれども、東京都の場合、昭和39年に東京オリンピックの開催が予定されているため、道路の改修工事、都市構造の近代化のための道路上の掘削工事等が一斉に行われ、広汎な交通規制にかかわらず都内都心部は「混乱状態」に陥った。   このため警視庁では、昭和37年早々、特定自動車の通行について大幅な交通規制を行うことを計画した。後日、「車種別交通規制」といわれるものである。大型トラック、大型バス等、特に交通の円滑を阻害するおそれのある自動車に対し、都内主要路線を指定し都内へ流入する時間帯を指定して通行を禁止制限し、都心部全域の交通の円滑を図るという総合的交通規制である。   その後、警視庁は、当初案を大幅に修正したが、なおかつ交通の円滑化を実現するためにはこの計画は不可欠の交通規制であるとして、昭和37年4月に実施した。   大阪府及び東京都の事例を参考にしまた教訓として、大都市を有する府県においては、それぞれの実情に応じて「円滑を図るため」の交通規制を行った。 4 主として道路利用効率をあげて、交通の安全と円滑を図るの例   自動車の増加、都市構造の状態、社会構造の変化等によって、道路の利用が阻害されることが多くなってきた。交通以外の行為として道路上に物件を放置する、店を出して物品販売をする、子供の遊び場にする、祭礼などの催物が行われる、集団示威行事が行われる等のことが行われ、その結果、交通に支障を来たすことが少なくない。しかし、このようなことについては、社会生活の実態と密接に結びついていることであるので、その規制については、“交通の円滑のため”ということのみを理由としてこれを行うことについては慎重でなければならない。道路交通法はこのことについては“道路の使用等”としてのその禁止制限等を定めており、道路交通の規制という概念とは一応区別している。   道路の交通について、交通の安全と円滑を阻害し、且つ道路本来の機能を著しく害しているものに、道路上の駐車がある。片側二車線ある道路も、駐車の態容によっては完全に一車線が使用不能になってしまい、この結果著しい円滑な交通の阻害を生じ、また交通の危険の原因となる。   法律は駐車及び停車について、その場所、方法等について詳細な禁止制限の規定を設けている。さらに、公安委員会が駐車又は停車について規制を行うことができることを定めている。   道路交通が頻繁になり複雑になるに応じて、駐車及び停車についての規制を強化せざるを得なくなってくる。   東京はじめ、大都市においては道路の状況によって駐車の禁止制限を強化し、主要道路は殆ど道路の全区域にわたって駐車を禁止し、また、自動車の交通が集中して行われている地域については、その地域内の総ての道路の駐車を禁止する措置を執っている。   しかし、駐車の規制は社会生活の上ではその影響の極めて大きいものである。したがって、駐車の禁止制限については、道路の条件、交通量等を十分に調査をし、その結果によって、全面的禁止、一日の中の時間の限定、日曜祭日の除外等、きめ細かい規制を行っている。   他方、政府においては昭和32年5月に「道路交通の円滑化と都市の機能の維持及び増進に資するため」という趣旨の下に制定された駐車場法に基づいて路上駐車場及び路外駐車場の設置の推進を図ることにし、その実施については主として地方公共団体が当ることにした。路上駐車場は、別段の施設を設けるわけでなく、道路の一部を限って有料で駐車を認めるという形の駐車場である。駐車を禁止した場所について、区間を限って有料を条件として駐車禁止を解除するということである。社会生活の実態との調和を図った制度であり、都道府県公安委員会もこれに協力している。   昭和35年以後の道路交通の状況は、駐車の禁止制限という規制をますます強化せざるを得ぬ実情である。自動車の交通量が急激に増加しているにもかかわらず、道路条件の改善改良は、未だ殆ど効果が生じていない。   駐車の禁止制限という規制は制度である。「駐車してはならない。駐車をしたものは処罰する」という制度である。その制度の実効は、自動車を使用する者、運転者の順法の心と警察による取締りによってはじめて挙げることができる。