第2章 道路交通の実態とその変遷の概要  道路交通とは、道路の諸条件、自動車、その他各種車両の道路を通行する状態、道路を利用する歩行者の状態等が、相互に関係し合って実現している状態である。  これらの状態が調和を保って推移している場合を「道路交通が安定している状態」といい、それらの状態が調和を欠き混乱を生じ、事故が起こり、さらに公害が発生するような事態になった場合を「異常な状態」という。  道路交通対策とは、そのような異常状態を解消するための政策であり、具体的措置である。 第1 終戦より昭和30年代前半 1 終戦後、占領の終了するまでの数年の間の道路交通の実情は、道路交通を組み立てている各要素のすべてが異常であった。道路の条件は、道路の構造上の不備以前の損壊とか物件放置など極めて素朴な欠陥をもっており、また、道路を交通する自動車やその他の車両を操縦する者は法令を守らず、道路を利用する歩行者も法令を知らず、何れも異常であった。そのような訳で、交通混乱は異常ではあったが、その原因について見ると極めて素朴なものであり、交通事故も多く発生していたが、偶発的なものが多かった。   このような道路交通の状態に対し当面必要な措置はとられていたが、独立回復後の急速な経済活動の発展により、自動車、その他の車両の運行が頻繁になり、その措置の効果を上回る異常な道路交通の状態が出現していた。とりわけ、交通事故が多発するようになり、死者、傷者の数が年々増加する傾向となった。統計によって、昭和25年と昭和29年を比較すると、発生事故件数33,212件対93,869件と約3倍の増加、死亡者4,202人対6,374人、傷者25,450人対72,390人と死傷者の数も急増している。他方、自動車の台数についてみると、昭和25年387,563台対昭和29年1,311,781台と、約3倍に増加している。   この統計とその当時の道路交通の実態と併せて観察すると昭和25年頃の“素朴、偶発的”というような形の異常状態が、昭和29年頃になると、道路交通を組み立てている各要素の不調和の状態が構造的なものになり、そのような構造的な不調和から混乱が生じ、交通事故の多発が促されているようになっていることが判る。   前章に紹介した政府の発出した“交通事故防止対策要綱”は、そのような構造的に悪化の傾向にある交通事故の実情に対し、当面必要な総合的な対策を明示したものである。また、警察庁の発表した“道路交通における問題と対策”もその頃の道路交通にかかる諸要素の実情を解明して、それに対する対策を提示したものである。   昭和30年から約15年間という時期は、道路交通の実態が年を追って屡々劇的な変貌を見せる程の変化の多い時代である。混沌の時代からモータリゼーションの時代へ推移した時期である。 2 すでに前章で紹介したが、昭和31年8月に提出されたアメリカ国から招聘した調査団の調査報告書いわゆるワトキンス報告書は、わが国の道路の劣悪、後進性を厳しく指摘している。しかし、この頃の道路交通の諸条件の悪さは道路だけではない。   すべての点で、欧米先進国の道路交通の実情に比較すると劣悪であり、後進的である。その状況について、これまた前章で紹介した警察庁の発出した通達「道路交通における問題と対策」に依りながら述べることにする。記述している統計等の数値は昭和32年頃のものである。   この通達の冒頭に、その当時の道路交通の実情について、概ね次のような内容のことを述べている。  「わが国の道路交通の実情は、道路交通の各要素が互いに調和を欠き、道路は旧態のまま殆ど改良されていないにかかわらず、自動車等交通機関の質と量は、道路の現実を無視して急激に上昇している。他方、社会公共のモラルの低下と無関心によって、交通のルールは守られず、この結果、悲惨な交通事故が発生し、交通の混乱を生じている」   この概説を裏付ける意味で、昭和33年度中における交通事故の状態の概要を当時の警察庁の資料によって述べると次のようになっている。   事故総数は168,799件となっているが、この数字について「この数字は警察庁の設けている一定の基準に基づくもので、現実にはさらに多くの事故が起こっていると考える。」とコメントし、実数はさらに上回っていることを示唆している。この事故による死亡者は、8,248人、負傷者は145,432人となっており、その半数は、東京都をはじめ大阪、神奈川、愛知、兵庫、京都、福岡の大府県で占めている。では、その事故の相互関係はどうかというと、何らかの形で自動車に係るものが圧倒的に多く、事故全体の76%強となっている。   