第4章 交通警察の組織と運用 はじめに  交通警察ということばが何時頃から使用されるようになったか、これを詮索することは講学的には興味のある問題であるかも知れないが、戦後の道路交通及び警察行政を論ずる上ではそれ程意味のあるものとは考えられない。念のために二、三の資料を調べたところ、交通警察行政についての碩学といわれる藤岡長敏氏の著書の中に、「警視庁に交通を担当する課が設置せられたのは明治34年4月1日であり、当時警務局第二課と称した。その分掌事務の中に、“交通警察ならびに田野森林云々等に関する事項”として交通警察ということばが定められている」と書かれていることを紹介するにとどめておく。  交通警察の概念については、時代の経過によって変動がある。比較的明確な形で、交通警察の概念が作り上げられたのは、大正9年(1920)に制定された道路取締令及び大正8年(1919)に制定された自動車取締令(後、昭和8年に全面改正されている)によって、警察行政としての任務、権限が明らかになったときである。  ところが、終戦後新しく制定せられた日本国憲法に基づいて警察法及び道路交通取締法が制定されたことによって、交通警察の概念は大きな変化を遂げた。  警察法はその規定の中で警察の責務、即ち、警察の所掌する行政の範囲を明らかにし、その第二条に具体的な内容を明示して規定している。その警察の責務の中に“交通の取締”ということが定められ、さらに警察庁の内部部局の所掌事項に交通警察に関することと定められている。  次に、道路交通取締法(昭和22年(1947))は警察の所管行政としての交通警察の任務を具体的に明らかにしている。この法律の制定以後は交通警察は専らこの法律を根拠として行われる警察業務であるということになったといえよう。 第1節 交通警察の任務 1 交通警察の任務   警察の任務は、必ずしも道路交通取締法の定める業務にのみ局限されるものではないが、交通警察は警察法に定める責務の範囲内で、且つ法令が定めるところに局限されるものである。したがって、交通警察の責務の殆どすべては道路交通取締法に定められている目的の範囲内にとどまるべきものと理解してよいであろう。この法律によると、その目的を「道路における危険防止及びその他の交通の安全を図ること」としており、危険防止とその他の交通の安全ということが明示されている。   この法律は、昭和35年6月に制定された道路交通法に引き継がれたが、その道路交通法において目的規定の一部が改められ「その他交通の安全と円滑を図り」というように、「円滑を図る」という積極的な措置を執り得るようにした。さらに、昭和45年、「道路の交通に起因する障害の防止に資すること」を目的規定に追加した。即ち、道路交通の中において生ずる騒音、大気汚染等の環境を悪化することに対し、その防止を図ることについての責務を定めたのである。   このように法令の目的規定の変遷経過を見ると、交通警察の任務は、逐次社会の実態の変化に対応して行動し得るように変化している。このことはまことに当然のことであり、恐らく今後も社会情勢の変化に対応して、交通警察の目的、任務は多角的にならざるを得ないであろうし、それと併行して交通警察という概念もまた変化することになるであろう。 2 3Eの原則  −交通警察の運用の原則−   終戦後、交通警察についてはその概念(考え方)は必ずしも明らかでなく、またその運用原則も定まったものはなかった。その中で、比較的はっきりとした形で、3Eの原則ということが警察内部で語られていた。そのことばが何時からどのような形で述べられていたか、必ずしも明らかではないが、アメリカ合衆国で交通警察の考え方としていわれていたのではないかということは推察される。我国における戦前から戦後にかけての交通警察の理論と実際についての第一人者といわれる藤岡長敏氏の著書及び言論の中に屡々この3Eの原則ということが述べられている。その所説を紹介しておきたい。      藤岡氏は3Eの原則を解説して、これはアメリカ合衆国における交通警察の運用の基本理念であるとし、その上で“交通警察は交通整理をその任務とするものである”という考え方を述べている。交通整理ということは“交通上の危険を防止し、併せて交通の円滑を図るために行われる作用である”と定義付けている。