第1章 道路交通の実態 はじめに 1 敗戦の年から約10年間の道路交通の実態は、あるべき正常な道路交通の状態から考えると、極めて異常な状態にあったといえよう。そして、その異常の状態は、年を逐って改善されたが、同時に形を変えて新しい異常状態が芽ぶきはじめた。   敗戦直後の道路交通の実態をその当時の資料によって構成して見ると、次のような状態になるであろう。   空襲によって、日本本土の広汎な部分が破壊され、とくに都市を形成していたところは、東京をはじめとして、都市規模の大小の別なく壊滅的な破壊を受け、都市内の道路そのものが、道路としての形態を失ってしまったものが少なくなかった。   さらに、道路として存在しているものも、その損壊が甚だしく、通行に大きな支障を与えた。それは、都市内の道路に限らず、主要国道においても同様である。橋梁の損壊も少なくなかった。   そのような道路を通行するものは、多種多様の車両であった。自動車は、数量は必ずしも多いとは言えないものの、故障車や装備不良のものが多く、交通障害と交通事故の原因になった。現実に通行している自動車は、占領軍が使用しているものが多く、地域によっては、自動車の通行の大部分を占領軍用車両が占めた。たとえば、昭和21年12月中旬の警視庁の調べによると、品川駅前の1日の交通量はその5分の2は米駐留軍の車輌であり、時間帯によっては、軍車輌の交通量が国内の交通量を上廻った。しかも、これらの自動車は、優先的に走行するため、そのことによる混乱も生じた。(資料編第14−23)   自動車のほかに、荷車、荷馬車、自転車などが多量に通行していた。戦災復興のため、物資の移動、運搬は多量かつ頻繁であり、人の移動はとくに商店街においては、自転車の利用が多かった。 住家を焼失し商店を失った人々は、その焼跡にバラック住宅を作り、バラックの商店を作った。彼らは、本来、道路であった所に物を置き、屋台店を置き、全く顧みるところがなかった。このような諸条件の下で実現していたのが、当時の道路交通の実態であった。   第1節 道 路 1 昭和31年アメリカよりワトキンス氏を長とする調査団を招いて、名神高速道路の経済的、技術的妥当性の調査が依頼されたが、その調査団が提出した詳細なレポートの中の冒頭の一項に「日本の道路は信じ難い程に悪い。工業国にしてこれほど完全にその道路網を無視してきた国は、日本をおいて他にはない」と述べている。敗戦後すでに10年を経過していたが、日本の道路の骨格はまだ殆ど変わっていなかった。(資料編第3−13 参照)         昭和35年、ローマオリンピックの終了したあと、次の大会開催地である東京都を視察したイタリアの新聞記者団は、「東京の道路交通事情は、異常といえる程に狂っている。こんな状況で4年後に、オリンピック大会が開催できるのであろうか」と、本国に打電している。   ワトキンス氏やイタリーの新聞記者に指摘されるまでもなく、確かに当時の日本の道路の現状は、自動車を交通用具の主体としたモータリゼーションの観点から見れば、適格性を欠く非近代的なものであったといえよう。   戦前、昭和の初期から敗戦時に至る間に、わが国では近い将来、自動車中心の交通に発展することを考え、主要道路の改良策が検討された。また、産業用、軍用両面に機能する道路として、ドイツのアウトバーンなどを頭においた自動車専用道路の計画なども考えられた。しかし、何れも戦争の長期化、深刻化で、財政的観点から見て、その実現は不可能に近かった。   戦前から戦時中にかけて、確かに自動車の通行に耐え得る道路に改良し、さらに舗装を実施する計画の下に、ある程度の措置が実施されたが、昭和20年末、道路の状況について、下記のような統計が発表されている。この数字が示すものが、敗戦後における日本の道路の骨格とその現状である。   道路の種別 延長距離 改良率 舗 装   国   道  9,446km  23%  17%  指定府県道 24,469km  31%   9%   一般府県道 90,547km 9%   2%   市町村道  774,450km −   1%   ここに改良率及び舗装は、当時(21年現在)の道路構造令の基準による実施率である。 (1) 前掲の統計だけでは、その当時の道路の現実の姿を想像することはできないかも知れない。そこで、昭和32年の道路関係資料を参考にしながら、敗戦10年後の道路の現実を述べてみたい。   