全事故のうち、自動車と歩行者の関係は25%となっており、それによる死傷者は全数の23%である。自動車対自動車は事故で26%、死傷者で21%となっている。   事故の当事者である自動車についてさらに分析して見ると、相対的には、貨物自動車が第1位で、第2位はタクシーとなっているが、自動車の1,000台当たりの事故件数によって比率的に見ると、タクシーの事故発生比率が貨物自動車を遙かにしのぐ高率となっている。この統計によって見ても、当時における自動車の交通による事故の大部分を貨物自動車とタクシーが占めていることが明らかであり、これらの自動車の運行の実態を推察することができる。当時すでに神風タクシーということばがマスコミで伝えられ、また、長距離輸送のトラック事故が話題になっていた。 3 道路交通の混乱も目立つようになった。警察庁が、昭和33年6月、運輸省に設置されている都市交通審議会で、東京都を例示して報告した資料に基づいてその当時における交通量の状況の概要を述べたい。   昭和32年末現在、東京都内の自動車登録台数は概数34万台、路面電車1,170両、原動機付自転車10万台、自転車113万台、その他荷馬車、荷車等8万2千台となっており、さらに他地方から都内に流入する自動車は1日約10万台である。都の人口は、860万人である。   昭和32年10月、都内の110ヶ所の主な交差店で交通量調査を行った。時間は午前7時から午後7時までの12時間、その間における自動車の総交通量は概数で述べて312万台、最も多量であった祝田橋交差点(皇居前)の交通量は概数9万5千台、7万台以上の交通量の大交差点が5ヶ所あった。これらの交通量は、イギリスにおいて試みに発表されている道路許容交通量の算定基準によって推定すると、最大許容量の概ね2倍となっている。   同じ調査において、歩行者は概数247万人、自転車は115万台、リヤカー、牛馬車は1万8千両となっている。   さらに、同じ調査において、特にラッシュアワーといわれる時間帯における自動車、自転車、歩行者、その他の車両の数量を示して、その当時の交差点の混雑の実情を示しておこう。何れも午前7時より午後7時の12時間の交通量である。 │ 交差点 │銀座4丁目│  岩本町 │ 新宿三光町│ │自 動 車│ 42,012│ 72,115│ 38,613│ │自 転 車│ 8,686│ 36,042│ 14,145│ │歩 行 者│ 139,698│ 17,187│ 45,831│ │その他の車両│ 58│ 126│ 308│    銀座4丁目は、有名商店が櫛比する繁華街である。歩行者が多いことが特色的。岩本町は東京の問屋街の中心であり、荷物の動きの最も激しいところである。自動車及び自転車の量が多いのが目につく。その他の車両として荷車が多い。新宿三光町は、新宿の中心であるが、この頃はまだ現在見る程に新宿は混雑していなかった。   このように当時の交通量は、現在(平成13年)の交通量に比較すれば、とくに自動車の数量などは比較にならない程少量である。にもかかわらず、その当時の混雑度というものを感覚的に表現することができるとしたら、恐らく、現時点での数倍であろうと推察する。それは次のような事由による。 (1) 道路上で交通しているものが全く様々である。自動車も、その内訳は、性能、用途等の異なる普通乗用自動車、貨物自動車、オート三輪車、軽自動車があり、乗用車の中にはタクシーがあり、貨物自動車は区域運送用のほか長距離用の大型車があり、さらにダンプカーも含まれていた。   自動車の他に、原動機付自転車、自転車、荷馬車が通行し、歩行者がそれらの中を交錯するように歩行していた。 (2) 終戦後の道路の諸条件の劣悪又は後進性の残滓が相当大きく残っており、これの影響が大きい。さらに、幅員の狭いこと、舗装、歩行者のための歩道の整備の未熟等の問題があり、その上に、その道路が道路上の自動車の駐車、放置、道路の不正使用、道路工事が雑然としていること、などによって一層使用条件を悪くしていた。   昭和33年3月に実施した調査で、自動車の路上放置と認められるものが東京都の23区内だけで41,000台あり、これらは、車庫又は常置場所を持っていない自動車と認定できたものである。このほか、道路を調査した結果、材木置場として10年以上使用されていた場所を調べたところ、その下から歩道があらわれたというような報告もあった。 (3) 交通混乱(混雑、渋滞等)に対応するための対策が未だ十分でなかったということが、混乱を一層助長させていた。