第4章 自 動 車 −問 題 と 対 策−  昭和30年代という時期は、わが国の社会、経済等殆ど総ての分野において、終戦直後から続いてきた混沌とした状態を克服し、また、連合軍による軍事占領という大きな桎梏から脱却して、国家としての主体性を回復し、近代国家の諸条件を整えるための試行錯誤を繰り返しつつ次の時代へ進展するその過渡期であったと考えられる。ここで論じようとする自動車の生産、自動車の運送、自動車の整備、保安というような問題もまた、同様な条件の下で推移しているということができる。この章では、主として道路交通における自動車の運行ということをテーマとして問題と対策を述べることとしているが、それを述べる前に、昭和30年代における自動車の生産について、その概要を述べておく。 第1節 自動車の生産の概要 第1 占領下の生産   戦前、わが国の自動車産業は、少量ではあるが、海外に輸出するまでに成長していた。戦後は、他の製造事業に比べると、戦争による被害は少なかったが、それでもなおその稼働率は50%以下に低下し、また、占領政策によって自動車の生産について厳しい制限を受けたため、本格的な自動車の生産に至るまでには長い時間を要した。   終戦直後、占領軍総司令部(以下GHQという)は、自動車の生産を全面的に禁止するとともに、自動車工場を賠償施設として指定した。   自動車工業界は、一日も早い生産の再開をGHQに対して、要望していたが、「戦火による輸送難の緩和」という名目で、昭和21年初頭、年間の生産数量を限ってトラックのみの生産が許可された。次いで、昭和22年6月全メーカーの合計で年間300 台の小型乗用車(1,500CC以下)の生産が許可された。この許可に基づいて大手メーカーはそれぞれ独自の研究を行って、小型乗用車の試作を行い、それらを発表した。   その試作の繰り返しの成果は、将来の型式の乗用車生産の基礎となった。   昭和24年10月GHQは乗用車の総てについての生産制限を解除した。同年11月には販売統制も全面的に解除した。   それまでの間に、2輪、3輪、4輪の小型の自動車については、それぞれのメーカーがGHQと折衝して製造の許可を受け、又は制限が解除されて生産を進めており、占領期間中に極く一部ではあるが輸出し得るまでになった。   平和条約が発効した昭和27年までの自動車の生産の状況とその推移を示すと次の通りである。 │ │ 昭和22年│ 昭和24年│ 昭和27年│ │ 乗 用 車│ 110│ 1,070│ 4,837│ │ トラック│ 11,106│ 25,560│ 29,960│ │ バ  ス│ 104│ 2,070│ 4,169│ │ 四 輪計│ 11,320│ 28,700│ 38,966│ │ 三 輪 車│ 7,432│ 26,727│ 62,224│ │ 二 輪 車│ 2,010│ 9,189│ 79,245│ 第2 朝鮮動乱による特需   占領期間中は、占領政策によっていろいろな形の制約を受けていたが、その間に昭和25年に朝鮮動乱が起こったことにより、米軍の発注による膨大な特需が発生した。敗戦により疲弊し切っていた日本経済にとっては、まさに再起のための頓服薬のような効果があった。自動車産業にとってもトラックを中心にした自動車、エンジン等の特需があり、全産業の特需契約高の中でトラックは第1位を占めたほどであった。   この朝鮮動乱特需の刺激は、自動車のみならず、全産業の復活にはずみをつけ、占領下ではあったが、海外貿易のみちが開かれ国際経済への復帰が考えられるようになった。自動車についてはその上に、政府の積極的な保護育成を受け、逐次その製造基盤を固めていった。 第3 政府の保護育成政策 1 政府は自動車の国内生産を進展させるため、積極的な保護、助成の対策を実施した。自動車の製作技術力の向上のため、外国自動車メーカーとの技術提携を図り、国内メーカーの数社は英仏等のメーカーと技術提携をして、その製品を市場に提供した。この体験は昭和30年以後のわが国の小型自動車生産の上に大きな影響を与えた。 2 昭和30年5月通産省は、一般市民に馴染み易く、購入し易い乗用車を提供し、併せて国産乗用車の生産を促す目的で国民車育成要綱案を発表した。   これについては、自動車メーカーの間でも種々論議があり、国会でも関係者を招いて意見を聞くなどしたが、自動車業界としては、通産省の提示している条件の性能、型式、販売価格の国民車の生産については消極的であり、反対であった。しかし、この提案はその後における自動車の製造の上で軽自動車と大衆車の生産という考え方を呼び起こすことになり、また、国民の間に自動車利用の認識を高める上には効果があった。 3 政府は、国産乗用車の生産についてさらに積極的な対策を進めるため、主要自動車メーカーに「乗用車対策」についての諮問を行い、その答申に基づいて小型乗用車の保護育成対策を策定し、長期設備資金の融資等数項目にわたる助成措置を講じた。   国産車の生産の助成と、従来、使用の多くの部分を占めていた外国車を国産車に代替させるため、通産省は昭和27年5月「乗用車の国産車への代替及び増産による国産車充足の7ヶ年計画」を策定している。   昭和30年7月、政府は国産自動車の使用の申し合わせを行い、翌年4月、官公庁用外国車を国産車へ切り換えることを決定し、そのための自動車交換差金6,300万円を31年度予算に計上した。   次いで、昭和32年4月「国産車愛用方針」を閣議決定して国産車の普及を推進することにした。 4 政府の積極的な助長対策によって、わが国の自動車産業は急速に国産化を進展させ、メーカー独自の構想と研究による技術開発を行うほか、昭和28年以来、外国自動車メーカーと技術提携をしていたメーカーも30年代の後半には「すでに技術習得の段段は終わった」として技術提携の解消に踏み切り、昭和40年10月の完成乗用車貿易自由化を前にして技術提携をすべて打ち切った。かくてわが国の自動車の生産体制は名実ともに主体的なものになって来た。 第4 国内生産の伸長 1 乗用自動車   前述したように政府の国民車構想は発想に終わって実現を見るに至らなかったが、一般国民に“自動車が身近なものである”という感じを与えた効果はあった。引き続いて政府による乗用車に対する積極的な保護助成策と、これに応えたメーカー各社の努力により各種の自動車が市場に提供されるようになった。   360CCクラス、500CCクラスなどの軽乗用車や大衆車が生産され市場に提供された。昭和32年中頃から34年にかけてわが国の大手メーカーを代表する二つの会社がそれぞれ小型乗用車(1,500CC)を発表した。何れも将来にまでその名声をうたわれた小型自動車の双璧であり、両者の間で熾烈な販売競争が行われた。   しかし、その発売当時は未だオーナードライバーの数も少なく、その販売先は、主としてハイヤー、タクシー会社であり、専らタクシーに利用された。そのうちに官公庁、一般企業の自家用としての使用が増加し、さらにオーナードライバーの個人用の需要も漸増し、昭和33年末の乗用車登録台数に占める自家用車の比率は54.5%となり、ハイヤー、タクシー等の営業用の需要を上越すことになった。