しかし実情は、その当時においては順法の心よりは必要の要求が強く、他方、取締りは、警察官の人員不足と余りにも多い違法な駐車のため、これに対応し切れないという事情があり、駐車規制の実効を挙げることは極めて難しかった。昭和35年、道路交通法の制定に際し、「違法駐車の自動車の強制撤去」を定めたのも、駐車規制の実効を挙げるための担保措置とも言えるのである。   その当時、交通警察を担当するものの間では「No Parking」の道路を考えるのであれば反面「MayParking」の道路を考えることはできないかということが真剣にかつ、深刻に論議された。駐車の規制の効果を確保するための考え方である。 第3 総合交通規制について    −交通安全施設等整備事業三ヶ年計画 の樹立ということ― 1 前述した各種の交通規制は、当時の交通事情の改善、とりわけ交通の安全と円滑を図るためには絶対的に必要なものであり、かつ、迅速に実施されなければならないものである。しかし、その当時においては、「計画は出来ても金がない」というのが交通警察の悩みであった。政府も交通事故防止については、時々に対策を示すけれど、その財政の裏打ちは、殆ど行われていない。漸やくこの財政対策が図られたのが、昭和40年11月の「交通事故防止の徹底を図るための緊急対策について」という決定である。 2 この決定は、実施方策として交通安全施設の整備拡充を図ることを掲げ、41年2月に「交通安全施設等整備事業に関する緊急措置法」案を提案し、4月1日に公布施行された。   この法律の第1条に「交通事故が多発している道路、その他緊急に交通安全を確保する必要がある道路について、総合的な計画のもとに交通安全施設等整備事業を実施することにより、これらの道路における交通環境の改善を行い、もって交通事故の防止を図り、あわせて交通の円滑化に資することを目的とする」と宣言し、この法律の意義を明らかにしている。(安全施設の効果については資料編 第10−13)   この法律で定める整備事業は、警察関係としては信号機、道路標識、道路標示の設置に係るもの、交通管制センターの設置に関する事業であり、道路管理者については、横断歩道橋の設置、小区間の歩道、自転車道の設置、その他道路の改善等である。さらに、これに要する経費の負担及び補助について定めている。即ちこの事業を実施するため、第一次三ヶ年計画を閣議決定し、当面歩行者の安全保護のための対策と自動車等の交通事故を防止するための対策を定め、このための費用として603億円の金額を計上し道路管理者の負担560億円、都道府県公安委員会負担を43億円とした。 3 率直に言って、政府が道路交通の事故防止対策として積極的にその計画とともに財政措置を具体的に講じたのは、戦後の施策としては稀有のことである。   警察が道路交通法に基づいて行う交通規制には法律上の限界がある。しかもその実施についての財源は極めて乏しい。警察予算の建て方として、公安委員会の行う事案については国家予算の補助金があるが、公安委員会はその事業を行う場合補助金の額を基準として都道府県のその事業に関する予算を要求することになるので、国の少額の補助金枠では、公安委員会の事業は必然的に小規模なものとならざるを得ない。在来信号機が増加せず、道路標識、道路標示が少ないのはそのためである。   この緊急措置法の制定が、これ以後、道路管理行政と交通警察行政が道路交通の事故防止について、同一理念の下に一体的に運営されることの契機となったことの意義は大きい。 ま と め  昭和30年代の交通規制の体験は、今後交通規制の考え方、あり方について多くの教訓と示唆を与えている。   30年代当初の頃は、「危険であるから」「道路がせまいから」やむを得ず通行を禁止制限するという受身的、消極的な規制であった。   昭和35年、道路交通法の制定により、「円滑のため」という考え方が示されたことにより、交通規制の考え方が積極的なものに大きく変わった。   地域的には部分的なものから広域に、規制の手法としては経験的なものから科学的に、規制の組立てについては単純なものから総合的なものに変わっている。   昭和30年代のわが国の道路交通の実態は、その中に多くのアンバランスな条件とひずみを内包している。