交通信号機の設置、交差点構造の改良、(例えば横断歩道橋の設置等)その他総合的な交通規制等幾多の対策が考えられるが、これらの措置がほとんどとられていないか、又は遅れていた。   その当時は、警視庁では、主な交差点には交通整理の警察官を配置していたが、この人達の精神的肉体的障害が多く報告されている。余りにも複雑な交通の整理に心身を酷使した結果である。   以上、混乱の状態を主として、東京都の例を示して述べてきたが、このような状況は、都市を形成している他の地域においても殆ど同様に出現していた。都市の状況とは異なるが、例えば昭和32年に報告されている岩手県の例によると、“従来、この県だけの自動車の運行であったところに、長距離輸送のトラックの路線が4線設けられ、大型トラックが昼夜を分かたず運行するようになり、平穏だった地域が大きく変貌しつつある”という。この例に見る状態は、漸く全国的な傾向となりつつあった。 4 以上は、概ね、昭和30年頃から数年の間の道路交通の実情を述べたのであるが、その実情は近代的な道路交通というものを頭において考えるとすれば、“後進性”ということばを以て表現せざるを得ないものである。   偶、第三者の立場で視察した、ワトキンス調査団は、「道路網の状態は統計の示すものよりは、もっと悪い。それは改良済みとなっている道路も工事がまずく、維持が不十分であって、通行の障害となっている」と述べ、また、「戦前の狭い道路を利用して、多量の自動車が進入しているため、危険が多い」ことを指摘している。さらに、報告書が「都市的地域において、あらゆる交通機関や歩行者による雑然とした混合交通が行われており、そのため自動車の有効な使用が阻害されている」と述べていることを改めて紹介しておく。   もう一つ注目してよい報告は、交通警察に係わる交通規制、交通安全教育、運転免許制度など多岐な分野について注意を喚起し、「もしこれらの問題を早急に、かつ、果敢に解決するように努めなければ、日本は道路交通が発達し続けるにつれてますます堪え難い自動車交通状態になるであろう」と強く改善対策を要請していることである。   このようなワトキンス報告も当時におけるわが国の道路交通の実態の後進性を的確に指摘しているといってよいであろう。 第2 昭和30年代後半 1 戦後の道路交通の実態及び対策の推移を見てくると、この時期は、わが国の道路交通の推移の中で、一つの時期を画しているものであるといってよいようである。   それまでの時期との関係からは、この35〜36年は、道路交通の態容として、後進性から脱却する目途のついたときであり、また、これから後の時期との関係から考えると、道路交通についての将来の展望を考え得るような状態になっているときといえるであろう。   道路交通について論をなす識者の多くは、「わが国の道路交通は昭和35〜36年頃からモータリゼーションの時代に入った」と述べている。ここで一つの時期を画していると述べたことは、言いかえれば、モータリゼーションの時代になった、またはそれに極めて近い状態になる目途がついたということでもある。   モータリゼーションという言葉について、その意味を明らかにしておきたいと思う。   辞書の解説では、「自動車が生活必需品として普及する現象、自動車の大衆化」とあり、さらにその現象を解説して「自動車が単に輸送機関としてだけでなく、大きく市民生活の中に入り込んでいる状態で、旅行その他のレジャーから通勤に至るまで自動車と市民の生活が密着している状態である」としている。   もう少し詳しく具体的にモータリゼーションについて述べておく。   19世紀後半、ヨーロッパにおいて、内燃機関を動力とする自動車が製造されたが、それらは手作りの製品であり、高価で、一部貴族階級の者が利用したに過ぎず、僅かに3,000台程度の生産であったという。   本格的な自動車は、1908年アメリカのヘンリー・フォードによって製造されたT型自動車である。大衆車を志向し、製造の合理化と大量生産を考え、全米への普及を図った。価格も低廉、性能もよく、素人でも修理できるという自動車であった。   自動車はアメリカにおいて次第に普及し、それが都市から農村に及び、1923年には年間 200万台を製造し、1908年の製造以来19年を経過した1927年(昭和2年)までで、総生産数は 1,500万台になったという。   この頃アメリカはモータリゼーションの時代に入ったといえるであろう。しかし、自動車が次第に市民生活の中に浸透してくるにしたがって、自動車そのものが変容し、イギリスにはイギリス的、フランスにはフランス的な自動車が生産されるようになり、モータリゼーションの中味にも時代とともに変化があらわれていった。   