道路の規模の点から見て、自動車が通行可能な巾員 5.5メートル以上のものは、総延長の16%に過ぎず、国道、都道府県道の中、10%程度は自動車が通行できないか、仮にできたとしても極めて危険な状態であった。市町村道については80%は通行不可能であった。 昭和28年頃、四国地方を視察した人の話によると「県の中心都市から出発して、次の都市に至る間、山を越え、海岸沿いを走るのであるが、その通過する国道はやっと自動車が一台通る巾員があるだけで、対向する自動車がきた場合、何れが先に避譲するかが最も大事な運転の心構えであった。一歩誤れば谷底に転落するか又は大海に飛び込むかという危険を孕んでいた」ということである。  舗装率は極めて低かった。東京の都心であっても、舗装されていたのは道路の中央部だけであり、雨の降った日は、長靴の用意が必要だった。ほとんどの道路がぬかるんでいたからである。  歩車道の区分はほとんどなく、現実に歩道の設けられている道路は、大都市の都心部のほんの一部分に過ぎなかった。前述したワトキンス調査団が“最悪の道路”と指摘した理由の一つである。  日本の都市構造の特色は、幅員が狭く、且つ、道路の交差する箇所が無数に多いことである。欧米の場合は、多くの都市は一定の都市計画の下に都市が形成されているが、日本の場合は殆ど昔の都市及び近郊の田園地域の道路をそのまま、引きついで新しい道路構造に移行したのであるから、結果的には徒らに狭い道路が縦横にしかも無秩序に交差することになってしまった。狭小の交差点が多いということは、道路条件としては、交通機能を大幅に低下させ、また危険度を高くすることになるのである。  橋梁は、道路の機能を確保する重要な施設である。国道及び都道府県道に架せられた橋梁数は、昭和27〜28年頃で約12万5千箇所であるが、その中で43%が木橋であり、その8%は自動車の通行が不能であった。  以上は極めて大雑把に当時の道路の実態の一部を述べたのであるが、現実はさらに厳しいものであった。 (2) 占領軍が日本に進駐して、最も驚き、かつ、差し当って大きな不便を感じたのは、道路網の劣っていること、道路の損壊が甚だしいこと、戦災により道路上に多量の障碍物が放置されていること等であった。   占領軍は進駐直後、昭和20年9月政府に対し厚木、横浜間の道路をはじめ主要道路(主として占領軍が使用するもの)の清掃を要求した。ついで、GHQ指令として幹線道路の地名標識の設置を要求した。また、各地の現地部隊からは道路の修繕等が要求された。現地部隊の要求はこれのみに限らず、自動車の整備、運行等、可成り微細なことに至るまで、強く要望(指示)してきた。   当時、軍港であった佐世保の状況について、占領軍の要望・指示に伴う措置が日本側において見事に実施され、道路標識も設置されたが、道路によってはアメリカ軍のニックネームと思われる名称がつけられており、また高官の住居に至る案内標識と見られるものも散見されたという報告が内務省に行われている。  昭和23年11月22日GHQ司令官より日本政府に対して道路及び道路網の維持修繕5ヶ年計画を速やかに樹立し総司令部に提出すべしという覚書が発せられた。(資料編第3−4参照)   そして、この計画の実施に必要な資材機械については連合国軍の援助を受けることができるとされていた。この計画は、直ちに実行に移されたが、この計画の要求は、余りにも整備されていない日本の道路に対する使用者としてのいらだちであったと思う。日本側にとっては、この計画の全面的実施は財政面から可成り難しいものであり、全計画の実現はなかったが、将来の道路の維持修繕ということだけでなく道路そのものについての考え方について大きな示唆を受けたと思われる。   以上の叙述でも明らかなように、敗戦後から占領が終わるまでの間は、既存道路の修繕、改造、維持ということが道路政策の中心であり、それを推進したものは、自動車をはじめ軍用車両を日本の全道路において動かさなければならなかった占領軍の強い要請であった。 (3) 昭和27年4月28日、平和条約の発効によって、日本は独立国としての主体性を回復した。道路行政においては、占領軍の指示の下に、主として既存道路の維持修繕を中心とする行政を行ったが、漸やく積極的に、新しい道路の建設をはじめとする近代的道路網の創設を企図して、昭和27年6月10日(施行同年12月5日)、道路法が制定された。