第3章 道路交通に係る対策 はじめに  モータリゼーションの進んでいる現在の道路交通の実情に比べると、この時期(昭和20年〜30年)とくにその前半の頃の実態は、原始的状態といってもよい程であった。そのことは、すでに前二章で述べたところでも明らかである。  このような原始的というか、混沌状態というか、そのような状態に対して行われた対策は、時代の経過という観点からは占領中と占領終結後とに分けることができるし、また、行政という観点からは、道路交通に係る立法と、その立法に基づく対策という形で考察することができる。  そこでこの章においては、立法措置として新憲法制定に伴って、“道路交通行政の所掌の分化”という統治思想の変革に応ずる立法を述べ、次いで、道路交通の変革に対応して新たな政策を実現するための新規の立法及び法改正について述べることにする。次いでそのような法令に基づいて具体的に実施され、また展開された行政的対策について述べることにする。 第1節 新憲法制定に伴う立法 第1 行政の分割   占領政策は、日本国の民主化を大きな基本政策としており、その一環として、国家行政の民主化のための大幅な行政改革を日本政府に対し要求した。   その要求に基づいて、既存法令の一部改廃を行って、例えば各種統制を解除する等の措置を執った。道路交通行政についても、占領軍最高指令部の指示、覚書等によって、事実上既存法令を越える措置が行われている。都道府県によって異なるところもあるが「歩行者の通行を右側にする」という指示などはその一例である。 2 昭和21年11月新しい日本国憲法が制定され、昭和22年5月施行され、この憲法の趣旨を実現するための立法及び行政改革が行われた。   道路交通についても根本的な改革が行われた。   道路交通に係る行政は従来、内務省及び鉄道省の所管となっていたが、道路運送事業を除いては、殆ど内務省の所管であった。当時の内務省はその所管に、道路及び警察行政をもっており、また、都道府県の地方行政の監督もその所掌であった。   敗戦前までは、道路交通の基本法令は、内務省所管の道路取締令及び自動車取締令と鉄道省所管の自動車事業法であった。 3 前述の行政所掌及びその基本法令が全面的に改革され、道路交通行政は、道路に係るものは建設省(昭和23年設置)、道路運送及び車両に係るものは運輸省(昭和24年設置)、道路交通の取り締りに係るものは警察(昭和22年以後)の三省庁に分割整理されることとなった。   この道路交通行政の分割ということは、その当時の占領政策と大きくかかわるものであった。占領軍の日本政府の行政機構の改革の重点の一つに内務省の解体ということが取り上げられた。当時の内務省は内政の中心省であり、その後の警察庁、自治省(地方行政)建設省及び国土庁(河川、道路、都市計画等)等の所掌行政のほか、都道府県知事の人事権をもつ、強力な“権力”をもつ省であった。   その内務省が昭和22年12月に解体されることになったが、その解体の中味として、内務省の権力構造の中核をなすと占領軍が認識していた警察組織の根本的改革ということが大きな問題であった。   占領軍最高指令部から提示されたものは、中央集権的国家警察という概念を根本的に革新し、新しい民主的警察の理念を基調とする警察組織を創設するというものであった。   この理念の下に、昭和23年警察法が制定された。   この行政所掌の分割と相応じて、新たに法律が制定された。   それまでの基本法令である道路取締令及び自動車取締令の内容となっているものの中、新たな警察理念に馴染むものは道路交通取締法に、そして運輸行政に取込むものは道路運送法に定めることとなり、それぞれ新たな法律として制定された。   以下、それぞれの法律の内容について概要のみを述べる。とくに道路交通取締法について、その立法に至る経緯などについては、後述することにする。       第2 道路交通取締法 1 道路交通取締法(以下本節中道交法という)は昭和22年8月国会に上程されたが、その時の提案理由について次のようなことが担当大臣及び担当官から説明されている。 (1) 間もなく、道路交通に係る自動車取締令及び道路取締令が失効し、“来年から道路交通の取締りについては法的強制がなくなる”ことになるのでこれに代わるものとしてこの法案を提出した。 (2) この法案は、従来の法令で区々に分かれていたもの、即ち道路取締令、自動車取締令、ならびに都道府県の令に定めているものの内容についてそれぞれの関係を再検討して綜合的に実情に適するようにした。 (3) 将来の国際的交通に対応するため、とくにアメリカの統一車両法典を研究し、わが国の実情に適するものを取り入れた。 (4) 自動車取締令の規定のうち、自動車等の交通方法に関するもの、運転免許に関するものは取り入れ、構造装置、車両検査、整備、登録等に係わるものは道路運送法の内容とするのが適当と考え、この法案からは外した。 (5) 自動車の通行方法等及び運転免許の細部に亘る部分等は、すべて命令の規定に委ねることにしている。これら細部に亘る点は、道路の改良、交通機関の発達、人口の状況、産業の進展等に応じて、時宜を得て、行政命令で定めるのが正当と考えた。   2 立法の趣旨は以上の通りであるが、この案が立案され、確定されるに至るまでは、かなり微妙な問題があり、これらについては立法の経緯ということで章を改めて述べることにする。 この法案そのものについて見ると、積極的な道路交通政策をその内容として定めるというよりは、その立法趣旨に述べられているように、現行法令の失効に備えて法整備を行うということが主であるように認められる。   この道交法の制定によって、従来、警察機関で所掌していた自動車に係る構造装置とか車両の登録、検査などの業務と権限が運輸省所管に移されることになった。   他方、警察で所掌する範囲が大幅に縮減されたが、同時に、道路交通についての秩序の維持、安全の保持、交通事故の防止など、最も重要なことが明らかに定められ、警察としてはとかく第二義的に考えられていた交通取締まりということが重要な任務であることを認識させることになった。なお、このことについては、占領期間中の占領軍の積極的な協力を見逃すことはできない。 第3 道路運送法   戦前は、道路交通行政に係るものの中で運輸交通事業に関するものは、鉄道省(戦後は運輸省)の所管する自動車交通事業法が定められており、主として、旅客自動車運送及び貨物自動車運送事業について規定されていた。   戦後、前述したような占領軍の意向、新憲法の制定、内務省の解体などの条件が重なり、当初はこの自動車交通事業法の大幅改正で対応しようとしていたが、更に根本的に検討して立法する必要に迫られ、新たに道路運送法を昭和22年9月に公布した。同じ時期、運輸行政の中から国有鉄道の経営に関するものを分離する方策が論ぜられ、昭和23年12月、日本国有鉄道法が公布された。   新しく制定された道路運送法は、従来の自動車交通事業についての考え方を大幅に改めると共に、将来に向かっての運送事業のあり方を明らかにしたものである。しかし、道路運送法の制定について特記すべきは、自動車取締令に定められ、内務省所管(具体的には警察行政の一環)であった自動車についての構造装置、整備、登録、検査等をすべて道路運送法に取り込んだことである。   道路運送法の制定に伴い、従来、どちらかといえば警察行政の一環として考えられていた道路交通に係る行政が、警察、運輸省ならびに建設省という三つの行政主体に完全に分割されることになった。 道路運送法の制定について、大和運輸会社の五十年史の筆者は、“自動車業界にとって新紀元を画するものである。この法律は、全く新しい立場から全国共通の統一規定として車馬、自動車、軌道車の相互の関連を明確にするとともに、自動車の構造、装置、車両検査等の規定を総括している”としてその制定を高く評価している。   この道路運送法は、その成立の経緯からして実態を厳しく把握し、将来の方向をしっかりと見据えてその内容を規定したというよりは、強く要望されている行政の民主化について規定し、突如としてその所掌となった自動車の構造、車検等の行政をとりあえず取り入れ、さらに、占領軍当局から強く示唆のあった米国流の考え方を取り入れる等、法として熟していないという感じが強いものであった。   