アメリカ型モータリゼーションというならば、ヨーロッパ型モータリゼーションもある筈である。 一般社会に先立ってヨーロッパ及びアメリカの軍隊では、運搬用具としての自動車、武器としての装甲車、戦車などの機動化が図られ、このことを以って“軍隊におけるモータリゼーション”と言う人もいる。   世界的な規模でモータリゼーションが画期的に進んだのは第二次世界大戦の終結以後で、自動車の種類が多様化し、とくに小型自動車、スポーツカー、レジャー向きの自動車等が市場に出回ることによって自動車の普及はさらに徹底していった。   アメリカ中心の自動車の製造が、小型を製造するドイツをはじめヨーロッパ各国及び日本の製造に移行しはじめた。   今や自動車は、輸送、移動の目的だけでなく、深く市民生活に浸透して、日常生活の中の不可欠な用具となり、さらに、遊びと趣味の用具ともなっている。アメリカにおいては一人で二台、三台の自動車を保有し、日本でも一世帯一台以上の割合で保有するようになっている。 2 わが国において、昭和35〜36年を以って、モータリゼーションのはじまりと見るかどうかについては、モータリゼーションの中身をどのように理解するかによって意見は分かれるであろう。   この論稿では、多数の識者の説にしたがって、わが国のモータリゼーションは昭和35〜36年頃にはじまったと考えた上で、モータリゼーションの中身がどのように推移していったかということを明らかにして行きたいと思う。それについて時期的に見ると、オリンピック東京大会が開催された昭和39年が一つの節になり、自動車専用道や高速自動車道が供用されるようになった昭和45〜46年頃が次の節になっているといえるであろう。   東京オリンピック大会の開催は、道路交通という観点に立って見た場合は、都市構造の改善近代化と、道路条件の改善充実を推進する極めて重要な国家目標というべきものであった。東京のみでなく、全国的規模で主要道路の改良が促進され、自動車専用道や高速自動車道の建設が進み、オリンピック大会の開催時にはそれらの一部が使用されるまでになった。   道路条件の充実は、必然的に自動車交通の需要を増大する。その状況を統計によって見ると次のようなことが明らかになる。(以下、この記述においては、数字は端数切り上げ、または切り捨ての概数とした)   昭和35年の自動車の保有台数は、530万台(乗用車51万台、貨物自動車 160万台、その他自動二輪車、原付車等)となっている。   この際、弁明しておきたいと思うが、自動車台数の年次統計について、その総数に原付車を算入している場合とそうでない場合があり、引用する統計によって、かなりの誤差のあることである。それについては資料編に記載しているところによることにして、この記述においては年次の傾向を知るということで「運輸省統計資料、自動車保有車両数月報」によることにした。   さて、昭和35年の統計で見た場合、昭和30年に比較して、保有総数で約2倍、自家用乗用車は約 3.7倍、自家用貨物自動車は約3倍の増加となっている。   これに対し、運転免許の保有者は、昭和35年 1,073万人で、昭和30年の378万人に対し約2.9倍となっている。   自動車の数量に対し、運転免許保有者の多いのは、この時期においては、オーナードライバーが増加しているというのではなく、「将来のため免許を得ておく、結婚用のステータスシンボルとして」などという者が多いためであり、いわば、オーナードライバー予備軍とも言えるものであった。   次に、オリンピック大会の開催された翌年の昭和40年の統計を見ると、自動車総数 1,570万台、乗用車 228万台(うち、自家用車 205万台)貨物自動車は 460万台(内、自家用貨物自動車 430万台)となっている。自動二輪車及び原付車は約760万台である。運転免許の保有者は、2,110万人である。   これを前記昭和35年と比較した場合、わずか5年間で、自動車総数において、約5倍、乗用車で約 4.5倍、乗用車中、自家用自動車についてみると、約5倍となっている。貨物自動車は約4倍である。運転免許保有者数は、約2倍となっている。   このような数字で示される自動車の実情から、この時期(昭和35年〜39年)のモータリゼーションの傾向を察知することができる。   たしかに、モータリゼーションは進んでいる。しかしそこには“日本型モータリゼーション”といえるような特色が見られる。   昭和35年から39年にかけて、自動車の数量の増加は極めて大きい。