さらに藤岡氏は、交通整理を必要とするに至った原因は道路交通の混雑にあり、その混雑は道路の状況と交通の状態の相関関係によってその度合いが定まる。しかして、混雑をひき起こす原因は、交通量の増加、交通の質の変化、交通の不統制にあるとする。このような論理を追って交通整理の原則として、交通安全に関する賢明な教育(Education)適切な取締り(Enforcement)、優秀な技術(Engineering)の三者を考え、これらの三者の調和を保ちつつ、忍耐強く推進する不断の努力が交通警察の任務であるとしている。そして、これを「交通整理の3Eの原則」と呼んでいると述べている。   昭和30年頃になると、すでにこの3Eの原則という言葉は、余り唱えられなくなっていたが、道路交通取締法の底を流れる考え方、交通警察についての指導基準、そして第一線の交通警察の展開の仕方などには、尚この3Eの原則がその基底に色濃く存在していたように思う。   この3Eの原則について、アメリカ合衆国では、どのように扱われているかということは明らかでないが、道路交通に関して、Lawenforcementはノースウエスターン大学で、Traffic engineering はエール大学で、そしてSafety educationはニューヨーク大学でそれぞれ専攻学科として設け、研究及び教育が行われている。そして各州の警察官(概ね警部級)が選抜されて、これらの大学で短期又は長期の教育を受け、中にはマスターのタイトルを得ている者もいるという。   3Eの原則ということは、今では殆んど誰も語らなくなっているが、今一度、Law enforcement,Traffic engineering, Safety educationという三つの言葉を現在の道路交通の現実に照らし合わせて、それを交通警察にのみ係わる原則と考えないで、広く道路行政、運輸行政、交通警察行政を通ずる基本的な道路交通の原則であると広義に解するならば、殆ど死語になっているこの言葉が新しい概念として意味をもって蘇ってくるのではなかろうか。もとよりこの場合、3Eのそれぞれの内包している意味を広く深く掘り下げて理解したうえでのことであることは申すまでもない。 第2節 交通警察の組織と運用 はじめに   終戦直前、陸上の交通、運輸その他道路交通に係わる行政はすべて陸軍の管轄するところとなり、警察における交通警察行政の大部分が軍事目的の行政に変移し、各都道府県の交通警察担当の課の名称も輸送課と称するようになっていた。   終戦後、占領軍の指示及び指導により、本来の交通警察業務に戻り、組織の名称等は 別にして、それぞれの都道府県の交通事情に対応した組織を組立て、主として交通取締りと指導に当った。昭和22年に道路交通取締法が制定されたことを一つの機として、中央機構及び地方の体制を整えるに至った。 以下、中央の組織と地方組織の代表例として警視庁のそれぞれの組織を述べ、それらの組織の運用について説明することにする。   昭和23年に警察法が施行された以後、昭和29年にその警察法の改正が行われるまで約6年間は、わが国の警察組織は国家地方警察と自治体警察に大きく分離した。その上自治体警察は、東京都23区を管轄する警視庁、100万人前後の人口を有する大阪市はじめ五大都市等の大規模警察から人口5千人の町村警察までの斉一ならざる規模の組織であった。   このような極めて複雑な組織体制であったので、正確に組織及びその運用を述べようとすると徒らに繁雑な記述となるので、ここでは敢えて不正確を顧みず判り易い形で記述することにする。 第1 中央組織とその活動   昭和23年3月、国家地方警察本部の発足とともに、内部部局として警備部交通課が設けられた。正確には判らないが課長以下十名程度の要員であった。   昭和24年に内部組織の一部改正が行われ、警備部内の業務の所掌を整理し、交通警察の担当を警ら交通課とした。当時における警察行政全般の合理化を図った結果である。この警ら交通課という名称は、その後昭和29年の警察法の根本的改正により警察組織の全般的改変が行われた後もそのまま存続した。交通警察の担当部局について大改正が行われたのは、昭和33年のことである。   