乗用自動車は自動車メーカーの飽くことのない製造努力と熾烈な販売の競争によって、年を逐って広く市民の間に普及していった。その製造も戦後の早い時期に始まり、かつ、その運送需要も圧倒的に多かった貨物自動車の数量が漸次減少し、昭和45年を最後に乗用車に追い越されることになった。   昭和40年代に入って、わが国の自動車総生産高はさらに伸長し、昭和42年には、西独を抜いてアメリカに次いで世界第二位になった。モータリゼーションはさらに進展した。 2 貨物自動車   ― 三輪貨物自動車の消長 ―   貨物自動車は占領期間中も比較的早く、その製造が認められたので生産の着手は早かったが、その中で目立ったのは三輪貨物自動車いわゆるオート三輪というものであった。オート三輪は戦前にも相当数生産されており、戦後も四輪車の場合と異なり比較的容易にその生産を再開することができた。併せて経済の好調により、中小企業の経営者からの需要が多く昭和35年には、戦前、戦後を通じて最高の27万8,000台を市場に供給した。しかし、その後は小型四輪及び軽四輪トラックにその地位を譲り、急速に減少していった。 3 二輪自動車   二輪自動車(オートバイ)は、昭和21年には、その製造が許可された。わが国の道路条件及び地形からオートバイは最も利用し易い交通機関であった。単なる乗用というよりも企業等の事業用に大きな需要もあった。   大手メーカーの責任者から自動二輪車の製作について、「戦前からオートバイを製作してきたが性能及び維持の上で、どうしてもイギリスのオートバイに及ばない。そこでいろいろ考えた末、昭和25年頃、単身イギリスに行き、かの地で徹底的に調べたところ問題はチェーンにあることが判った。そこで持てる限りのチェーンを身体に巻き付けるようにして日本に持ち帰り、徹底的に研究した。」という話を聞いた。オートバイがわが国の代表的な自動車となったその裏には大きな努力と苦労があったのである。昭和37年にはその輸出台数が20万台を越え、西ドイツを抜いて世界第1位の輸出国になった。 4 国の保護助成と企業の努力によって、自動車産業はわが国の代表的な産業になった。自動車産業の発展は、わが国のモータリゼーションの進展を促し、道路交通事情は急速に複雑になってきた。すでに述べてきたように、市民に馴染み易い自動車を提供するということで、乗用であれ貨物用であれ、車種としては軽自動車、小型自動車が各メーカーの熾烈な製造と販売の競争の下に市場に出回った。   昭和35年に内閣が決定した「国民所得倍増計画」の中の自動車普及率は2.9%であったが同計画が終わった時点で見ると普及率は17.3%に上がっていた。経済の急成長が道路における自動車交通の需要を大きくしたが、また同時に、自動車メーカーが各種各様の自動車を市場に供給したことによって需要が掘り起こされたともいえるようである。   昭和30年代は、急速に年を追って自動車の交通量が増加した。しかしその自動車交通を受容する道路の容量の増加、道路条件の改善整備は、必ずしも自動車の供給の増加とは相応じず、道路交通は甚だしい混乱を生ずることになり、交通事故等の災害を多発させることになった。  自動車の生産の進展状況を昭和31年と同39年の統計によって示すと下記のようになる。 │ 年 │ 昭和31年 │ 昭和39年 │ │ 乗 用 車 │  32,056│ 579,660│ │ トラック │ 72,958 │ 1,109,142│ │ バ ス │ 6,052│ 13,673│ │ 四 輪 計 │ 111,066│ 1,702,475│ │ 三 輪 車 │ 105,409│ 80,048│ │ 二 輪 車 │ 332,760│ 2,110,335│ 注(1) 乗用自動車の生産は、31年から39年の間  に約18倍になっている。その間における乗  用自動車の登録台数は31年、15万7,800台、 39年は132万台で、約8倍である。 注(2) トラック及び二輪車の製造のこの8年間  の増加は極めて多いが、一方、三輪車(貨  物)は激減している。三輪車の最大の生産  は昭和35年の27万8,000台である。 第2節 自動車運送について の問題と対策  第1 昭和20年代の自動車行政   昭和22年4月、内務省と運輸省に二分されていた自動車に関する行政の中、内務省の所管となっていた運転免許等の取締関係を除く自動車輸送に関する事項、自動車の検査整備等整備事業に関する事項、登録に関する事項、ならびに小運搬等軽車両に関する運送行政に関する事項等がすべて運輸省に移管された。そして昭和23年1月1日それらの行政権限の規定を含む道路運送法が施行された。同日、道路交通取締法が同じく施行された。   占領下の混沌とした国内事情の中で“突然に”多岐にわたる行政事務の移管を受けた運輸省としては、一時的ではあっても、当時はかなりの負担であったと考えられる。しかも当時の自動車運送にかかる客観的な諸情勢は甚だ複雑困難なものが多かった。   戦災復興、経済再建等の事業の進展により、人員貨物の移動が頻繁になり、貨物については従来主として鉄道輸送に依存していたものが、次第に自動車による輸送に転移し、また人員については自動車の利便性が認識されるにしたがってバス及びハイヤー、タクシーの利用者が増加してきた。貨物及び人員の輸送の増加に伴って、輸送を事業とする運送企業が直面する諸問題が行政の上で重要な課題となった。何れの事業も、戦時下は厳しい統制の下にあり、大幅な企業の統合が行われ、その事業経営も統制組合を中心にして行われていた。ところが終戦によりGHQの指示もあり、統制組合的なものはすべて解散され、事業経営はすべて民主的な競争原理の下で自主的に行われることになった。このような背景の下に、道路運送法が制定された。   この法の下で、運送事業の営業免許、貨物自動車及びバスの運送についての路線免許等について、それぞれの業界内で競争が激化し、その結果業者間の紛争等が繰り返され、ある時期までは、主管省である運輸省はその調整が自動車行政の大きな分野を占めざるを得ないという状態であった。   内務省より移管し、運輸省の所掌となった自動車の検査、登録等の業務については、自動車の量が増加するに伴って事務量が増加してきたのみならず、検査業務、整備事業等については技術的にもその能力を向上させ、車両保安の全きを期することが強く求められるようになった。そこで、車両保安に関する事項を主な内容とする道路運送車両法を昭和26年6月に制定し、運送事業の監理を主とする道路運送法と別建ての法体系とした。   昭和20年代の自動車に関する行政は、自動車の運送事業の秩序作りのための多くの試行錯誤を重ねながらその基盤を作り上げることであった。 第2 昭和30年代の自動車運送の問  題のあらまし   経済の高度成長を背景として自動車の輸送がめざましい発展をつづけ、従来、鉄道に主として依存していた人員、貨物の輸送が年を追う毎に自動車運送に転移され、30年代末期には貨物輸送量をトンシェアで見れば83.5%、トンキロシェアでは26%を占めるようになった。