このような状態の中で、辛うじて道路交通の“流れ”を支えてきたのは交通規制という措置であった。   しかし、すでに述べているように、在来の交通規制のあり方では限界にきている。新たな考えに立って積極的な交通規制を行うのでなければ、わが国の道路交通は閉塞状態になってしまうおそれがある。   昭和30年代の交通規制の体験は次の時期の交通規制の展開についての大きな基礎になっている。 第3節 運転免許  運転免許については、昭和31年に当時の道路交通取締法施行令を改正して、第二種免許を設けるという大きな改正が行われている。にもかかわらず、その後においても引きつづいて、政府部内においても、また国会の両院の地方行政委員会においても運転免許制度の改善についての論議が行われ、数々の意見が提示されている。そのようなことの背景には、依然として自動車の交通量が増加しつづけ、それに応ずるように交通事故が多発していること、昭和31年には340万人余であった運転免許保有者が昭和35年にはその約3倍の1,200万人に増加し、その増加傾向はますます顕著になっていることなどの事情があった。交通事故の防止対策を検討すると、何時の場合もその一環として、運転免許のことが問題となっている。  警察庁では、昭和34年に入ると、法改正の作業を本格化させたが、その一貫として運転免許についても、今までに論議されていた論点を整理し、改正法案にもり込むべきものについての検討を行った。その論点の中の主なものについて叙述する。 第1 運転免許の法的な性格   昭和31年の制度改正の際、第二種免許の性格について議論のあったことは、既述の法改正のところで述べた通りであるが、運転免許制度を論ずるに当っては、基本的に運転免許の法的性格を明確にしておくことが重要である。   運転免許は、道路上においては一般的に禁止されている自動車及び原動機付自転車の運転について、法定の条件を満たしたものに限って、その禁止を解除して与えられる許可であり、その許可が警察許可の概念の範ちゅうに入るものであることは、講学上も行政法上も一致した見解である。   昭和31年、免許制度を改正して第二種免許を設けることとしたとき、「旅客を運送する自動車を運転する免許」は、営業用の免許であるという考え方に対し、第二種免許が、道路交通取締法に定める運転免許に該当するものであると決定したその理論的根拠は、前述の警察許可の考え方にあった。   次に運転免許制度として屡々論議されたのは、免許の効力についての運転免許と運転免許証の関係であり、とくに、具体的に論ぜられたのは運転免許証の有効期間についてである。その期間について戦前からの経過を見てみよう。昭和8年の自動車取締令では、「運転免許を受けたる者は、その運転免許を受けたる時より五年毎にその期間経過後3月以内に主たる運転地の地方長官に運転免許証を提出して検査を受くべし」(令45条の2)と定められており、5年が有効期間であると解される。   昭和22年の道路交通取締令では「運転免許を受けた者が運転免許証の交付を受けたときから2年ごとに、主たる運転地を管轄する公安委員会の検査を受けなければ、その運転免許は効力を失う」(令48条)と定められており、有効期間は2年であると解される。   昭和28年の道路交通取締法施行令では「免許を受けた日から起算して3年ごとに免許証について主たる運転地を管轄する公安委員会の検査を受けなければならない。この場合においては、当該期間満了前3月以内に主たる運転地を管轄する公安委員会に検査のため免許証を提出しなければならない」(57条1項)と定められており、有効期間は3年と解する。さらに同令第57条2項には「前項の検査を受けなかった場合においては、免許は同項の期間満了と同時にその効力を失うものとする」と規定している。   昭和35年の道路交通法では「免許証の有効期間は、当該免許証の交付を受けた日から起算して3年とする」(法92条3項)と定め、明確に免許証の有効期間として3年と規定している。