しかし、その増加の大きな部分は、貨物自動車と、オート三輪車、自動二輪車、軽自動車そして原付車の類である。このことは道路交通の場において貨物自動車の運行が多いこと、及びその型を異にし、性能を異にし、形の大小を異にするまことに多種多様の自動車が通行していることを示している。   貨物自動車の中でも、自家用の貨物自動車が増加しているのは、企業の生産活動が活発化し、自企業の貨物を自ら運搬することが多くなったこと、また、町工場や個人商社、商店などが従来使用していた荷馬車荷車、自転車等から中、小型の貨物自動車の使用に転換したことによるものである。乗用自動車の中、自家用乗用車の増加が大きいことは、官公庁、企業等において自家用乗用車の使用が多くなったことによるもので、まだ、オーナードライバーの乗用車が急増しているようには考えられない。しかしオーナー用の自家用乗用車が年を追って増加していることは確かであり、それは免許を受けようとする者の動向からも察せられる。 3 前段において、主として自動車の数量の増加の傾向を述べたが、これらの自動車の運行による道路交通の実情を述べることにする。   昭和35年、池田内閣は、経済の高度成長と所得倍増の10ヶ年計画を策定し、予算化を図った。公共事業として道路の新設、改良の工事が着工され、全国総合開発計画による地域開発や都市構造の改善などが計画された。これに応じて貨物の移動が頻繁となり大型貨物自動車、ダンプカー、危険物運搬の自動車等の運行が活発化した。とくに戸口から戸口に直送する貨物輸送の便は、鉄道に依存していた貨物輸送を大幅に自動車輸送に代えて行った。統計によって見ると、貨物の輸送トン数については、昭和30年は自動車の5億6千9百万トンに対し鉄道は1億8千5百万トンで、その割合は3:1であるが、昭和35年は11億5千6百万トン対2億3千百万トンで5:1となり、同40年には21億9千3百万トン対2億4千4百万トンで9:1となっており、年を逐って、貨物輸送が自動車に移行していることが判る。尤もトンキロ数で見た場合は対比においては、なお、長距離を輸送する鉄道輸送には、当分の間は及び得ず、昭和40年になって殆ど同率(1:1.8)になっている。   人員輸送については、バス及びハイヤー、タクシーが営業用として利用されているが、輸送人員数から見るとバスがハイヤー、タクシーに比べ圧倒的に多く、昭和35年ではバスが5倍強の人員となっており、同40年には稍下がってバスが2.5倍である。5年の間に、ハイヤー、タクシーの輸送人員がバスに比較してその占める率が大きくなっていることが判る。   この人員輸送について鉄道と比較した場合、国鉄及びそれ以外の鉄道の合計した輸送人員と自動車の輸送人員の比率は、昭和35年では鉄道対自動車は 1.5対1であるが、同40年には、概ね同率となっており、だんだん自動車による人員輸送が鉄道輸送を凌駕する傾向を示している。   次に昭和35年から同40年頃における自動車の運行の状況を走行キロの推移を統計によって示し、その傾向だけを記しておく。   モータリゼーションの態容が一応成熟したと考えられる昭和45年の自動車の総走行台キロ220億キロメートルを100として見た場合、その指数は昭和30年は5、35年13、40年は36となっている。   昭和40年だけについて自動車の走行台キロをバス、乗用車、貨物自動車に分けて、昭和45年を100とした指数で見ると、バス67、乗用車28、貨物自動車45となっている。   この指数で見る限り、自動車の運行の上昇傾向はバスが最も大きく、次いで貨物自動車が大きい。乗用車については昭和45年以後において大幅に増加する傾向を示している。 4 以上は主として、統計の数字によってモータリゼーションの趨勢を述べたのであるが、この統計の示しているところによって、この時期におけるモータリゼーションの特色を述べておこう。 (ア) 自動車の種類が極めて多いことである。自動車の種類については法令でその種別が定められているが、性能の向上、用途別による機能の分化等により、時代によって必ずしも同一ではない。平成12年現在、道路運送車両法に定められているものとしては、普通自動車、小型自動車、軽自動車、大型特殊自動車、小型特殊自動車となっている。これを道路交通法に定めている運転免許の種類から自動車及び原付自転車の区分を見ると、大型自動車、普通自動車、大型特殊自動車、自動二輪車、小型特殊自動車、原動機付自転車となっている。   このほか、旧道路交通取締法(昭和35年12月まで有効)では、免許の種別に対応して区分している自動車の種類は、普通自動車、小型自動四輪車、軽自動車、けん引自動車、自動三輪車、特殊作業用自動車、側車付自動二輪車、自動二輪車となっている。   