鉄道から自動車への転移は、貨物の移動の頻繁化に対応するものであるが、何よりも、戸口から戸口へ迅速に運搬され、貨物の移動の利便性と機動性が当時の要請に見事に適応したことによるといえよう。   人員の輸送は、鉄道、軌道、バス等の大量輸送機関に依存することが多かった。その中でも都市と郊外を結ぶ鉄道軌道、都市内の軌条電車、東京大阪等における地下鉄が利便性の高い大衆の大量輸送機関であった。これらの輸送を補完するものとして、バスによる人員輸送が増加し、バス網が漸次発展して行った。戦前から戦後のある時期までは特別な乗物であったハイヤー、タクシーが、その利便性と機動性により大衆に利用されるようになり、急速に発展していった。このように人員貨物の輸送が大きく自動車運送に移行するに伴って、企業の経営に伴う行政上の問題が表面化し、また道路交通の上での問題が生起するようになった。   以下、それらの問題について項を改めて、バス、ハイヤー、タクシーに係る旅客自動車運送事業及び貨物運送事業等について述べることにする。 第3 旅客用乗用車(バス及びハイ  ヤー、タクシー)の問題 1 戦前も、大衆の大量輸送機関としてバスは重要な任務を果たしていた。そのバス事業の主流は当時の鉄道省の省営バス、東京、大阪、名古屋等の都市の市営バスであり、それを補完する形で民間の鉄道、軌道の会社の経営するバス等があった。   昭和30年代に入ると経済の活発化に伴って、人員の輸送需要が増加し、これに対応して車両の性能の向上、車体の大型化が行われた。さらに事業者は事業拡大を図って新規の路線の開拓を図り、そのための路線免許の申請が急速に増加した。30年代におけるバス事業の問題の中心は路線免許に係るものが最も大きいものであった。 2 戦前に引き続いて、バス事業の有力者は国鉄であり、その国鉄はさらに事業の拡大を図り、幹線輸送への進出、都市内への乗り入れ等、積極的な経営範囲の拡大を進めたため、各地の民営企業との間でしばしば摩擦を生じることになった。このことについて運輸省は昭和35年5月自動車審議会が答申した「自動車行政の在り方」の具体化として同年10 月改めて国鉄バスのあり方について方針を明らかにして事態の収拾に努めた。   次は、新しく誕生した市が、市営バスの免許を申請し、この申請の優先処理をめぐって既存の民営バス事業者との関係が厳しくなり、これの処理もまた重要な課題となった。   さらに、バスの路線問題は公営対民営という競争とともに、民営バス事業者の相互間で競争が生じ、相争う事態が続発した。運輸省はこれらに対して業界自体による自主的調整を期待し、その解決のための指導及び調整を行った。   バス事業については、20年代から引き続いてその発展過程の中で問題は多かったが、市民大衆の足としての利便性は次第に鉄道の補完的なものから基幹輸送の分野へ進展し、地域的にとどまらず広域化及び長距離化を目指すまでになった。道路整備、とりわけ高速道路の開通により、さらに長距離化が進展することになった。   しかし、40年代を終わり、50年代に入ってくると、地下鉄の進展とオーナードライバーの急激な増加などにより、次第にその力を低下させていくことになった。 3 昭和30年代におけるハイヤー、タクシー問題は、急激に増加した需要に対して供給がそれに応じ切れないところから起こっている。昭和28年末、東京都内のハイヤー、タクシー事業者は289社、保有台数は約1万台であった。事業規模は、都内の四大会社といわれるものを除いては、小企業経営の範ちゅうに入るものであった。   昭和30年に入ると、タクシーに対する需要は急速に多くなり、需要と供給のアンバランスが表面化してきた。それに伴って、増車の問題、運賃の問題等で事業者間の意見の対立もあり、業界組織の組成の上での対立を生じ、本来、業界として対処すべき問題に行政上の関与を余儀されるようなことも起こってきた。また、このアンバランスの結果、所謂神風タクシー問題として社会的批判を受けるようなことが表面化し、タクシー事業の経営の根幹にふれる改革を迫られることになった。また、営業用車の間隙をついて、自家用のもぐり(いわゆる白タクといわれるもの)の営業があらわれ、しかもその数量を増加するようになり、業界から取締りについて強い要請があった。   供給量を増加するため、増車の措置をとったが、その都度新規の営業免許について既存業者からの反対があり、新規免許の事業者を制限するとともに一企業に対する保有車両数も厳しく制限した。そのような中で、レンタカーと個人タクシーが出現することになった。   レンタカーの制度は、現在では安定し、確立しているが、昭和30年頃はドライブクラブという会員制の組織で運営されていた。その当時、全国で283業者、約1,500両の自動車があり、本来はドライブを楽しむ者に対するクラブ組織の“貸自動車”であった。自動車のナンバープレートが自家用でもなく、営業用でもない黒地に白地という特異なもので、利用者には甚だ好まれなかった。事故が頻発し、またタクシー類似行為をするものが増加したので、運輸省では昭和32年8月、道路運送法の改正により、これに対する規制を強化するととともに、賃貸形態の適正化、利用の健全化等を図って、従来のドライブクラブとは大幅に異なる取り扱い方針を定めた。その結果、モータリゼーションの波にのって “面目を一新した”レンタカーシステムができ上がり、利用者も増加した。   個人タクシーの営業免許は、昭和30年代の自動車行政の画期的な措置であると思う。個人タクシーの営業免許が論議されるようなったのは、既存タクシー事業のあり方に対する社会的批判の高まりが大きな理由である。供給不足のため、サービスの低下、乗車拒否、無謀運転等が起こり、これに対する対策として個人タクシー問題が表面化したのである。既存業者は当然のことながら個人タクシーについては批判的又は反対であった。運輸省は社会的な世論、タクシー事業の現状等を検討し、昭和34年8月、個人タクシーの営業免許を認める方針を明らかにし、次いで具体的な規制内容を定めて173名の“すべての規制条件を充たした優良運転者”に対し免許を与えた。個人タクシーは利用者の間では極めて好評であった。 第4 貨物輸送の問題  1 貨物の輸送需要の増大に伴って、トラックによる輸送は、鉄道輸送の補完的な地位から脱して、基幹輸送として独自の分野を確立した。しかし、輸送需要が増大することによって幾多の問題に対処する必要が生じてきた。それらの中、自家用トラックの問題、貨物運送の発展による輸送形態の質的変化に係ること、輸送事業の経営の近代化に係ること等について述べることにする。 2 自家用トラックの問題   ーもぐり営業ー   昭和20年代の末期頃から、営業用トラックの他に自家用トラックの増加が目立ってきた。自動車統計年報によると昭和28年のトラックの数量は、普通車及び小型車を合わせて、営業用7万6,145台に対し、自家用44万9,000台となっており、その輸送量は、営業用13億2,000万トンに対し、自家用36億4,000万トンになっている。