昭和23年より29年に至る間、中央組織としての交通課又は警ら交通課の果たした業績は、一方において道路交通の質量共に急激に変貌して行く状態に対応して、法的整備を行ったことと、地方組織における交通警察に従事する要員の指導(時には啓蒙的指導)を行ったなどが、主たるものであった。その中の業績の一つとして昭和24 年の法改正(人は右車は左という対面通行の実施)と施行令(道路交通取締法施行令)の大幅改正を挙げることができる。その当時の関係者の述べているところによると、“法については全文30ヶ条に対し、新設5ヶ条、全條改正4ヶ条、一部改正14ヶ条の多きに亘り、施行令については、全文57ヶ条に対し、新設15ヶ条、全条改正28ヶ条、一部改正12ヶ条に及んでいる。わが国交通史上の一新紀元を画するものといわれる程の、道路交通についての法令対策である”として、画期的な意義を述べている。   次に、昭和28年8月、道交法の一部を改正すると共に、施行令の全面改正を行い、旧施行令を廃止した。この施行令の制定は、戦後における道路交通取締法関係の法体系を全面的に見直して整備充実したものであり、画期的な作業というべきものである。この施行令は、その後の法改正及び昭和35年に制定されることになる新しい道路交通法の基盤的骨格となっているといっても過言ではない。 第2 地方組織   −その代表例として警視庁の組織とその運用の概観− 1 警視庁の交通警察の歴史を繰って見ると、すでに明治末期(1900〜1910)頃からその活動をはじめており、大正7年(1918)1月1日には、交通事故防止と自動車の取締りを行うため交通専務巡査の制度を設け 100名の人員を警察署に設置したと記述されている。当時、警視庁には本庁に交通課が設置されていた。   爾来、警視庁においては道路取締令及び自動車取締令の定めるところにより、積極的な取締体制を整え、また的確な事故防止対策を展開しており、交通警察の活動の基本形といってもいいものをすでに戦前において作り上げていたように思われる。   しかし、戦争中は殆んど交通警察の仕事は行われず、民需物資の輸送協力等専ら輸送業務が中心となっており、組織の名称も保安部輸送課となっていた。終戦により、輸送課の名称を廃し、交通課とした。   昭和23年、警察法による警察組織の大改革に対応して、自治体警察としての警視庁もその組織の大改正を行い、交通警察については、警備交通部の中に交通第一課及び交通第二課を設けた。第一課は指導取締り、第二課は技術担当ということとした。その組織の細部は、第一課は指導係、交通係、執行係とし、第二課は運転者係、事故係、技術係としている。   この分掌の態容を見ると、当時警視庁において、交通警察の業務及びその展開をどのように考えていたか、ということが推察され、まことに興味深い。前述した3Eの原則の考え方がその基本にあるように思われる。   この時期、交通関係要員は組織の充実とともに 176名に増員し、また、機動取締りとして、白バイを41台に拡充した。昭和25年に、警備交通部を改組して交通部を新設し、併せて要員を倍増して 324名とした。その後、交通機動警ら隊を設け、また、自動車運転免許試験場を設置した。 2 業務の展開   終戦後から約10年間における警視庁の交通警察業務の展開について述べておこう。 (1) 指導取締り   警察法等の法規定には指導取締りという用語は見られない。しかし警視庁はじめ各道府県の通達等には屡々この用語が使用されている。それだけでなく交通警察の運用については、警察部内では極く一般的にこの用語が使用されている。そこで、少々迂遠であるが、この用語についてその意味を考えて見たい。   指導取締りを指導及び取締りと考えることは一般的である。しかし警視庁において、終戦後の混沌とした道路交通の事情の中で展開した“取締り”は、まさに“指導取締り”であって、指導と取締りは別々の行為ではなく、とくにそれらが一体となったものであったと考えられる。   この時期の取締り対策についての警視庁史の記述の中に「戦後の一般市民の交通法規に対する関心は極めて薄く、交通道徳は著しく低下しており、交通事情の複雑化に伴って交通事故は増加し、また道路交通の状況は複雑異常な状態であった。