運輸省では、その後、全面的に改正することを考え、昭和26年6月、新たに道路運送法を制定するとともに、道路運送車両法を制定した。 第4 道路法   新しい日本国憲法の制定に伴って、多くの法令が廃止され、新たな立法が行われた中で、この道路法は大正8年(1919)に制定されて以来、戦後もなお存続して、昭和27年に新道路法が制定されるまでその命脉を保った。   旧道路法についても、昭和23年以来、改正を検討して来たが、道路に関しては道路そのものについての思想の転換を考える必要もあり、また、有料道路、高速道路等を設けるためには道路体系そのものについての考え方とそれを裏付ける財政措置を検討する必要があった。このため、旧道路法をそのまま存続させ、とりあえず当面必要な措置として、付属法令を以て補うことにした。 第5 総括所見   以上主として、道交法及び道路運送法の制定について述べたが、その立法の直接的理由は、道路交通についての基本法令である道路取締令と自動車取締令が失効することにより、直ちにそれに対応する立法を必要とされたところにある。しかし、その立法の背景には、占領軍最高司令部の強い指示、要望があり、また、内務省という道路交通行政の主務官庁と言うべき行政庁が解体されると言うような事情があった。そのような事情がまた新規立法を促進したとも言えるであろう。   このような立法の経緯を見ると、この二つの法律を立案するに際して、政府が主体的に交通事情及びそれを取り巻く諸条件を厳しく分析し、その上に立って将来を展望して如何なる政策をこの法律の中に盛り込むかというようなことは、殆ど考える余地はなかったのではないかと推察する。   したがって、確かに法律は制定されたけれども、現実の行政は占領軍当局の指示、指令によることが多かった。このことは、既述したところであるが、交通取締りについては、警視庁はじめ都道府県警察が、占領軍の出先機関の指示によって行われることが多かった。また、道路についても占領軍最高司令部の覚書による維持修繕五ヶ年計画に基づいて事業を実施したのである。         第2節 改善を図るための 立法措置 はじめに   戦後の道路交通の基本的な法令として道路交通取締法(以下道交法という)及び道路運送法の二法を制定したが、現実の道路交通の実体は益々混沌複雑となり、現状に対応するだけでなく、将来を見越して、対応措置を考えることが極めて必要であることが痛感されるようになった。占領中は占領軍当局の各様の指示指導もあり、道路交通の改善も促進されたが、日本政府としては、主体的な観点に立って、対策を考える必要に迫られた。   本来、道路交通は、日本という特殊な地勢条件の下に、日本人という感覚に立ってその施策を樹てることの必要の極めて大きいものである。端的に言えば終戦直後のような極端な混乱状況の中では、その道路条件を改善し、交通秩序を維持するためには強い権力と実行力を必要とし、そのため占領軍の指示、指導、そして協力は極めて有効であったが、それらは飽くまでも、応急対策の域を出るものではない。   占領下の体験と、その間に道交法及び道路運送法の運用の経験を踏まえて、ある程度の将来を見越しての道路交通のあり方についての改善策をもり込んだ立法が漸次行われた。   道交法については、法自体が多くの部分を命令に委任しているので、それらの制定ということで、多面的に規定を整備した。道路運送法については、道路交通及び道路運送車両(自動車、原動機付自動車及び軽車両)の実態に対応し、道路運送法を廃止して、新たに道路運送法及び道路運送車両法を制定した。   道路法については、戦前より存続した旧法を廃止し新たに基本法としての道路法を制定したほか、有料道路の建設整備を促進するための道路整備特別措置法を制定した。なお建設省では、道路の整備充実を計画的に実施するため、財源措置と併せて、第一次道路整備五ヶ年計画を策定した。   