以上は一応、法令によって定められている自動車の種類であるが、現実に道路を運行している自動車は、その規模、型式、用途別等で多種多様である。大雑把に挙げて見ても大型バス、中型、小型の乗用車、大小の自動二輪車、大型貨物自動車、中型、小型の貨物自動車、オート三輪車、乗用、貨物用のそれぞれの軽自動車、そのほかに原動機付自転車等がある。   このように多種類の自動車がとくにこの時期に出現したのは、それぞれの用途に基づく需要が多かったことによると考えるが、同時に自動車メーカーがそれぞれの思惑によって積極的に多様な自動車を供給したことにもその理由があるのではないか。   もう一つ、日本の地勢、道路条件、都市構造等が必然的に自動車の多様性を生み出していると考えることもできる。 (イ) 貨物自動車の量が遙かに乗用自動車の量を越えている。   同じ時期の欧米先進国の状態を見ると、それらの国は、乗用自動車の数が貨物自動車の数を大きく上回っている。モータリゼーションの中味を考える上でよい対照である。   日本のこの時代は、まだつづいている戦災復興、道路建設、都市改造、住宅建設、大小の工場建設等、公共的なもの、私企業的なものの事業が一斉に出揃い、とくに東京の場合は、オリンピック大会開催のための諸々の事業があり、東京都を中心として全国的な規模で貨物の移動が行われた。   これに対し、乗用自動車については、バスを除いては人員の大量輸送はなく、ハイヤー、タクシーは走行率は極めて高いが、乗車人数の上では上限が定められているため、その輸送量は多いとは言えない。自家用自動車の増加は年々多くなっているが、それらの用途は官公庁、企業等の公用、社用のものが多く、将来大幅に増加して行くオーナードライバーの自動車はまだ漸増というところである。   貨物自動車と乗用自動車の数量の比率が逆転するのは昭和46年である。 5 道路交通の異常性 ─ 渋滞、事故、公害の発生   道路交通は、道路の条件、道路を使用する自動車その他の車両の通行状態、道路を利用する歩行者の状態等が相互に関係し合って実現している状態であるというように考えると、この期間はそれらの関係が大きく調和を欠くに至ったときであるというべきであろう。即ち、道路の条件はまだ十分に整っていない。改良を進めていても、まだその効果が出るに至っていない。自動車の量及びその種類の多いことはすでに前述した通りである。自動車を動かすのは運転者である。運転者の運転マナーに問題があり、運転者を雇用する使用者にも問題がある。(このことについては後述する。)歩行者の保護と歩行者自身の不注意ということにも問題がある。このように道路交通を構成する諸々の条件が著しく調和を欠いている。ここから道路交通の異常状態が起こってくる。交通の渋滞と混乱、交通事故、そして交通公害である。これらはモータリゼーションの進展に伴って生ずる必然的なものとも言えるけれど、日本の場合は、とくにこの時期においては、調和を欠くことが甚だしく、そのことを原因として異常事態が生起している。このような状態を“ひずみを内包したモータリゼーション”と表現し、あるいは“日本型モータリゼーション”といってもよいのではないだろうか。 (1) 渋滞の発生 警視庁では、毎年1回都内の概ね 100ヶ所位の地点を選んで、その地点について12時間(午前7時より午後7時まで)の通過交通量の調査を実施しているが、年を逐って、前年比で10〜11%増加しているという調査結果を発表している。   昭和38年11月に実施した結果について概要を述べると次のようである。   車種別に見ると、全交通量の中で一般乗用車が最も多く、44.6%を占め、次いで一般貨物自動車が32.8%となっているが、乗用車の比率の高いのは当然都心においてはタクシーの運行が極めて多いことによる。貨物自動車の約33%は前年に比べて大きく増加しており、貨物自動車の運行が目立つようになっていることを示している。次いで自動二輪車が11.8%、大型自動車では大型トラックが8%、大型バス 2.8%となっている。   都内への都周辺県から流入する自動車の増加率は前年に比して約16%増となり、都外から流入する自動車が年々増加していることが判る。   自動車以外の軽車両(自転車、荷車等)は年々減少の傾向にあるが、通行しているものの殆どは自転車である。   自転車以外の荷車、荷馬車は年々減少し、殆ど消失しつつあるようである。歩行者は、都内の111地点における調査で、その合計は約 2,600万人と集計され、前年と殆ど変わっていない。   