このような状況に対し、単に取り締まるということだけでは、事態の改善はのぞめず、積極的な指導を行う必要を考え、昭和24年歩行者と自転車、荷車等の軽車両の違反者に対し、現場でカードを交付して、日時を定めて警察署に出頭を求めて特別指導をするという方策を定めた。しかしこの制度による出頭に応ずるものは三分の一位しかなく、折角の方策も仲々奏功しなかった」ということが述べられている。   また、交通安全に関連して、昭和23年に第一回の全国交通安全運動が実施されたとき、この安全運動の中における交通警察のあり方について、“従来の取締りが主であった考え方を改め、指導に重点をおく取締り方策を考える”ということが提唱され、各方面から画期的であると評価された」ということが記録されている。   戦後の交通取締りは如何にあるべきかを暗中模索している中で、道路交通の実情に適応した方法は、指導取締りであるという経験から生まれた考え方ができ上がったのではないか。   道路交通の中では多数の人が、あるいは歩行者として、あるいは自動車等の運転者として参加しているが、その中における法令違反の取締りについては、他の犯罪の検挙取締りとその性格を異にする取締りの考え方があってもよいのではないか、そして、それが指導取締りという独自の概念をもった言葉になっているのではないだろうか。もっとも、自動車交通が益々激しくなるに従って、指導を越えて、厳しい取締りを行わざるを得なくなり、その結果が取締りのあり方に対する一部の者からの非難が起こるようになったこともまた事実である。 (2) 交通規制   警視庁で交通規制が実施されたのは、大正8年(1919)に都内(当時は市)の主要道路について行われたのが始まりである。即ち、当時の主要交通手段であった自転車、人力車、馬車、荷車などの緩行車両の通行を制限して、自動車の通行の確保を図るために行ったときである。   終戦後、道路交通の混乱状態に対し、占領軍当局からも強い指示要望があったが、また、警視庁独自の立場からも、厳しく、かつ大幅な交通の禁止制限を行わねばならなかった。しかしながら、そのような禁止制限等についての統一した方法及び方策の形が確立しておらず、禁止制限を行う上で支障も多かったし、また市民に迷惑をかけることも少なくなかった。そこで、昭和26年1月、都内全域に亘って実態を調査し、その結果「交通の諸制限、禁止ならびに駐車場及び駐車方法に関する告示」を公布することとし、直ちに実施に入った。   この告示に従って、通行の禁止制限の種類、場所、道路の区間等を一般市民に明らかに判るようにするための方式として、道路標識及びペイント塗装による区画線により表示を行って、規制の措置を明確にした。これらの通行の規制箇所は昭和29年には、1,100ヶ所に及んだと記録している。   ここで、交通規制という用語について付言しておきたい。   交通規制という言葉は、前述した3Eの原則の中のTrafficengineering の考え方に基づいて道路交通における警察制限であると理解されている。しかし、道路交通が複雑になってくると、道路そのものの使用制限、自動車の輸送経路の規制など、警察制限の範囲を超えた措置が当然必要になってくる。そういうことになると、現在及び将来の道路交通事情を見通して、警察制限に限らない広い概念をもった「交通規制」を行うため、道路交通関係すべての行政省庁で協力して検討し、それに基いて、総合的な具体的な対策を樹立することが必要であると思う。 (3) 交通安全教育と安全運動   終戦直後の道路交通の状態は、すでに充分に述べているところであるが、その混乱状態の大きな原因の一つには、道路を通行するものが交通法令を知らず、知っていても守る意識が極めて薄いことにあった。従って交通事故防止と交通安全は先ず、市民に法の定めを教え、順法意識を高めることからはじめなければならなかった。交通取締りは、それと併行して行ってはじめてその意味があった。戦後数年間はまさに、そういう状態であった。   占領軍からは、厳しい規制と取締りの要求があったが、それには何よりも交通道徳の高揚こそ、その前提であるとの考えのもとに警視庁では、昭和20年10月「交通道徳高揚週間」と称する啓蒙を兼ねた運動週間を設け、大々的に交通安全活動を推進した。   