このように道路については、道路交通の土台を確立するために、単に法制的な対策だけでなく多角的な対策を検討した。   以下、前述したような改善対策として立案、立法された諸法令について述べることにする。 第1 道路交通取締法及びその付属  法令 1 昭和23年、道路交通取締法を制定した際、国会における提案理由説明の中で“この法律案は、道路交通の基本的な諸点を規定して、道路の交通区分とか交通の方法、その他運転免許等の細部にわたる部分は何れも命令の規定に委ねております”と述べ、“これらの細部に亘る点は、道路の改良、及び交通機関の発達、人口及び産業の状況に応じて、その時及びその社会の状況に応じて検討せられるべき技術的な問題なので、これらは、交通取締りを所管する行政庁の命令に委任するのが適当であると考えます”と述べている。ところが、交通の実情から考えて、“技術的”とのみは言えない程、重要なことも命令に委任している。案ずるに、この法を立案したときは、一方において、占領軍当局と種々折衝して承認を得る必要があり、他方において、総合的に道路交通の実態を的確に把握することがむづかしかったということが命令への委任の多かったことの大きな理由であったであろう。 2 道路交通取締法施行と同時に、内務省令(まだ内務省は存続しており、したがって道路交通取締法は内務省の所管であった)として、道路交通取締法の委任に基づく道路交通取締令が施行された。   警察は、道路交通取締法及び道路交通取締令を運用して道路交通に対応したが、一般市民においては、法令に対する知識も極めて乏しく、さらにまた法を守るということについても無関心であった。第一線における法令の運用に当った警察としては「道路交通にはルールがある。これを知り、これを守ることは社会的義務である」という、いわば躾的な運動が必要だった。その必要性の中から、交通安全運動という考え方とそれを維持する組織も誕生した。 3 道路交通取締法の一部改正   そのような中で、法律では対処し切れない道路交通上の問題が続出した。即ち、終戦から年を経るごとに、自動車の数量が増加し、またその走行も頻繁となり、さらにタクシーの運行も企業の営利追求と相応じて暴走的にさえなり、交通の現場に混乱を生ずるに至った。このような状態に対し、占領軍当局からは、かねての強い要望の通り歩行者の右側通行を含む歩行者との対面交通を要望して来た。   このことについては、道路交通取締法制定の際は一応従来通りということで処理したが、再び強い要請が占領軍総司令部より出て、道路交通取締法の改正を考えざるを得なくなった。他方、現場における実務的な観点からも、例えば、交差点の通行方法の規定の不備のため、東京都における主要交差点においては、通行不能に陥るような混乱を起こすような事態を生じ、これらのことを検討して、昭和24年、道路交通取締法の可成り大幅な改正を行った。(資料編第5−17)その重要な点をあげると (1) 対面交通の実施、自動車等車馬は左側、歩行者は右側とする交通方法を規定した。この対面交通ということについては、章を改めて、その経緯などを明らかにしたい。 (2) 交差点の通行方法を大巾に改正し、交差点通行の混乱を防止する。 (3) 交差点における自動車等の優先順位を明定するとともに、横断歩道における歩行者の優先を明らかにした。 (4) 自動車の構造、装置、検査等の行政は道路運送法に定められているが、道路交通の実態から見て、危険の防止のための必要から街頭において、警察官が車両検査をし、かつ警告書を交付することができるようにした。 4 都道府県公安委員会規則の制定   昭和22年12月警察法の制定により、警察を管理する組織として国家公安委員会と都道府県公安委員会が創設された。   その後、法令の定めるところにより、制定当初に道路交通取締法に定められていた警視総監及び知事の所掌及び権限を都道府県公安委員会に移しかえた。   都道府県公安委員会は、従来道府県及び警視庁の令で定められていた事項を含んで、新たに道交法の委任(具体的には道路交通取締令による委任)により認められた事項について都道府県公安委員会規則を定めた。