自動車の量も輸送量も圧倒的に自家用が多い。   昭和30年代に入って、貨物輸送需要はさらに増加し、自家用トラックの輸送はこれに並行して増加している。因みに戦前と戦後との指数的比較で見ると、昭和11年の輸送量の営業用対自家用の比率は76%対24%で圧倒的に営業用が多かったが、昭和34年では自家用車が増加し、37%対63%と比率が逆転している。   自家用トラックの数の増加とともに自家用車による営業類似行為が目立つようになってきた。道路運送法では、他人の需要に応じて有償で自動車を使用して貨物を運送することは許可の対象となっており、そのような行為を許可なくして行うことは営業類似行為として禁止されている。ところが現実には、そのような“もぐりの営業類似行為”が横行し、行政上も重大な問題であるし、事業経営者からも厳しい対策の要望があった。運輸省では一方において警察側の協力を得て取締りを行うとともに、昭和35年8月道路運送法の一部改正を以って、「輸送の安全確保のために運行管理者制度を整備するとともに道路運送に関する秩序を維持するための自家用自動車の使用の適正化を図ること」として法律上の措置を強化した。即ち自家用自動車の使用の健全化についての指導を行うため、自家用自動車の使用者の事業場に対して立ち入り検査ができること、また、営業類似行為に係る自動車の使用停止処分の実効を確保するための措置などが定められた。   貨物運送事業者の業界でも行政当局と協力しつつ、昭和33年9月から翌年3月にかけて「運輸秩序の確立、経営の合理化、運賃競争の停止」などを目標とした全国運動を展開し、実質的にはもぐり営業のトラックに対する対策を推進した。東京、兵庫の都県では運輸及び警察当局との協力の下でパトロールカーを出して街頭検問などを行った。   “もぐり営業”のトラックの取締りはむずかしい。昭和30年代は減少することはなかった。 3 貨物輸送の質的変化 ―自動車の大型化と運送の長距離化―   貨物輸送が限られた地域輸送の間は、トラックは、1トンから3トン又は4トン程度で足りていたが、輸送需要が増加し、また、輸送範囲が拡大し、長距離化してくると、輸送効率を高めるために大型化することになる。5トンを超えて7トンから8トン、10トンという大型車が生産され使用されるようになった。さらにディーゼル化の傾向も一段と強められた。しかし大型化が進展するにしたがって、道路容量とのアンバランスが出、また都心部における渋滞、事故の原因となり、30年代後半頃から大型トラックに対する交通規制問題が起こってきた。   大型化と共に質的に変化の甚だしいのは輸送の長距離化であり、営業上の問題としては路線トラックの免許の問題である。すでに述べているように、貨物輸送についてはこれを営業として行う場合は免許が必要であり、さらに路線トラックについては路線の免許が必要である。   貨物輸送の需要の増加は当然に輸送の長距離化を呼ぶことになり、路線トラックの免許キロを見ると、昭和40年末で24億4,000qとなっており、30年の1.6倍に達している。また、運行系統においては、33年頃から200q以上の運行系統が激増しはじめ、36年には801系統、40年には約1,400系統になっている。   このような長距離化に伴う長距離路線の申請とそれに対する免許は貨物自動車業界の極めて厳しい競争の対象となり、行政上も看過できない重要問題となった。一例を挙げてその厳しさを明らかにしておこう。昭和32年初頭の頃、東海道路線に対して相次いで路線の申請が行われ、33年末までには30社を越す申請が提出された。   これらの申請については、法の規定により公聴会の開催が必要である。ところが当時、東海道路線は貨物輸送のゴールデンロードと俗称される程貨物の輸送需要の多いところであり、既に免許を得ている業者は東海道直通(東京⇔大阪)東京・名古屋間、名古屋・京阪神間という形でそれぞれ9社、17社、43社に上っていた。そこに30数社の申請が行われたので、既存業者の権利擁護と申請者の要望の間で熾烈な競争が行われることになった。   昭和34年初頭に開催された運輸審議会の公聴会は、反対公述人と賛成公述人の間で激論が戦わされ、容易に結論に至らず、運輸大臣の強い要請により漸く同年11月に至って結論を出すことになった。申請者10数社が免許された。   路線問題は、その当時この例に見るように、業界内において深刻な問題になり、行政当局である運輸省もその対応に苦労することが多かった。しかしこのような問題は、長い間の鉄道輸送から離れて、道路を利用する自動車輸送に転移したことから生じているのであり、本質的には貨物の需給と流通ということの根本にさかのぼって考えねばならぬことである。   長距離輸送が頻繁になり、また、自動車が大型化すれば通行する道路の容量との関係が出てくるし、路線系統が増加すれば過当競争になり、その結果が社会的な問題にもなった運転者の過労運転、超過積載等を引き起こすことになる。昭和30年代後半は、貨物自動車の運送については最も深刻な問題が相次いで生起した時期である。 4 輸送事業の経営の近代化   トラック輸送が量的にも、また地域的にも拡大発展するに伴って、必然的に経営の近代化を図ることが強く要請されるようになった。経済の伸張発展により、産業界がその生産部門の合理化、生産性の向上を推進すればする程、流通部門に対する合理化の要請が強くなってきたからである。他方、運送企業自体としても、とくに、長距離運送の路線事業にあっては、車両の大型化、トラックターミナルの建設、荷役作業の機械化を実現するためには巨額の設備投資を必要とすることになり、従来の労働集約産業という形態から多分に設備産業的なものへの転換を迫られていた。もう一つ道路交通事情と賃金問題を要因とする経営の合理化の必要が起こってきたことである。昭和30年代後半になると、とくに大都市の都心の交通事情は極めて悪く大型トラック等の通行による渋滞が甚だしくなり、そのための交通規制が厳しくなってきた。昭和38年に実施された東京都内への大型車の流入制限の規制は、トラック業界に大きなショックを与えることになったが、同時に、根本対策を考える必要を痛感させた。   運輸事業者については、事業拡大とともに、運転者の確保が問題になり、また、当時は一般的に労働条件の改善が問題となり、賃金体系の見直しが行われ、人件費が高騰した。このように運輸事業者の経営に対する負の条件の加速により業界全体として企業経営の合理化を図って企業体質を強化することが求められた。   運輸省は、このような情勢の下においては、従来の道路運送法の運用による経営規模の引き上げだけではその効果に限界があるところから、中小企業近代化促進法(昭和38年4月施行)の適用により、近代化の推進を図ることにし、積極的に業界の指導に当たった。このような指導とともに、業界自体も企業体質の強化を考え、企業の合併、私鉄、大規模運送会社等の資本出資による系列化等を推進した。また、区域を対象とする小規模企業は、事業の協同化を進め、それによる経営の近代化を図った。 