昭和23年警察組織の大改革により自治体警察が創設されたが、交通問題の多い警視庁はじめ大阪市等6大都市の警察が一体となり、国家地方警察本部の提唱に協力して第一回の全国交通安全運動を昭和23年12月に実施した。この交通安全運動は、当時組織が分断されて兎角統一を欠いていた交通警察の展開について共通した考え方、統一した指導取締りの方策を全国の警察が斉一に実施するモメントになった。大きな成果である。警視庁では、この全国交通安全運動に際し申し合わされた「交通安全運動週間実施要領」を爾後における交通警察の業務展開の基本とすることにした。[資料編第8−1] 第3節 運転免許及び行政処分   昭和22年に行われた行政改革により内務省の所管となっていた自動車に関する行政の大部分を運輸省の所管に移すことになったが、その際、自動車の運転免許と登録について占領軍最高司令部と日本政府の間で意見の調整が行われ、登録は運輸省に移し、運転免許については内務省解体後は、警察の所管することになった。昭和22年11月に制定された道路交通取締法に、運転免許及び行政処分に関することが規定され、同年12月に制定された警察法によって、それまで都道府県知事(東京都においては警視総監)の所管になっていた運転免許及び行政処分に関する事項は、都道府県公安委員会及び市町村公安委員会の所管することになった。   既述のように、昭和23年3月、警察法が施行されて以後、昭和29年7月に新警察法が施行されるまでは、警察組織は、国家地方警察と自治体警察に二分され、都道府県公安委員会と多数の市町村公安委員会が創設されることになった。この結果、警察行政の処理は、都道府県の数だけの国家地方警察の公安委員会と1,000以上に及ぶ東京都特別区公安委員会をはじめとする市町村公安委員会で、それぞれ行われることになった。その後小規模の市町村警察が国家地方警察に統合されることになったので、市町村公安委員会はかなり縮減されている。   運転免許及び行政処分については、戦前の自動車取締令(大正8年及び昭和8年)に定められて以来、昭和35年に制定された道路交通法に至るまで、その概念及び制度の基本については引きつづいて継承されているが、その間において、理論の上でも、また、制度の内容及び業務処理の方法等についても、幾多の変遷を重ねている。それらの詳細については、資料編に詳しく述べられているほか、この論稿においても、別の章で述べることにしている。   以下主として、昭和22年12月に施行された道路交通取締令(内務省令)同23年3月及び同24年10月に改正された道路交通取締令(総理府令)ならびに、昭和28年9月に施行された道路交通取締法施行令(政令)の規定に基づいて運転免許及び行政処分の概念について述べることにする。 第1 運転免許 1 運転免許に関する事務は、都道府県公安委員会及び市町村公安委員会(東京都特別区公安委員会を含む)の所管となり、運転免許は、それぞれの公安委員会の管轄区域を主たる運転地とする者に与えることになっている。 2 試験   運転免許の試験業務は、都道府県公安委員会及び内閣総理大臣が指定するもの(都道府県公安委員会程度以上の設備能力を有するもの)が行うことになっている。後者の総理大臣の指定するものには、東京都特別区公安委員会と大阪市公安委員会が指定されている。また、上記の二つの市町村公安委員会を除く市町村公安委員会は、その試験を、その区域を包括する都道府県の都道府県公安委員会に委託することになっている。  表示すると次図のようになる。 │運転免許の申請者の主たる運転地│試験を行うもの│ │都道府県公安委員会の管轄区域│都道府県公安委員会│ │東京都特別区公安委員会の管轄区域│東京都特別区公安委員会│ │大阪市公安委員会の管轄区域│大阪市公安委員会│ │その他の市町村の公安委員会の管轄│市町村の区域を包括する│ │区域 │都道府県の公安委員会│ 3 免許証の交付   前号に図示したような区分によって、都道府県公安委員会が試験を行って合格した者については、都道府県公安委員会は、合格した試験の種類等所要の事項を、合格した者の運転地を管轄する市町村公安委員会に通知し、その公安委員会が合格者本人に運転免許証を交付する。   