この規則には手続的な規定だけでなく、実質的な規定も地方の特色に応じて定められた。 5 道路交通取締法施行令の制定   前述のような法体系の下で道路交通に係る取締り行政を展開し、その間に、急激に変貌して行く道路交通情勢にどのように対応していくかを検討しつづけ、さらに漸く深刻の度を深めて来た交通事故に対し如何なる対策を樹てるべきかを検討した。その結果として、昭和28年8月政令を以って道路交通取締法施行令を定めた。   この施行令は、ある意味では、はじめて日本政府が主体的な立場で日本の地勢を考え、日本の風俗、伝統、さらに長い交通の歴史という背景となっている精神的な要素をも考慮に入れて出来上った法令であるということができる。   この施行令の実施によって、全国の警察官署も、その執行体制を整え、漸く近代的な交通警察の実現に向うことになった。   また、この施行令の実施を期に、一般市民も道路交通のルールに馴染みはじめたが、同時に、警察の取締りの強化に伴って、自動車の運転者等の中に、その取締りを逃れようとする空気がだんだん強くなって来た。警察として、取締りの意味について、単なる法の執行というだけでなく、市民も納得できるものというようなことについて道路交通の中の対策として真剣に検討をした。 6 道路標識令の制定   道路交通について、道路上に設けられる標識については、戦前の道路取締令にも定められていた。戦前にも東京都等の大都市及び幹線道路にはある程度の標識が設けられていた。ところが、戦争の激化に伴い、兵器の資源として金属製の標識が大部分撤去され、それに代って、木製等の標識が作られていた。これらも戦災によって大部分が損壊し、終戦後は、僅かに残存するものを除いて路上から消失してしまった。   占領軍の進駐以来、占領軍が日本政府及び地方関係当局に最も強く要求したものの一つに、道路標識の設置があった。占領軍の自動車の運行にとって必要の大なるものであったからである。その道路標識に対する要求は占領軍独自の内容、デザインを指示したものが少なくなかった。   このような経過を、政府は、道交法の施行後、道路法との関連も併せ検討して、建設省と総理府(法令の発布については警察庁の場合は組織上所属する総理府の名の下に行われる。このことは、現在に至るまで同じ)の共同の省及び府令として道路標識令が昭和25年3月に公布施行された。   道路標識の種類には、案内、警戒、禁止、指導及び指示の各標識があり、それぞれの所掌によって道路管理者又は都道府県公安委員会が設置した。   占領当時の占領軍当局の強い要望もあり、また、一般外国人の便宜のためにも英文を附加した。例えば、駐車禁止の標識にはNO PARKING という英文が付されていた。   この標識令はその後、一部の合理化を図ったが、昭和35年に新たに新令を制定するまで継続した。[資料編第10−7]   道交法及び取締令がそれぞれ昭和22年及び昭和28年に制定以来、昭和33年3月までに道交法は11回、施行令は7回それぞれ一部改正を行っている。何れも、道路交通の進展、変貌に対処するためである。 7 交通事件即決裁判手続法の制定   警視庁史の中の交通警察の記述の中に概ね次のような記述がある。   「道交法及び施行令の施行を機として、警視庁では、警察官の増員を図る等、取締り体制を強化して、増加傾向の著しい交通事故防止のための取締りを行ったが、その結果、交通法違反の事犯が増加し、事件処理の上で色々な困難な事情が出てきた。事件の送致、立件、公判という手続きのわずらわしさのため処理が遅延し、違反者も度々出頭しなくてはならず、そのようなこともあって、出頭を拒否するものもあらわれ、このままに放置しておくわけに行かなくなった。そこで、警視庁限りで東京区検察庁と協議し、違反事件の処理の迅速化の方策を考え、実施した。」   他の道府県においても事情は変わらぬところであり、政府としても迅速かつ的確な処理を行うため、警察・検察及び裁判所は交通事件の即決裁判手続きを検討し、昭和29年5月「交通事件即決裁判手続法」が制定された。