しかし、法律が制定されたからといって、直ちに道路の現状が好転する訳ではない。その法律の内容の具体化は、かなり先のことになる。     昭和29年の道路現況についてみると、一般国道の改良率は31.8%、舗装率は11.6%、主要地方道では改良率は22.8%、舗装率は僅かに4.1%である。  この頃のエピソードがある。東京の郊外に住んでいた住人が都心の会社に出勤するには、雨が降ったときはゴム製の長靴でなければならなかったという。都内の極く重要な部分の道路を除いては、舗装は全くなかったためである。自動車による泥はね被害は殆ど日常的であった。  “ワンマン道路”という名で一時マスコミで報道された道路があった。神奈川県の東海道線戸塚駅付近の踏切は列車の通行に伴って遮断され、このため、この踏切を通過する車両は停滞し、いわば最大の難所とされていた。この場所をよく車で通行していた当時の吉田総理大臣のお声がかりで、早速立体化が検討された。結局、昭和23年に着工して約5億円の経費と7年9ヶ月を要して4.2キロメートルの新道が完成した。これによって、さしもの車の停滞は解消されることになった。  この道路の建設については、当時、ワンマン道路ということで大きな話題になったが、今日から考えれば、吉田総理大臣の見識と決断のお陰であったというべきであろう。 第2節 自動車の運行の実態 1 太平洋戦争に入る前、昭和14年度の統計を見ると、保有自動車台数は22万2246台、その内訳は、トラック 118,242台、バス24,024台、乗用車59,317台、小型二輪20,663 台となっており、自動車の保有という点では、戦前の最高数量となっている。   当時、道路については、研究、試行の段階ではあったが、ドイツ国のアウトバーンなどを視察して、高速自動車専用道の建設などが道路政策の中において考えられていた。   この自動車保有の実情と道路についての新しい考え方などを今にして併せ考えてみると、すでに昭和14年前後において、日本はモータリゼーションを頭においた道路交通の近代化の萌芽を見せていたのではないかと思うのである。   ところが、昭和16年12月8日太平洋戦争に突入するに及んで、状態は一変する。すべての国力を挙げて戦争遂行という目的に集約集中され、自動車は、製造においても、また使用においても、専ら軍用目的にふり向けられることになった。   さらに昭和20年に入って空襲により戦禍が日本本土に及ぶに至って、僅かに一般輸送の用に供されていた自動車等は破壊され、使用不能のものが多くなり、実際に運行し得るものは保有数量を大きく下回ることになった。   終戦の年、昭和20年末(1945)の自動車保有台数は96,781台、その内訳はトラック55,506台、バス12,792台、乗用車18,113台となっている。(日本自動車年鑑所載)   その保有台数は、指数で見ると昭和14年(1939)を 100とした場合、トラック47、バス53、乗用車31という激減ぶりである。理由は、殊更に論ずるまでもなく、戦争遂行と戦禍による相乗作用によるものである。 2 敗戦直後、貨物輸送の立場からその実情を伝えている大和運輸の50年史を通して当時の輸送機関等の実態を述べてみたい。   「全産業が、そのいぶきを休止しているそのときに、“汽車が動いている”という事実は、虚脱の国民にとって、僅かな光明であった」この実感は当時を知るものにはよく理解できるものである。すでに述べたように、戦争遂行と戦禍によって、道路を運行する自動車、その他の輸送機具は極度に減少し、その上に修理部品、燃料の不足、運転手、修理工の不足などで、現実に稼働できるものは実数を大幅に下回っていた。   また、「小運送業による貨物運送については、当時使用されていた輸送機具について、その割合を見ると、トラック31%、荷牛馬車51%、荷車・リヤカー13%となっている」と記載されている。これを実数で見ると、普通トラック4,405台、小型トラック1,400台、荷牛馬車8,189台となっている。今日の眼で見ると、異様かも知れないが、戦前から戦後のある時期までは、貨物列車のほか日本の陸上貨物輸送の主力機具は、牛馬がけん引する荷車であった。農山村においては人力による手曳きの荷車が多用されていた。 3 敗戦を契機として道路交通の実体は、急速に変貌し、道路交通の中心となる輸送機具は自動車が大きな比重を占めるようになった。   