第3節 自動車の道路交通対策  主として交通事故防止の観点から   道路における自動車の交通が頻繁になるにしたがって、自動車について道路交通の観点から考慮し、かつ、対策を樹てる必要のある問題が多数提起されるようになった。以下、視点を主として交通事故対策に据えて昭和30年代の状況を述べる。 第1 交通事故防止対策要綱   (自動車関係部分の決定内容)   昭和30年6月、交通事故防止対策本部により決定された交通事故防止対策要綱の中で、自動車交通に係わる部分は下記の通りである。 1 対策要綱の方針の中で「交通機関の安全を維持するため、必要な諸施設の改善、交通従業員の労務管理の適正化及び事業経営の健全化等により間接的要因をも排除するよう努める」と述べている。 2 取るべき措置について次のような事項を挙げている。 (1) 自動車事業監督の強化として、道路交通関係法令の違反者についての行政処分等の措置、労働条件に違反するものについての措置、路線を定める運送事業の免許許可及び認可の場合に摂るべき措置等のほか、車両の整備についての業者の指導及び乗車定員、最大積載量を厳守させること。 (2) 自動車事業の労務管理の合理化について、労働時間の特例の撤廃、賃金制度の確立、仮眠設備等厚生条件の整備等について措置すること。 (3) 道路構造と通行車両の合理的調整を行うこと。 (4) 車両保安の向上のための具体的な対策の提示。 第2 自動車運送事業の経営改善対策 1 政府の交通事故防止対策要綱は、交通事故の間接要因として運送事業者の事業経営の非近代性を指摘して、運行管理、労務管理等の健全化適正化を図ることを提示している。交通事故防止対策本部がこのような決定を行った背景には、昭和30年頃のタクシー暴走による交通事故が多く発生し、その原因を解明した結果、タクシー事業の経営に多くの問題のあることが明らかになったという事情がある。   交通事故防止対策本部は、さらに昭和33年4月「タクシー事故防止対策要綱」を決定した。 2 交通事故防止対策本部の決定を受けて、昭和31年7月道路運送法の一部改正が行われ、運輸省では主としてタクシー事業者の行うべき施策について自動車運送事業等運輸規則の一部改正を行って、乗務員の休養施設の整備、運転者の常務距離の最高限度の設定、ノルマの強制禁止、運行管理者の専任業務等の規定を設けた。   労務管理については、主要都市におけるハイヤー、タクシー業者の状況を監査した。東京都においては、約8ヶ月にわたり全事業者について特別監査を実施したが、労務管理の不良な事業者に対して改善命令、改善勧告、自動車の使用停止処分等の措置を行った。   給与体系については、前近代的な歩合給中心の制度を合理化するため、刺戟的な歩合給の排除、固定給の増額、最低保証給の制度の採用等の実施の指導を行った。 3 ハイヤー、タクシーに限らず、トラック輸送についても連続した長距離運転等による過労のため事故を起こすことが多く、労務管理、運行管理について上述の運輸規則で事業者の順守すべき事項を定めた。    昭和35年6月に道路交通法が制定され、その中に新しく雇用者の義務の規定が設けられ、自動車等の運転者を雇用するものの義務、自動車等の運行を管理する者の義務などが規定された。これに対応して、道路運送法も改正され、運行管理者の要件、選任範囲の拡大等が定められ、省令によって運行管理者の順守すべき事項を詳細に定めた。 4 昭和32年頃から、神風タクシーとか、暴走トラックといわれ、交通戦争というような刺戟的な表現で交通事故の多発がマスコミの上で大きく論ぜられるようになり、社会問題として国民の関心をひくようになった。このような事態に対し、前述したような事業経営の根本に及んで合理化、近代化を進めた結果、その成果は徐々にではあるが、昭和30年代後半に至ってたしかにあらわれはじめた。 第3 自動車損害賠償補障法の制定 1 欧米では一般的に保険制度が一般市民の中に普及しており、その制度の内容も多岐にわたって充実したものになっている。自動車に関する保険制度も同様であり、欧米の各国を自動車旅行をした場合は、パスポートや運転免許証と同様に、場合によってはそれ以上に自動車保険に加入している証明書類の携帯が必要であるといわれている。その点わが国の場合、一般的に保険制度の普及は立ち遅れており、自動車に係る保険加入者は少なかった。   自動車の交通事故が増え、死亡、傷害という被害が生じても、民事賠償ということになると、立証が容易でなかったり、たとえ立証し得ても加害者が賠償能力に乏しいというようなことで、重大な被害の発生にかかわらず、被害者は泣き寝入りとなるような事例が少なくなかった。   このような事情の下で、政府は昭和25年頃から欧米諸国の立法例及び賠償の実情などを調査し検討し、昭和30年7月漸く自動車事故による被害者救済のための自動車損害賠償補障法が制定され、同年8月から31年2月にかけて段階的に実施された。この法律の制定は、自動車事故の被害者救済ということを考えると、画期的な立法であり、制度の設定であるといえよう。 2 この自動車損害賠償保障法は「自動車の運行によって人の生命又は身体が害された場合における損害賠償を補償する制度を確立することにより、被害者の保護を図りあわせて自動車運送の健全な発達に資することを目的とする」と立法の趣旨を定めている。   この法律による自動車損害賠償保障制度は、次のような3つの大きな特色を有しており、制度の根幹をなしている。  @ 運行供用者の責任    ―無過失責任―   自動車事故によって生じた人身事故の賠償責任について、加害者の故意過失が立証されたときに限りその賠償責任を認めるという民法の過失責任原則を修正して、自動車の保有者等運行供用者の責任を加重し、実質的には無過失責任に近い責任を課すことにしている。            A 自動車損害賠償責任保険の締 結の義務   賠償能力が十分であると認められる多量の自動車を所有する者で自家保障が認められている例外を除いて、すべての自動車について損害保険会社との間で責任保険を結ぶことを義務づけるとともに、政府が100分の60を再保険することにより、政府自身が事業運営に介入することにした。  B 政府の保障事業    ―政府の再保険―   ひき逃げ事故や責任保険未加入車両の事故の場合のように、責任保険によって救済されない被害者について、政府が責任保険に準じて損害をてん補することにした。 自動車損害賠償保障法による保険制度の骨格となるものは以上の3点であるが、この法律は制度の適正な運営を図るため、大蔵省に自動車損害賠償責任再保険審査会の設置を定めている。この審査会は関係行政機関の職員、学識経験者、自動車運送事業関係者等13人の委員で構成され、大蔵大臣の諮問に応じて責任保険に関する重要事項を調査審議し、また、これらに関し必要と認める事項を関係大臣に建議することが任務である。この審議会は、発足早々より各委員の間で極めて活発な議論が行われた。責任保険の保険金の限度額について「死亡」30万円「傷害」3万円または10万円が当初案として答申されたが、死亡30万円について「人の生命は30万円か」というような論議もあった。