前述のような試験の実施、免許証の交付という免許行政の取りはこびの仕方を見ても判るように、当時、厳しい占領軍司令部の指令の下に行われた警察の民主化の名の下の地方分権の措置は、徒に行政処理の非能率をひき起こし、結果は、申請者にも不便を感じさせることになっていたのである。 4 運転免許の種類   運転免許の種類は、旧自動車取締令の制度を引き継いで、普通免許、特殊免許、小型免許の三種類であったが、自動車の種類の多様化に対応し、免許と自動車の種類の関係を明らかにするため、運転免許の分類を改めることにし、昭和24年、取締令(昭和22年12月)を改正して、その種類を10種類にした。普通免許、けん引自動車免許、特殊自動車免許、小型自動四輪車免許、自動三輪車免許、側車付自動二輪車免許、自動二輪車免許、軽自動二輪車免許、仮免許の10種類である。この自動車の運転免許のための自動車の種類の分類と運輸省令の車両規則(昭和24年7月改正)の分類とは必ずしも一致していないが、「この相違は交通規則の分類が専ら運転免許試験ということを念頭に置いているのに対し、車両規則では、道路運送という点に主眼があることに因っている」と当時、取締令の改正に当たった主務者は解説している。(資料編第11−1、2) 5 効力   運転免許の効力について、改正取締令(昭和24年10月)は「運転免許証の交付を受けたときから2年ごとに、主たる運転地を管轄する公安委員会の運転免許証についての検査を受けなければ、その運転免許証は効力を失う」と定め、「検査を受けるものは期間満了前三月以内に免許証を提出して更新を受けなければならない」としている。   運転免許の効力と運転免許証の有効期間の関係については、その後道路交通関係法令の改正の行われる都度、論議されることが多いが、この取締令の改正規定では「運転免許証の有効期間を2年とし、その期限までに更新しなかったときは免許の効力を失う」という理論構成である。それ以前の規定では、免許証の更新は5年毎となっており、この改正によりその期間は大巾に5年から2年に短縮されることになった。この免許の有効期間は、昭和28年の道路交通取締法施行令の制定の際に、更新のための検査が「3年ごと」に改められたことにより「3年」となり、2年から3年に延長されることになった。 6 免許証の交付   免許証の交付については、取締令(昭和24年改正)では、「公安委員会が同一人に対し、二以上の運転免許を与える場合において一つの免許証にその旨を記載したときは、それぞれについて運転免許証を交付したものとみなす」と定め、一冊の免許証であっても、免許証としては記載された免許の数だけの免許証ということになり、一人が二以上の免許証を保有していることになっている。即ち、一免許一免許証ということである。昭和28年の道路交通取締法施行令により、その点については一人一免許証制ということになった。 第2 行政処分 1 運転免許については、免許についての必要条件を欠くとか、自動車の運転を許可することが適当でない、または危険であるような場合は、当然、その免許に対する処分を行わなければならない。その処分には、取り消しと停止の二つの種類がある。その処分について、旧自動車取締令は、「精神病者聾者唖者又ハ盲者」(原文のまま)に該当するとき、故意又は過失により自動車によって人を殺傷し、又は物件を損壊したとき、自動車取締令はこれに基づいて発する命令に違反したときに、取り消し又は停止の処分をすると定めている。この考え方は、道路交通取締法が制定されたときも継承され、その後、昭和24年の道路交通取締令の改正の際に次のように、考え方を整理して、取り消し及び停止の処分を定めた。 (1) 概ね旧自動車取締令と同様の内容とするもの (2) 運転免許を停止する場合において、必要があると認めるときは、公安委員会は、期間を定めて試験を受け、かつ、合格しなければならないことの条件を付することができるという条件付きの停止処分を新たに設けた。この試験を受けることを拒み、若しくは怠り、又は、不合格となった場合はその者の免許は効力を失うと定めている。   