占領軍は、その占領目的を達するために全国的に自動車を運行させた。今まで自動車の姿を見たこともない農山村にジープが疾走し、大型の軍用トラックが走るようになった。   占領軍の要請に応じて、僅かに保有しているトラックをフル回転して運行させるようになった。戦災復興と民生安定のため、日本自体による自主的活動が始まったのである。   日本政府はこれらの目的をより積極的に達するため、占領軍当局に対し自動車の拂下げ、輸入を要請したほか、日本国内での生産再開を要請した。   拂下げ等についてGHQは、ある程度日本側の要請を了承したが、その中で「乗用車の拂下げ、補充は、未だ日本はその時期にあらず、贅沢な願いである」として却下している。当時の占領軍の日本人に対する考え方の一端を示すものである。   自動車の国内生産再開については、戦後間もなく、トラックの製造については、月間 1,500台の生産を許可されたが、小型乗用車の生産及び組立については年間300台に限って許可された。さらに昭和24年には乗用車についての生産制限を解除された。これを機として、日本の自動車の国内生産は、急速に活発化した。(資料編第2−2、3 参照)   このようにして、昭和21年(1946)の約14万4千台であった自動車の保有台数は、昭和29年(1954)には100万の大台を突破し、109万4千台となった。その内訳は、トラック約53万台、バス約2万9千台、乗用車12万4千台、小型二輪3万8千台、軽二輪34万5千台である。依然として、トラックの数量が多いこと、この頃になって急激に増加してきた軽二輪車が注目される。 4 占領解止により、主体的な経済活動が行われはじめ、また戦災復興事業の拡大伸長、朝鮮事変による米軍による軍需物資等の特別需要の発生などが一斉に出揃って、経済活動が活発化した。当然の如く、物資の運搬、人員の移動がはげしくなり、運搬用具としての自動車の増量が促された。   これと併行して、人員物資を輸送することを目的とする運輸事業も活発化した。即ち物資輸送については、戦前の官による厳しい統制の枠が緩和され、民営の貨物輸送会社が次々に誕生した。そして、これらの積極的な企業活動によって、小区域、短距離に局限されていた物資輸送業の事業範囲が広がり、輸送距離も長距離になった。かくて鉄道を主力とする物資輸送が逐次その分野を自動車に移譲させて行く傾向を示すようになった。   人員輸送については、従来公営を主としていたバスによる輸送事業が民営に移行すると共に、両者の競争の下にバス輸送網を都市のみならず、農山村地域にまで伸長することになった。    ハイヤー、タクシーについては、戦前は、殆ど個人事業と言ってもよい程に小規模なものであった。戦後も事業規模としては、トラックやバス事業と比較すると、小企業の域を出でず、しかも営業地域は都市部に局限されていた。しかし、経済活動の活発化に伴い、短距離、小範囲の人員移動が頻繁となり、ハイヤータクシーに対する需要が次第に大きくなった。統計によると、昭和25年度のハイヤータクシー用の自動車数は約46,600 台(昭和30年76,600台)、年間人員輸送数は約 9,600万人となっている。   ハイヤー、タクシーの需要は、経済の好不況によって大きく影響を受けるものであり、運賃、運転手の質、企業のあり方等がこの時期において問題となって来ているが、次の時代にその問題を引き継いでいる。(資料編第2−6 参照) 5 終戦後10年を経過して、その間に前述したように経済活動の活性化に伴って道路交通の実状は多様化し複雑化し、各種各様の運搬機具が道路上に出現した。   モータリゼーションというには、なお遙かな隔たりはあるが、道路交通の大半は自動車が占めるようになってきている。しかしその自動車の態容はまことに多種多様である。量的にはトラックが一番多いが、同じ貨物を輸送する自動車にも、オート三輪車が小口貨物の運送の大きな部分を占め、大小入り混じって道路の上を動いていた。乗用車は、未だ数量的には貨物自動車には遙かに及ばないが、その稼働率は特にハイヤータクシーにおいて高く、都心部の交通ではだんだん目立ちはじめている。二輪車、軽二輪車(スクーターなど)が逐次増加してくる。   昭和27〜29年当時、警視庁で繁華街の交通整理の任務を持っていたある警察官は、その頃のことを次のように語っている。   