もとよりこれは保険金の限度額であって、人の生命の「金額」表示をいうものでないことは当然のことであるが、当時、交通事故による死亡について加害者が支払っていた賠償金は、30万円から100万円程度が上限であった。その後、数年の間にある有名人の交通事故死の賠償金の裁定が600万円という例が出た。 年々限度額は改定されているが、その額をどのように評価するかということは「人の貴重な生命」に係ることだけにむずかしいことである。因みに、その後賠償金の額は死亡については昭和48年に1,000万円になり、同53年には2,000万、そして平成13年現在では平成4年に定められた3,000万円でありまた、後遺障害がある第一級(両眼失明等)の場合は3,000万円の損害賠償金である。   3 この制度の創設が交通事故対策の上で果たしている意義は極めて大きい。   この制度の創設を機として、任意の保険の加入が増加し、交通事故は不幸なことではあるが、被害者も加害者も損害賠償について比較的早急に対処することができるようになった。ある意味での波及効果というべきか。 第4 道路条件による自動車の通行 制限 1 昭和30年代後半になると、わが国の道路交通事情は、その10年前に比較すると相貌を一変したと見えるほどに大きな変化を遂げている。道路交通の主体は完全に自動車になり、その自動車も用途によって大型化し、大型バスや大型貨物自動車が多数運行するようになった。このような大型自動車が、構造規格の劣る市町村道を通行して道路を損壊させ、また、都心に集中して流入し都心地域の交通渋滞の原因となり、さらに交通事故を多発させるようになってきた。何らかの方法で、道路の構造の保全、交通事故の防止、交通の安全と円滑を図る措置、対策を講ずる必要が強く求められるようになった。   交通事故防止対策要綱はその決定事項の中で「道路構造と通行車両の合理的調整を行うこと」と述べ、道路交通の規制の改善を促している。この決定に対応して政府は、昭和36年7月「道路構造を保全し、又は交通の危険を防止するため、道路との関係において必要とされる車両についての制限に関する基準を定める」ことを趣旨とする車両制限令を制定施行した。また、都道府県公安委員会(警察)は、道路交通法(昭和35年末までは道路交通取締法)の規定に基づいて自動車の交通規制を実施することにした。   東京都及び大阪府において、都心部の交通規制を行い、大型トラック等の大型自動車を特定した規制を行ったところ、貨物運送事業界から業界の浮沈に係わる不当な規制であるという厳しい反対運動が起こった。とくに、東京都の車種別交通規制は、国会でも論議される政治問題にもなった。 2 車両制限令と同令に基づく措置   車両制限令による制限の基準は、一般的制限基準と個別的制限基準に分かれている。   一般的制限基準はいかなる道路に対しても適用されるもので、通行する車両は幅2.5m、長さ12m、高さ3.5m、総重量20トン、軸重10トン、輪荷重5トン、最小回転半径12mをそれぞれ超えてはならないとしている。この数値は道路運送車両の保安基準と一致したものである。これに対して、個別的制限基準は、個々の道路との相関関係で必要とされる車両の幅、重量等に関する制限の基準である。   車両制限令の施行に伴って、その実効を確保するために、種々の措置をとる必要があるが、当面、問題となったのは乗合バスの運行である。バスの型式と道路の幅員の関係で、制限令に触れる場合があるからである。   乗合バスは路線を定めて運行しており、もし、直ちにその制限の基準が適用されることになると、路線の変更又は休廃止をせざるを得なくなり、市民生活に大きな影響を及ぼすおそれがある。そこで、その適用については当分の間これを猶予することにし、できるだけ早く所要の対策を講じることにした。運輸、建設、警察の三省庁の間で協議し、都道府県毎に「車両制限令連絡協議会」を設けて、共同調査を行うとともに、所要の対策の検討を行った。その結果、自動車運送事業の変更、廃止、使用自動車の小型化、一方通行等の交通規制、待避所の設置等の措置を講ずることにした。これらの措置が終了して、制限令が完全に実施されるようになったのは昭和41年8月である。   車両制限令は、道路交通の現情の下では、必要の度合の高いものであるが、市民生活の現実を考えると、旅客のための大量輸送機関の必要性は将来ますます大きくなることが予想され、大量輸送ということについて根本的な方策を検討することが必要である。 3 警察による車種別交通規制   警察による交通規制については別の章で詳細に述べるので、この項では昭和35年頃から検討され、実施された大型自動車等に対する交通規制と、これに対する貨物自動車運送事業の業界の反応等について記述する。   道路交通が頻繁になり交通量が増加すると、大都市及びその周辺では交通渋滞を生ずるようになり、その渋滞の度合いは特定の道路、地域、特定の時間帯においてとくに大きくなった。   このような状態に対し、大都市の存する都道府県公安委員会では、道路交通の状況に対応して真にやむを得ざる措置として、通行の禁止制限の措置をとってきた。しかし、自動車の大型化が進むにしたがって、道路及び地域の状態によっては大型自動車の通行を原因とする交通の円滑化の阻害が甚だしくなってきたため、大型自動車を特定した規制もまたやむを得ぬことになった。昭和35年から36年にかけて、大阪府公安委員会は、大阪市の都心部について大型トラックの通行制限を実施し、また京都府公安委員会は観光客の集中する特定地域の大型バスの乗り入れ規制を実施した。   東京都公安委員会においては、昭和36年から同37年にかけて、“都内全域にわたる総合交通規制計画”を樹立し、主として都内中心部を対象にして広汎な交通規制を実施してきた。   昭和39年に開催される東京オリンピック大会を控えて、道路工事や都市構造の改善等のための工事のため、道路交通の実情は最悪の状態になってきた。昭和37年初頭、警視庁は現状を打開するためには今までの総合規制のほかに、大型自動車を対象として、道路を指定し、時間を限定して、その通行を禁止又は制限せざるを得ないという判断に達した。もし、この厳しい措置を執らないままにしておくと、東京都の都心部の交通は極度な停滞状態に陥ることが予想された。   警視庁では、繰り返して行った調査結果に基づいて、大型自動車の通行制限を行うことを決意し、昭和37年初頭、次のような規制を内容とする規制要綱案を発表した。@規制の対象道路は、第1京浜国道ほか主要幹線道路38路線とする。A規制時間は、午前8時から午後8時までの時間帯とする。B規制の対象自動車は、路線トラック、長物運搬の自動車、長大けん引自動車、観光バスとする。   この要綱案が発表されると、業界は直ちに厳しい反応を示した。このような規制措置は、トラック事業に与える影響はあまりにも大きく、一般市民の生活と産業活動に密着しているトラック輸送の使命を無視する暴挙であるという見解を表明し、公然とした反対運動を展開することになった。   