これにより、従来の停滞していた事件処理が迅速化し、また違反者にとってもこのために余分の時間を使うことがなくなるなどその成果は大きかった。また、この制度をより的確なものとすることを考え、道路交通取締法の一部改正を行って手続及び処理を確保するため「免許証の保管」を定めた。 第2 道路法の制定 1 道路法については、新憲法制定後も、戦前に定められた道路法(以下旧法という)が、昭和27年に新たに道路法が制定されるまで、そのまま存続した。その経緯について述べておこう。   建設省では、新憲法の制定に伴って旧法の改正について検討し、昭和25年に改正案を策定した。その検討の間において、旧法は存置し、別途、道路の占用、車両の通行に対する道路保全等、旧道路取締令の中に定められていた内容等を盛り込んだ道路保全法のようなものを制定することを考え、また、専用自動車道、林道、農道、都市計画法の道路等を包摂する道路網の形成を考えた構想も検討されたようである。   ところが、同じ時期、国と地方公共団体の間における行政事務の再配分について審議するため内閣に地方行政調査委員会が設けられ、道路についても国と地方公共団体の所管及び権限等について基本的な検討が行われることになり、その結論の出るまで旧法について改正を行うことが保留されることになった。 2 地方行政調査委員会の結論も出たので、これを基本として如何なる内容を盛り込んだ法律を作るべきかを広範囲な資料を得て検討し、昭和27年成案を得て議員提出法案として国会に提案した。 3 その内容について旧法と対比しつつ要点のみを摘記することにする。 (1) 道路の意義及び種類について旧法は、道路はすべて国の営造物(公の目的のために使われる人的物的施設等をいう)であり、それを国道、都道府県道、市道及び町村道という種類に分けていた。新しい道路法は、道路の種別を一級国道、二級国道、都道府県道及び市町村道に分け、これらの中、一級及び二級国道は国の営造物とし、都道府県道及び市町村道は、それぞれの地方公共団体の営造物とすることにし、国と地方公共団体の行政区分を明確にした。 (2) 道路の意義の改変に応じ、道路の管理主体も改められた。旧法においては、知事、市長又は町村長が国の機関としてそれぞれ国道、都道府県道又は町村道を管理していたが、新法では一級及び二級国道は都道府県知事が、国の機関委任事務として管理することとし、その他の道路についてはそれぞれ都道府県及び市町村が団体として管理することになった。 (3) 道路の路線については、旧法においては、国道の路線は東京を中心としてそこから府県庁所在地、師団司令部所在地、海軍の鎮守府所在地、神宮所在地等法律で定める重要地点に到着する個々の放射線道路であり、中央集権的、軍事的色彩の強いものであった。 これに対し、新法は、政治経済文化等における国道の重要性を勘案した上で、有機的な幹線道路網の確立という考え方を強く打ち出している。この結果として、一級国道は国土を縦貫し、横断し、循環するものであること、また、都道府県庁所在地その他政治経済文化上特に重要な都市を連絡するものであるということなどを明らかにし、国土全体を対象とした道路網を考えてその中における個々の道路の路線を定めるという考え方を打ち出している。ある識者は旧法から新法へのこの考え方の変わり方を「個から全体へ」という思想から「全体から個へ」という思想への転換であると言っている。 (4) 新法は、以上のように旧法に対して基本的な変革を行っているが、その他にも道路の使用について旧法では殆ど規定されていなかった占用物件等の限定ということ、また、占用許可基準、占用工事と他の工事との調整等の規定を定めている。さらに道路を通行する車両の制限等を定め、道路管理者が通行車両への必要な措置をとることができることを定めた。これらは、旧道路取締令の廃止に伴う法的整備であるといえよう。 (5) 新道路法そのものではないが、この時期に新法の制定と併行して有料道路の構想が大きく考えられたことは、道路の歴史の中において最も重要なものというべきであろう。   