さらに「免許証の有効期間の更新を受けようとするものは、当該免許証の有効期間が満了する日の1ヶ月前から満了する日までの間に、住所地を管轄する公安委員会が行う適性検査を受けなければならない」(法101条)と免許証の更新について定めている。   免許の効力について「免許は免許を受けた者が免許証の更新を受けなかったときは、その効力を失う」(法105条)と定めている。   以上それぞれの法令に基づいて免許証の有効期間を調べたが、戦前は5年(厳密には有効期間とは言えない)戦後、昭和22年から27年までの間は2年、28年以後は3年となっている。なお、この稿では記述しないが昭和47年の道路交通法の改正及びその後の改正で、免許証の期間は免許保有者の年齢及び経歴等により3年、4年、5年に区分されている。   次に、この免許証の有効期間の意味と、免許の効力との関係はどのように解すべきかについて述べておきたい。   昭和8年の自動車取締令の規定によると、(ア)免許を与えたときは、運転免許証を交付す、(イ)免許を受けた者は免許を受けたときより5年毎に、その期間経過後3月以内に免許証を提出して検査を受くべしとあるが、免許証を提出せず、検査を受けなかった場合の免許の効力に係る規定はない。(ウ)検査を受けない場合には、その免許の効力が失われるのではなく取消されると解するのが至当のようである。とすると、自動車取締令の場合は、与えられた運転免許は取消されるまでは有効であり、5年毎に、しかも5年を過ぎてから三ヶ月以内に検査を受ければ、効力は継続するものと解し得るのである。即ち、免許の効力には期限はなく、また、免許証は5年毎の検査に提出すれば足りるということで、免許証そのものにも期限という限定はなかったのではないかと解される。   昭和22年の道路交通取締令により、自動車取締令に定められていた考え方は大きく変わったと解する。即ち、「免許証についての検査を受けなければその運転免許は効力を失う」と定めている。免許証の有効期間を明確に定めている規定はないが、2年毎の検査ということを以って免許証の期間と解し、その検査を受けない場合は免許そのものの効力が失われることを定めていることにより、免許証の有効期間と免許の効力関係が明らかにされているといえる。   昭和28年の道路交通取締法施行令は、運転免許証の有効期間及び免許証の有効期間と運転免許の関係を比較的に明確にした。昭和35年の道路交通法は、以上のような経過を経ている。免許証の有効期間等について、極めて明確に論理を整理して規定した。即ち免許証の有効期間を明定したこと、免許証の有効期間の更新という制度を設けたこと、免許証の更新を受けなかったときは、免許の効力が失われることを定めたことである。   免許証の有効期間については上述の通り、道路交通法によって、はじめて明確にその年限が定められた。この結果、更新の手続きをしない限り、その有効期間を過ぎると、免許証は自動的に効力を失い、同時に免許も効力を失うことになる。更新を受ける場合、適性検査を受けることが義務づけられており、その適性検査に“合格”することが更新の条件である。   そこで免許証の有効期間の根拠は何であるかということが問題である。運転免許制度が論議される場合、いつもこの有効期間が俎上にのせられる。先の第2次臨時行政改革調査会の審議のときも有効期間の延長ということが執拗に論議された。   有効期間を抽象的かつ論理的に言えば、「その者が運転免許を受けたときの適性が健全に継続的に維持されていると認められる期間」ということになるであろう。したがって、その期間が具体的に2年となるか、3年となるか、あるいは5年となるかはその時代の国民一般の健康状態についての資料、運転免許事務の中で積み上げられた資料等を基にした経験則によるとしか言いようがない。有効期間には絶対的といえる年限はない。例えば免許を受けて数ヵ月後に適性検査を受けたとして、病気、けが、その他の理由によってその検査に合格しない場合も起こる可能性は十分にある。法も「公安委員会は、道路における危険を防止し、その他交通の安全と円滑を図るため必要があるときは、臨時に適性検査を行うことができる」と定めている。   免許証の有効期間については、今後も論議されることであろう。 