国会では、参議院運輸委員会が、都市交通の緩和対策について意見を聞くということで、運輸関係者4名を招いてその意見を聴取したが、4氏とも大型トラックを対象とする規制案の不当性を強調した。   トラック業界、とくに路線トラック業界は、このような規制は、運送事業の浮沈にかかわる大問題であるとして、東京都だけでなく全国の同業者に働きかけて、全国的な規模で反対運動を展開することにし、トラック事業者の全国大会を開いて反対の決議を行い、その決議文を携えて衆参両院、関係官庁、政党など多方面にわたって陳情を行った。   この問題は、国会に取り上げられて論議され、また、内閣法制局でも法律問題として検討された。このような経過の中で運輸省東京陸運局は、警視庁案に対する対案を提示した。これを機に陸運局と警視庁の間で両案を中心に検討するとともに都市内の規制について協議した。東京都公安委員会としては最終案を決定し、37年4月臨時交通関係閣僚懇談会の了解も得て実施することになった。決定されたものは警視庁案を大幅に修正し、@規制対象の自動車は、7.5トン以上の大型トラック、長大物運搬自動車、長大けん引車、A規制道路は、主要幹線道路26路線、B規制時間帯は、原則的には午前8時から午後7時まで、というものであった。   トラック業界はこの規制について、前述のような激しい反対運動を行ったものの、その一方で、厳しい道路交通の現状に対しては何らかの対策が執られることはやむを得ぬとの認識を深め、業界自体による自主的規制も行うことにした。   今回の規制を契機として、官と民の意志の疎通を図って、円滑な規制を行うため、関係行政機関及び業界の諸団体も参加する臨時交通調整協議会を設けることにした。   この規制について業界の重鎮の漏らした所見を紹介しておこう。  「それにしても、各種の交通規制がトラック業界に払わせた犠牲は大きかった。とくに大都市内での運行効率の低下は甚だしく、コストアップの主要な原因となり、トラック運賃の改訂を望む声に拍車をかけることになった。思うに、今回の車種別規制の内容は、自動車の大きさにこだわり過ぎ、市民生活と産業活動に強く結びついている物資輸送の意義が稍軽視されているようだ。都心内の自家用車の使用についても、時間別、道路別の規制を併せて考えてよいのではないか。犠牲は公平でありたい。」 第5 自動車等車両の整備保安 1 はじめに   終戦直後、道路交通の安全ということで大きな問題となったものの一つに、故障自動車の頻発ということが挙げられる。走行の途中エンジンが故障した、ブレーキが利かなくなった、灯火装置がこわれた、こういう類の故障が相次いだ。戦時中の自動車の酷使、戦災による整備施設の損壊、整備体制が不十分であったことなどを原因として、整備不良の自動車が多数にのぼっていた。それらの自動車が終戦直後の道路に一斉にかり出されて動きはじめ、至るところで故障を起こすことになったのである。各地区の占領軍の当局者から警察に対し、厳しい取締りの指示があり、早急に整備体制を整えるよう強い要請もあった。   行政機構の改革により、それまで内務省の所管行政であった自動車等車両(以下単に自動車という)に係る行政の中、自動車の整備保安に関する事項が大幅に運輸省に移管され、昭和22年12月に道路運送法が制定された。昭和22年12月内務省が解体され、自動車の整備保安を含む道路運送に係る行政の中央行政庁は運輸省になった。   自動車交通の発展に伴って、自動車の構造装置、性能が進歩向上し、整備、検査等の業務に高度な知識と技術が要求せられるようになり、それらに関する事項を一括して、道路運送法から分離して昭和26年6月、新たに道路運送車両法(以下車両法という)が制定された。この法律の制定を機として、自動車の整備保安の業務は次第に充実し、かつ、発展した。 2 道路運送車両の保安基準の制定   道路運送車両法の制定に次いで、昭和26年7月運輸省令を以って道路運送車両の保安基準(以下保安基準という)が定められた。   この保安基準には、自動車について、保安上必要とされる最低限度の構造、装置及び性能についての基準が定められているが、この基準に合致しない自動車は道路上において運行の用に供することはできないこととされた。   車両法は、自動車を使用するもの等について常に自動車の整備につとめる義務を課し、その整備の基準は保安基準の定めるところによることになった。   次に車両法は、自動車が検査を受け、検査証の交付を受けなければ運行の用に供してはならないと定め、その検査の基準は保安基準の定めるところによることになった。車両法は自動車の分解整備作業についても定めているが、その分解整備完了のときに行う検査については保安基準が指標となった。このように、保安基準は、自動車の構造装置性能等についてその安全を維持するに必要な基準を定めており、整備や検査という自動車の保安上最も重要な措置の指標となるものである。そしてそれは、自動車の使用等に限らず、自動車を製造する上にも基準となり、指標となった。   道路交通が複雑になってくると、自動車そのものを原因とする交通事故が起こり、また公害を生ずるようになり、その未然防止を図るためには、構造装置について、さらに条件を重くする必要が多くなってきた。   昭和41年8月愛知県猿投町で発生した重大なダンプカーの事故を契機として42年保安基準を改正して、運行記録計及び速度表示装置を義務づけ、また42年には自動車の運転の安全のため二重安全ブレーキ、巻込防止装置等の装着義務を定めた。   このように、道路交通の実態に対応して、自動車の保安を常に安全適正に保つため、保安基準は道路交通の実情に適時適切に対応するように屡次の改正が行われた。 3 整備及び点検ならびに検査 (1) 自動車の整備   自動車の交通量が増加し、また自動車の性能が向上するに伴って、整備の不良のため交通事故を起こす事例が年々増加している。昭和33年を例にとって見ると、「車両の状態に基づく事故は、5,400件であるが、その中で自動車の構造装置の欠陥と認められるものが2,600件あり、また、保安基準を超えた積載及び積載不備と認められるものが750件、ならびに運転中滑走したもの1,250件」と報告されている。   自動車の整備については車両法は、仕業点検、定期点検整備等の規定を設けているが、整備不良に起因する自動車事故が増加し、また道路上で故障して停車し、そのことのため他の自動車の通行に著しい迷惑をかけるような事例が多くなった。このような整備不良車の増加にさらに厳しく対処するため、昭和38年7月車両法の一部改正と関係省令の一部改正を行って、すべての自動車の使用者に対して定期点検整備の実施を義務づけるとともに、定期点検整備記録簿を作成することを定めた。その実施の励行を確保するため、検査の際にその記録の呈示を求めることにし、整備と検査の両面から規制を強くして、自動車の保安の確保を図った。   このように、自動車の整備については厳しい対策は樹てられたが、現実にはなお整備不良に基因する交通事故や故障事案が多発した。