わが国においては、在来、道路は国が国民の便宜のために無料で提供するものであるということが基本理念であった。旧法において道路が国の営造物であると定めていたのもその故である。もっともその旧法にも、極く僅かな例外的なものとして、橋銭、渡銭を徴収する有料橋や渡船施設を設置することが定められていた。   旧法が全面的に改正されたとき、同時に道路整備特別措置法が昭和27年に制定され、有料道路を創設する途が開かれた。このような有料道路の制度が考えられるに至った理由は、申すまでもなく戦後における経済、社会の状態の急激な変化に対応して道路利用の需要が急速に高まり、早急に効率的な道路の創設の必要が生じたことによるものである。   有料道路の創設は、一方において多額の建設資金を必要とする。この資金源の拡充強化が必要となる。有料道路建設の需要が増大すればする程資金調達と事業主体の拡充強化を図らなければならない。   このため、その後、道路整備特別措置法を大幅に改正し、新たに新法を制定して対処することにした。昭和31年3月14日、道路整備特別措置法が制定され、また、有料道路の統一的な建設管理主体として日本道路公団が昭和31年4月16日に設立された。 3 道路法の制定とその意味について、その概要は以上の通りであるが、道路法の制定当時、その主務者として立法作業に当たった人の述懐の一部を述べておく。  「この法律の特徴は、議員立法の形をとっていることである。   昭和25年から27年頃の政情、行政省庁のあり様などを考えると、道路の維持管理等についての権限問題、資金調達についての財政問題などが各省庁間で複雑にからみ合って、容易に法案を決定するという取りはこびには至らなかった。それにもかかわらず道路の建設促進は急務であり、できるだけ早く法案を提出する必要があった。このような事情の下で、ある意味では政治的解決という意味合いを含んで、議員提案ということで国会に法案が提出されたということである。   新しい道路法は成立した。しかしその法律が適用される現実の道路の中には、名ばかりの貧相な道路も沢山ある。それらを含んで道路の全体像を近代化しなければならないというのが、新道路法の使命である。法律は無事成立したけれど、その理想実現ということになると“任たるや重く道なお遠し”という感じだった。   そして今、大きく発展した道路網の実体を見ると、よくぞここまでできたものだという思いである。」   第3 道路運送法と道路運送車両法の制定 1 昭和23年に道路運送法を制定し、その中に、廃止になった自動車取締令に定められていた車両の検査、自動車の登録及び整備等に係る総てのものを取り入れて規定した。ところが数年の間に、道路交通及び自動車の運送事業等の実態が大幅な変貌を遂げ、政府としてはそのような客観条件の変化に対応するため、道路運送法の全面的改正を行い、新たに道路運送法と道路運送車両法の二つの法律を制定することにした。 2 新しい道路運送法は、主として道路運送事業をめぐる情勢の変化に対応して事業の形態の近代化、事業経営の合理化を促進する観点から旧法の規定の内容を大幅に改正したものである。   これに対し、道路運送車両法は、旧法の中に規定されていた車両の検査、整備、自動車の登録等に関し、詳細な内容を規定し、独立した法として制定されたものである。   もともと、自動車の検査、登録等の事務はすべて戦前に制定された自動車取締令に定められていたものであるが、戦後、道路交通取締法制定のときに、それらの事務はすべて運輸行政の所管に移管されることになった。そこで、運輸省では早急の間に、当時立案中であった道路運送法案にそれらを組み入れることにした。内容は決して杜撰とはいえないが、十分な検討を行って規定内容を定めるだけの時間的余裕はなかった。   その後、道路交通の情勢は急速に複雑化し、他方、自動車の数量が急増し、諸条件が相応じて、車両の整備の充実、構造装置の点検などの重要性が大きくなった。   このような情勢の変化に対応して、車両の検査、整備、自動車の登録等についての詳細な規定を内容とする法律の必要が生じ、自動車運送車両法が制定されることになった。