第2 免許は国の免許か、地方の免許  か   運転免許は、国の事務であるが、戦前から地方行政機関に機関委任されているものである。その所以のものは、自動車の使用の範囲が事実上狭小で、行政区域を越えることは殆どなく、地方の実態に合わせて免許の事務を地方機関に委任することが最も合理的と考えられたからである。沿革的に見ると、運転免許はもともとローカルなものであった。   ところが、戦後になって、道路交通の距離的条件は大きく変化した。自動車の運転は全国に及ぶようになり、運転免許の効力は手続きを経れば外国においても有効なものになってきた。このような大きな客観条件の変化に対応して免許制度の見直しが求められるようになった。免許の試験の内容および方法に難易の差がある、取消し、停止等の行政処分の内容及び処理に相違がある等の意見に基づいて、全国的な斉一化を図ることを求め、そのためには、免許を国の事務とすべきであるという見解が表明され、また免許そのものを明確に国家免許とすべきであるという意見が出た。このことについては、昭和30年代の事情について詳細に調べれば、たしかに、各公安委員会によって差のあったことは事実であるが、何れの公安委員会でも試験の体制を整え、施設の整備を進めており、その差は論ずる程のものではなくなってきている。仮に、国家事務とすることにしても、国家公安委員会で直接に処理することは困難であるから、当然、地方機関を設けて行うことになる。とすれば事実上は現在の公安委員会に機関委任することと変わらないことになる。   検討の結果、全国的に斉一を保つための方法として、免許に関する試験、その他の事務の基準、行政処分についての基準、行政処分についての苦情処理の方策などを国家公安委員会で定めることにし、併せて国家公安委員会による事務の調整、指導を行うことにした。 第3 運転免許の年齢   運転免許の制度が論ぜられる場合、何時の場合も免許の年齢が論議の対象になる。道路交通法が制定される前後においても年齢の問題が取り上げられた。   法案を検討していた警察庁の中でも色々な意見があった。道路交通取締法施行令(昭和28年)では、免許の受験資格の年齢を第一種免許の大型免許及び普通免許については18歳以上、小型免許及び軽免許は16歳以上、第二種免許では21歳以上(3年以上の運転経験のあるものについては20歳となることもある)と定めている。   第二種免許を設けるとき、21歳という年齢について高すぎないかということが問題になった。当時、ハイヤー、タクシー等を運転している者の中には21歳未満の者もおり、もし21歳ということになれば彼らは職場を離れなければならなくなる。それだけでなく、21歳という年齢に合理的な理由があるかということが問題であった。当面の問題については、現に、ハイヤー、タクシー等を運転しているものについては、制度全体にわたる法令の経過規定で救済されることになったが21歳という年齢の合理性については「精神の成熟度」ということで議論が纒まった。   道路交通法の法案の準備の段階で、小型四輪車の性能がよくなり、普通自動車と免許の上では区別する必要がないので、普通自動車と小型四輪自動車を統合して普通免許とし、その免許の年齢は政令で定めることにして16歳を予定していた。その後法案論議の過程で普通免許は大型免許とともに18歳ということになった。(その後昭和42年の道路交通法の改正により大型免許の年齢は20歳となった。)   自動車の免許の年齢の問題は、交通事故の防止ということを強調すると年齢の引上げということになるが、反面、モータリゼーションのますます進展する社会生活の現実の中では、自動車を運転することは重要な生活の手段になっており、年齢制限を厳しく考えすぎると、逆に無免許運転をする誘因となり、かえって道路交通の危険を招くことになりかねない。道路交通法の制定の時点では、それらのことを含んで一応論議を尽くし、それぞれの免許についてその年齢を定めた。 第4 運転免許の事務処理上の問題   昭和35年の運転免許保有者は、1,200万人という膨大な数に上がっている。この1,200万人の裏にはその倍以上の免許申請者がいる。そして、免許を申請するものは今後ますます増加することが予想され、免許保有者も増えて行く。