昭和38年から逐次高速自動車道が供用開始されるようになったが、高速交通に不慣れなこともあり、事前の整備点検を怠って、整備不良のまま走行し、故障を起こして高速道路上に停車してしまうような事故が多発した。特異な例としては、高速走行中、タイヤがパンクする事故の発生もあった。自動車の整備は、時代の進展とともに、ますます重要になってきた。 (2) 自動車の検査 自動車の整備を確保し、常に、十分に整備された状態で交通するためには、整備についての検査が的確に行われなければならない。車両法には検査について新規検査、継続検査、臨時検査ならびに分解整備検査の各種の方法が定められている。  新規検査は、はじめて使用の用に供される自動車について行われる検査であり、その際、申請して自動車検査証を交付される。継続検査は、検査証の期限満了前に陸運局長に申請して受ける検査であり、保安基準に該当することが確認されると、有効期間が更新される。旅客用自動車、貨物運送用自動車、自家用自動車についての検査証の有効期間は一年、その他の自動車は二年となっている。臨時検査は、事故等により自動車の構造、装置又は性能が保安基準に適合していないおそれがあったと認められた場合に臨時に行われる検査である。分解整備検査は、自動車の分解整備をしたときに検査証を呈示して受ける検査である。 (3) 整備事業   このように、検査体制としては整備されたが、その検査が的確かつ公正に行われることがさらに重要である。このため、車両法は自動車分解事業について詳細な規定を設け、各種条件を充たす事業者を優良自動車整備事業者と認定し、その認定した事業者の中から更に特定の条件を具備する事業者を指定する。指定された事業者は国の検査業務を代行する。  国の機関による検査、及び指定整備事業者の自動車検査員による検査に関して、その検査を適正かつ能率的に、さらに全国的に統一した体制で実施するため、運輸省は、昭和36年に「自動車検査業務等実施要領」を定めた。   自動車の検査は、高度な知識と熟達した技術を必要とするため検査業務に当たる自動車検査官及び準公務員である指定整備事業所の検査員については、常時検査技術についての研修を行って、その能力の向上を図るとともに公正な検査業務を実施することが求められた。 4 道路交通法による整備不良車両 の運転の禁止等   昭和22年末の自動車の保安行政の所管の変更により、自動車の整備、点検等に関する業務はすべて警察行政から切り離されることになったため、同年末制定された道路交通取締法には、そのことに関する規定はなかった。整備不良を原因とする交通事故が依然と減少しないのみか、さらに増加する傾向がみられるようになった。そこでその対応策について運輸、警察の両省庁間で協議が行われ、その結果、道路を通行している自動車の装置について警察官が道路上で検査をすることができるようにすることになり、道路交通取締法を改正して所要の措置をとることにした。その措置として「街頭において、警察官が構造装置の不備があると認められる自動車について法令の定める手続きによって検査をし、構造装置に不備がありまたは調整が行われていない場合には警告書を交付する」ことができることとした。この措置を規定するについては、警察官の権限の行使は警察法及び道路交通取締法に定められている警察取締りの範囲を越えることのないように配慮し、また、警告書の交付等については総理府令及び運輸省令の共同命令を定め、警察及び運輸の両行政機関の関係を明らかにした。   昭和35年6月に制定された道路交通法は、旧法のこの立法趣旨及び規定内容を継承し、規定を整備した。   以下道路交通法に定める「整備不良車両の運転の禁止等」について説明する。この場合も「車両等」は自動車ということとする。 (ア) 整備不良自動車の運転の禁止   自動車の使用者、整備責任者、自動車の運転者は、整備不良自動車を運転させ又は運転してはならないとして、整備不良自動車の道路上での運転禁止の原則を明らかにした。  (イ) 警察官の検査   警察官は、整備不良と認められる自動車が運転されているときは、その自動車について装置の検査をすることができる。  (ウ) 故障自動車の運転の継続の中  止   検査の結果、故障のあることが明らかになった場合は、警察官はその自動車が引きつづいて運転してはならないと命ずることができる。故障自動車であっても、故障の状況によっては、運転の区間経路を指定して許可証を交付して運転することを許可することができる。臨機応変の措置である。  (エ) 確認の手続   警察官は、故障自動車について以上述べた措置をとったときは、この法律の規定及びこの法律に基づいて定められた「故障車両の整備確認の手続等に関する命令」に定められている手続きをとらなくてはならない。運転者に対し、公正な取扱いを期するとともに運輸、警察両行政庁の間の緊密な連絡調整を図るためである。 5 道路運送車両法に定める自動車の整備保安に対する対策と、道路交通法に定める措置の二つの対策が定められたことにより、自動車の保安と交通事故の防止を図る制度は確立されたということができる。   しかしながら、自動車交通を取り巻く諸条件は、年月の経過と共に変化している。   自動車の型式、性能は需要側の要請もあって大型化し、高速化してより高度な輸送機器となっていく。自動車の運行の範囲は、広域化し、長距離化していく。他方、道路は旧態依然として、交通の危険を内包したままの未改良のものがある反面、高速道路、自動車専用道のように高規格のものが増加している。   このような状態に対して、すでに屡々引用している昭和39年に提出された「交通基本問題調査会の答申」は次のように“自動車の安全対策”について要望している。これについて関係部分を要約して述べておく。 @ わが国のように道路交通の条件の悪いところにおいては、自動車の構造等においてもこれに対応して乗用車等の安全を確保するため、ハンドルの位置、大型トラックの運転台、高速道路におけるセイフティーバンドの使用等自動車の構造及び補助用具について科学的に再検討すること。 A 自動車の検査について臨時検査を積極的に行うこと。あわせて、特定整備事業者のように、検査実務を、民間の信頼できる工場等にゆだねる制度を検討すること。 B 軽自動車にも検査義務を課するよう検討すること。 C 自動車整備事業について行政指導及び助成措置を強化することにより整備工場の集約化及び専門化を促進し、設備の近代化を図ること。 D 排気ガスの発生については、その原因が燃料の不良、整備不良ならびに運転操作の不良にあると考えられる。装置不良自動車について徹底した取締りが必要である。さらに排気ガス発散防止装置の開発及び構造の改善を図ることが必要である。 E 交通騒音は警音器の濫用のほか、自動車の構造装置の不備、トラック等の過積載等に起因している。消音器の設置、整備検査の励行等について対策を強力に実施するとともに関係機関の連けいの強化及び取締りをすること。   以上のような答申に対し、その後運輸省においては法令の改正等を含んで漸次対策を実現することにつとめ、多くの措置が講じられている。