東京都における交通量の数字を示したが、このような数量の自動車が運行することによってどのような状態を出現させていたか。   交通量調査の示すところでは、何れの地点においても午後4時から6時がピークになっており、次いで、午前9時から11時頃が多いが、都心の鉄道輸送にあらわれているラッシュアワーというものとは違って昼間時間帯は通して量においては余り差はないように見られる。   これほどの交通量に対し、道路の条件は非常に悪い。重要路線の改良は進んでいるが、都市内のそれ以外の道路にまでは及んでおらず、都市交通問題の現状の大きなマイナス要因となっている。道路幅員は狭く、片側二車線の道路は極めて少ない。   道路上の駐車が多い。この駐車が道路の効用を大幅に阻害している。二車線あっても実質的には一車線の利用しか出来ないことになる。駐車の問題は都市構造にもその原因がある。   東京のみならず日本の多くの都市の構造を見ると、例えば、道路に面して住宅、商店、工場等異質の建物が何の脈略もなく櫛比して建てられている。それが常態である。その結果、商店に荷を積み卸しする貨物自動車が駐車し、工場に出入りする貨物自動車があり、住宅には乗用車が駐車する。雑然とした自動車の運行及び駐停車の状態である。   また住宅地の中に事業場が存在し、住宅地の中や学校付近に大型トラックが常時出入する等の状態が生じている。   交差点の構造にも問題がある。ある一地点に集中して道路が、交差する2本の道路の場合から4本5本の道路の場合もある。   自動車は直進し、左折し、右折する。放置しておけば大混乱を生ずる。そこで道路管理者は主要交差点について立体交差の対策を樹てたが、この実現には相当の時間を必要とする。   歩行者の横断の多い交差点については、昭和40年代に入って歩道橋が設けられるようになった。また、警視庁はじめ各都道府県警察では、とくに交通頻繁の道路については大幅な通行の禁止制限の措置をとった。右折左折の禁止、直進の禁止、一方通行の設定等である。また、駐車禁止も幅広く実施した。しかしそのような措置を越えて、自動車の量は増加し、交通量は道路管理者や警察の予測を越えて増加した。   例を挙げよう。東京都では、オリンピック大会を控えて大幅な都市構造の改良を含む道路の新設改良を計画し、実施した。その中で甲州街道(東京都新宿より、山梨県甲府に至る国道。徳川時代、幕政維持のための主要道路として建設された道路である)の改良が行われた。この改良が実現すれば、甲州街道の東京都内の部分については向う5年間位は交通量に比較して道路容量は20%位の余裕があると道路管理者も警視庁も算定した。しかし現実は改良完了の時点には、すでにそれを越える交通需要が発生していたのである。   かなり厳密な推測であったが、その当時の現実はその予測を遙かに越えるものであった。それがオリンピック大会開催の昭和39年の前年、前々年の状況であった。 交通事情の予測が如何に難しいか、また、推量が見事に外れるかということについて、エピソードをここで付け加えておこう。 その1 昭和26年、30年後の日本を予想した笠 信太郎氏の見解に次のような文章がある。「道路にデコボコや水溜まりはなくなり都市は完全にペーブされているにちがいない。東京の地下には地下鉄が走り、都電はみな大型バスに代わり、交通地獄はなくなって、郊外からの通勤もはるかに楽になろう。国道は50マイル(80キロメートル)の速力で快く走ることができ、山間の村にもトラックは楽に通って、都会との間の輸送は事欠かなくなっているであろう。」(倉島幸雄氏編著より引用) その2 昭和40年頃、ある評論家が「経済発展に直接つながらぬ高速道路という大名道路は、スピード気違いに遊び場を提供しているようなもので、名神高速道路は貨物自動車は予想の2割も通行しておらず、もっぱら観光用である。」と述べている。   何れも、発表当時とその後の現実は大きく離れている。   主要道路に渋滞が生じてくると、自動車は主要道路を避けて、その裏通りを求めて通行するようになる。今まで静かだった住宅地の中を自動車が入り込むようになった。所謂生活道路といわれる本来その地域の住民が生活の場としている道路を大小様々の自動車が通過するようになり、それが常態化した。やむを得ぬ措置として、警察はそのような道路の一部を限定して通行を制限したり、ある時間帯を“子どもの遊び場”として指定するようなこともした。   大型自動車の運行が増加した。人員輸送の大型バス、貨物輸送の大型トラックである。道路の容量との関係から生ずる交通渋滞、他の自動車、歩行者の交通阻害が大きな問題になった。   