このような事情の下においては、運転免許事務はその量が膨大になるだけでなく、その処理の仕方が複雑になり、むづかしくなってくる。一方、この事務の処理に当る公安委員会(具体的には交通警察)は、人員に限りがあり、施設にも限度がある。さらに、技能試験と適性検査については、それを行う試験に当る者の資質、能力の問題と、施設の整備の問題がある。道路交通法案を検討しているとき、試験事務、合格者への免許証の交付事務、三年毎の免許の更新事務、免許の取消し、停止の処分事務が具体的な問題として論議された。   その論議の中から法案の中に取り入れられたのは、自動車教習所の指定である。当時、自動車教習所は自動車の運転を教えるところであるが、運転免許との関係においては「公安委員会の指定した自動車練習所、その他これに類する施設の発行する卒業証明書を有する者で、卒業後一年を経過しないもの」について、適性検査以外の試験の一部を免除するということになっていた。この場合の公安委員会の指定は、法律上要件を定めて、それに該当する教習所について、行われるというものではなく、免許試験の一部免除を受ける者をその試験を行う公安委員会が指定した練習所の卒業証書を有するものと定めるだけのための指定である。   道路交通法には、新しく自動車教習所の指定を定めた。ただ一ヶ条の規定であるが、今までは免許試験の一部免除の便宜的な指定であったものを、明確に指定の要件を定め、その要件を充たすものについて指定するということで、指定を受けた教習所を権威付けたものである。この規定により、指定された教習所は実質的には、公安委員会に代わって免許試験という業務の一部を行うことになった。膨大な受験者に対応するための合理的な対策である。この後、この制度をさらに精緻にして、指定教習所の質的向上を図るための法改正が行われている。   次の問題は、免許の欠格事由として定められている精神病者、精神薄弱者、アルコール、麻薬、大麻、あへん又は覚醒剤の中毒者がその状態を偽り、あるいは、隠して試験を受けたとき、又は合格したあと、その状態の発見をどのような方法で行うかということである。   上述のような事実があるかどうか、ということについて統計的な公の資料はないが、もし、適切な方法を確立して検査を行えば、あるいは、無資格者が試験を受け、又は、合格して自動車を運転していることを発見することができるのではないか、ということが道路交通法を検討しているとき屡々論ぜられた。その頃、心理学者、精神神経科の医師を中心としたプロジェクトチームを作り調査したとき、約100人の運転者の中から1名のてんかん病をもっている者を発見している。   議論は行われたが、具体的な方策を樹てるに至らなかった。その後、昭和40年末から昭和41年初頭にかけて一つの対策案を樹て、試行した。その案は運転免許を申請するときに、精神神経科の専門医師の診断書を申請書に添付することである。この案は、警察庁において10名以上の精神神経科の学者及び医師による審議会を設け、その答申に基づいたものであった。   この案に基づいて、試行したが、その頃、すでに2,000万人以上になっていた免許申請者に専門医の診断書を添付して申請させることは、事実上むづかしいことが判り、診断書の作成は専門医でなくても医師であればよいということになり、その中にその他事情も重なって試行期間を終えたところで廃止することになった。しかしこのことは放置しておく訳には行かない問題である。アルコール依存症の者や薬物中毒者による発作的な傷害事件が起こり、それらの患者の増大とともにさらに増加している。もし、そのような者が自動車を運転しているとしたならば、これ程危険なことはない。   道路交通法の法案審議の際にも、両院の地方行政委員会において「適性検査を適確に行うため制度を根本的に再検討し、改善をはかること」が強く要望されている。今後における大きな課題である。   次は、免許の取り消し及び停止という行政処分の問題である。   交通事故が増え、交通法令違反が続発すると、それに伴って、免許についての行政処分も増加してくる。