この規定について解説を加えると、第1は、この規定の趣旨は、停止の処分を受けた者であって、「その処分の対象となった行為は、取り消しにまでは至らないが、処分は重くする事由がある者、又は、取り消し処分に該当するものであるが、情状に酌量の余地のある者、さらに交通事故を起こしたものについて、運転者としての資格や能力を再確認する必要のある者」について、試験を行って、合格した者は、通知された停止の処分の通りであるが、試験を拒否し、又は怠って受けなかった場合、又は不合格となった場合は、当然に免許の効力が失われることになる。   新しく創設された制度であり、免許の行政処分としては、取り消しと停止の中間に位置づけられるものである。 (3) 前段で述べた条件付停止処分とともに条件付処分として「解除条件付停止処分」というものが新しく創設された。   公安委員会の運転免許の停止の処分を行う場合に、例えば既往2年以内に行政処分を受けたことがないとか、事案の内容及び本人の事案に対する対応などで情状を十分に考慮することのできるような事情のある者について、自動車の運転について必要な事項についての講習を受けることを条件として付し、その講習を終了したときには、停止処分は、遡って解除されるという制度である。   前述の二つの条件付停止処分は、何れも昭和24年の取締令の改正により設けられた制度である。行政処分の運用を巾広く行って、その効果をより適切に発揮させるように考えられたものであるが、変貌の甚だしい道路交通に対する施策という観点から見ると、そのような状態に対して如何なる措置をとるべきかを常時考えなければいけない過程の中の試行錯誤の一つであるというべきであろう。   昭和28年8月、取締令を全面的に再検討して、新たに、道路交通取締法施行令(政令)を公布施行した。運転免許の制度全般についても見直しが行われており、その中で行政処分については、道路交通取締法の改正に基づいて、前述の条件付停止処分を廃して、新たに受講命令という制度を設けた。その制度は、道路交通取締法に定める「必要な処分」として「免許を受けた者につき、5日を越えない範囲内で、講習を受けることを命ずる」という受講命令という処分である。この命令は、行政処分としては、取り消し、停止と並ぶ処分の一つである。 2 運転免許の行政処分は、都道府県公安委員会及び市町村公安委員会の多数の行政主体によって行われるが、その処分の効力については運転免許の場合と同様「全都道府県に及ぶ」と定められている。ところで、多数の公安委員会によって処分が行われることから、処分の量定に差異を生ずるおそれがあるので、「運転免許等の取消、停止又は必要な処分を行う場合における基準」(昭和28年11月総理府令)を定め、処分の斉一化を図った。その基準はかなり詳細に定められているが、なお、その後、事故の増加、社会的世論、衆参両院の地方行政委員会での論議等を参考として、屡次その改正を行って、公正と斉一を期するように努めている。 まとめ   以上、この期(昭20〜29)における交通警察の概要について述べたが、端的に言えば、この時代は、道路交通の諸条件がすべて不備であり、たとえ改善のための方策が樹立されてもその効果のあらわれるのはかなり後のことであり、その当時の対策の多くは、当面の事態に対処するための応急的なものとならざるを得なかった。   そのことは、交通警察の展開についても同様である。とりわけ、警察の場合は一方では厳しい占領軍の指示が多く、その指示指令を実施するだけでも容易ではなかった。その上に主管省であった内務省の廃止及び警察制度の大改革で、警察組織そのものが極言すれば千数百の単位に分裂してしまっており、全国的に斉一な措置をとることは極めてむずかしかった。   他方、道路交通の客観的情勢は、戦後復興、国土再開発、さらに朝鮮事変に伴う特別需要の発生などの諸条件が重なって、とりわけ自動車の量が急激に増加して、混沌たる有様であった。   この様な中での交通警察の展開は、暗中を模索してその前途を考え、試行錯誤を重ねて方策を練って行くという状態であった。   それらの政策が積極的に推進され総合的な対策が出現するのは、昭和30年以降のことである。   交通警察が、その考え方を確立し、その上に立って組織を整え活動を展開するのもまた、それから後のことである。   筆者は、交通警察の発展の経過を逐って今日を考えたとき、極く小さな行政の一分野であるけれども、なおかつ“ローマは一日にして成らず”ということを痛切に感じている。