大型バスの問題である。東京都を例にとってその事情を説明しよう。場所は東京都心から概ね10〜15KM位隔たった郊外の地帯である。世田谷区のある商店街で幅員 3.5メートルの道路に大型バスの路線が二系統設けられ、126往復の大型バスが運行した。杉並区の中心部の駅付近で、5メートルの幅員の道路に三系統のバス路線が設けられ、200往復の大型バスが運行した。何れにおいても車のすれ違いが難しく道路交通の上に極度な渋滞を生じ、他の自動車も歩行者も動きのとれない状態になった。   これは、報告の中から拾い上げた一例である。このような状態は、東京はじめ横浜、名古屋、大阪等の大都市で生じている。   大型トラックも問題である。道路工事、住宅建設、ビル建設その他大型の工事が広範囲に実施されるようになって、貨物資材等の運搬が大型トラックを使用して行われるようになった。営業用、自家用を問わず、長距離の大型トラックによる運送が頻繁になった。そのような大型バス、大型トラックが道路条件の必ずしも整っていない道路を行き違い、多量に運行することにより、都心部の交通事情は日に日に悪化していった。   このような状態に対処した例を東京都について見ると、昭和36年から37年にかけて、都内の道路について駐車禁止、一方通行や通行禁止等大幅な交通規制を実施した。如何にして道路を有効に利用するかということを視点に置いた規制である。この結果、昭和38年3月現在で一方通行 2,340ヶ所、通行禁止及び流しタクシー禁止641ヶ所、追越禁止173ヶ所、右折禁止 1,100ヶ所、駐車禁止2,042ヶ所等全部で2万2,000件に及ぶ交通規制となった。   この大規模な規制についてエピソードを記しておこう。ある有名な漫才師が、都心の高座で仕事を終えて自宅に自動車を運転して帰ろうとしたところ、何処もかしこも右折禁止、一方通行等になってしまって、気がついたら横浜まで行ってしまった、ということを高座で話したというのである。もとより誇張もあるが、とにかくそれ程話題になる画期的な交通規制であった。効果はあった。しかし、このような規制にも拘わらず都内の交通事情は決してよくならなかった。   筆者は、このような状態についてひずみのあるモータリゼーションともいい、またこのような異常事象をその他の交通事故、交通公害とともに、それぞれ、構造的渋滞、構造的交通事故というように言っている。   東京に限らず、全国各地方の大都市又は中都市においては、都市と都市に接する道路で渋滞や混乱が起こっている事例が多い。   例えば、大阪市と接する尼崎市と結ぶ道路では、朝夕のラッシュ時に異常な渋滞が継続して発生した。対策として両府県でそれぞれ交通規制を考えたが、余りにも多い自動車が特定時間に集中するため、その対策の効果は余り期待できなかった。量的規制にまで及ぶことは当時の状況ではできなかった。   神奈川県と東京都の境界多摩川にかかる橋で常時渋滞を生じた。原因は、流出流入する交通が橋に集中するためであることは明らかであるが、だからといって直ちに唯一の対策としての橋を増設するということは当時難しい問題であった。   昭和37年、東京都においては、都心に流入してくる自動車の通行の一部を制限することによって渋滞を緩和し、交通流を円滑化する方策を検討した。その中心に大型貨物自動車の流入規制を取り上げた。基本的な考え方は、都内の交通渋滞と混乱の原因の大きな要素として大型自動車の通行を合理的に規制するというものである。これは、一年かけて交通の実態を調査して得た結論であった。即ち、 (ア) 対象主要幹線道路として、交通量が多く規制の効果が期待されるものを選ぶ (イ) 時間は交通の実態から午前8時から午後8時までとする (ウ) 対象の自動車は、路線トラック、長大物運搬の自動車及びけん引自動車とするほか、乗用車として大型観光バスとする というような 規制案を作成した。   この規制案については多くの問題があった。運輸業界ではこれを重.大視して反対運動を展開する事態も起こり、他方で国会論議の中で憲法違反ではないかという意見も出るなど、厳しい法律論が展開された。それ程に大きな話題になった対策であるが、敢えてそのような強硬な措置をしなければならない程に、すでに東京の交通事情は悪化していたのである。この規制対策については、後述の別の章で詳細に述べることにする。   大型自動車を対象とする規制は、大阪府においては、昭和35年に総合交通規制の一貫として行っているほか、第2次、第3次規制として昭和37年から昭和38年にかけて実施している。