増加してくると、その事務の処理について、考えねばならぬ問題が出てきた。   行政処分について屡々指摘又は要望されたことは、各公安委員会の処分の基準が整一でないこと、処分決定までに時間がかかり過ぎること、処分について教育的な意味を考慮して講習制度を活用すること、危険防止の観点を重視して処分を重くすること等であった。昭和39年の基本問題調査会の答申では、そのような事態に対処するため、点数制度(ポイントシステム)の採用を検討することを提案している。   他方、行政処分庁としての公安委員会は、益々増加している行政処分案件の処理について、要員の充実、事務手続の簡素化を強く要望していた。当時の実情を考えると事務処理が遅延することも巳むを得ないことだった。また、聴聞を行う必要のある取消しや長期の停止の事案については、公安委員会自身がその処理に当るため、処理事案が多くなって来ると委員本人の本来の職務に支障を生ずるようになるおそれもあった。   道路交通法の制定のときは、行政処分については特段の措置を執ることはできなかった。専ら今後の検討と対策に俟つことにした。警察庁では、その後も継続して検討をつづけ、国家公安委員会による詳細な基準の設定を行って、全国的な処分の斉一を図ることにしたほか、行政処分を受けるものについての講習制度を設ける等の対策を執った。さらに交通違反に就いて、交通反則通告制度が昭和43年に発足した機会に、かねてより研究し、検討していた行政処分についての点数制の制度の採用を決定し、この制度を実施するためには不離一体のものであるコンピューターを利用した運転者管理センターが設立されたのを機に、昭和44年10月1日からその制度を実施することにした。この点数制の制度の実施により、それまでの行政処分の大半を処理することが可能となり、また、行政処分の基となっている違反行為について定型的画一的に危険性を評価推認することができ、その結果、行政処分の公平性を確保することができるようになった。行政処分の事務の画期的な改革である。   行政処分は、行政庁の側から言えば、道路交通上の危険を排除し、また防止するためには、真に已むを得ぬ必要な措置であるが、処分を受ける側からは、場合によっては、生活の基盤を揺るがすことになり兼ねない極めて深刻な問題である。このようなことについては今後、さらに、厳しい検討を加えて行くことは極めて必要なことである。 第5 運転免許法の制定論   運転免許については、この稿で述べているように、制度についても、また免許事務の処理についても考えなければならない問題が少なくない。しかも免許人口が増加すればする程、問題が多くなるだけでなく、むづかしくなってくる。この点について、当時(道路交通法の制定前後)欧米先進国について、運転免許の制度について調べたが、何れの国においても、わが国が考えている程には問題意識がないことが明らかになった。道路交通の歴史、(古い時代から馬車が主要な交通機関であった)生活習慣、国民性等の相違かも知れない。 わが国の場合も、運転免許については、例えば昭和22年の道路交通取締法においては、法律の規定としては僅か一条のみで、その大部分は付属法令に委任している。その頃は都道府県の公安委員会においても、例えば警視庁の場合、交通技術関係事務を所掌する課の一つの分掌事務となっており、運転免許は交通警察の末端に位置付けられていた。ところが、昭和30年代に入ってから運転免許事務をめぐる事情は大きく変化しはじめたことは、上述の各所において述べた通りである。とくに、昭和33年の第二種免許の制度、昭和35年の道路交通法の運転免許に関する規定の整備、その後の法改正による制度の改正と充実によって、道路交通法の中に占める運転免許関係の規定は、複雑かつ多岐にわたるものになった。   すでに、道路交通法案の準備の過程においても、重要な意見として運転免許関係の事項については、道路交通法から切り離して、運転免許に関する単独法を作るべきであるということが述べられていた。そして、ある時点では、道路交通法の制定方針の中に述べられたこともあった。 運転免許の制度の将来を展望して、あらためて、運転免許に関する単独法の制定を考えて見る必要があるのではなかろうか。