「交差点に立って交通整理をしていると、そこを東西南北交差して通行する交通機関は、自動車といっても四輪貨物自動車、オート三輪、バス、乗用車、自動二輪車、スクーターとあり、さらに電車、荷馬車、荷車、時には人力車等々まことに多種多様である。その上に歩行者がこの中に入ってくる。これらを身体一つ、手一つで整理するということは、想像以上の重労働である。余りに複雑な交通に心身を痛めて交通整理から離れた人もある位であった。」   この警察官は、戦前から専ら街頭に立って交通整理に当たり、戦後の交通混乱の最も甚だしいこの時期に、東京の主要交差点に立って交通整理に当たった。彼が自らの眼で見、心で感じとっていた当時の交通の実状が総ての点で、その時代の道路交通の実体を物語るものであると思う。            第3節  交通取締り 1 終戦前の交通取締り   終戦前は、交通取締りについては、道路取締令及び自動車取締令に基づいて、都道府県の警察を中心として行われていた。   しかし戦争が長期化し、かつ激化するにしたがって、警察業務としては、取締りよりは軍事目的のための輸送業務、ガソリンの使用規制のための取締り等が主要任務となり、本来の交通取締りという仕事は第二次的にならざるを得なかった。   昭和20年6月、即ち終戦直前には、自動車関係行政はすべて陸軍の所管となり、自動車の生産、輸送、鉄道の輸送等はすべて陸軍省の戦備課というただ一つの課の専掌するところとなった。この時点で、日本の運輸交通行政は民生という観点からは全くその色合いを消失させられてしまった。また、交通取締りという本来、道路交通の安全、危険防止、通行者の保護と事故防止ということに欠かすことのできない警察業務も、殆ど顧みる余地のない有様であった。 2 占領軍による指示指令   終戦を境にして事情は一変し、大きく転換しはじめた。   終戦により厳しい戦時態勢が解かれた途端から、停まっていた自動車が動き出し、人の往来もはげしくなった。まるで自然発生的のように都市の中心部にはバラックが林立し、そしてそこに“闇市場”が出現した。今迄人もいなかった廃墟が商店街になり、そこを中心に自動車、荷車、自転車の交通がはげしくなり、人の出入りが頻繁になった。至るところで交通障害が起こり、終戦の年である昭和20年に交通事故による死亡者3,365 人が出たことが発表されている。この交通障害で最も強い影響を受けたのは、占領軍である。進駐している基地を中心にして、軍用車両の運行は日夜を分たず頻繁であり、軍人達の使用する乗用車の運行も、当時の日本人の常識を絶する程頻繁であった。(資料編第12−19 参照)   占領軍最高司令部は、進駐後間もなく“道路の改善と交通秩序の維持”について日本政府に指示し、各基地の指揮官は対応する警察機関に多様な指示をして厳しい取締りを要請した。   占領軍の各級指揮官がどのような指示を対応する警察機関に行ったかを見ることによって、終戦直後から1・2年の間の交通の実態を知ることができるように思う。占領軍の指示を受けたある県警察の幹部は、その後の想い出として“占領軍の指示は厳しかった。しかし、当時において、最も重要な交通秩序の維持の方法を教えられ、さらに交通取締りの具体的な方法についても教えられ、極めて得るところが多く、学ぶべきことも多かった。その当時は占領軍の傲慢とも感じたが、彼らは真剣に私たちに教えていたのかも知れない”と語っている。   どのような指示、指導が行われたか、占領軍の基地の多かった福岡県、宮城県、愛知県などの例を述べておきたい。なお、これらの詳細については、資料編第12−15・16・17・18 に掲載している。 (ア) 福岡県の例   “福岡県下の日本人の諸車並びに歩行者に対し指示されたる交通規則―20.11.2−米海兵隊憲兵隊司令官”という通達が福岡県警察部長より各署長宛に出されている。その一部の概要を示すと次のようなものがある。 @ 国内法規と矛盾する点があればこの米軍指示が優先する。 A 自動車は左側、歩行者は右側の通行とする。 B 自動車の速度は   市外地域 35マイル(56km)   住宅地域 25マイル(40km)   商 店 街 15マイル(24km)   とする。 C 歩行者は二人以上並んで歩くことを禁ず。 D 博多駅より一定範囲(占領軍の施設等のある地域)は馬車、荷車の通行を禁止。 E 無灯火車両の運転禁止。もし運転した場合は没収。 F 主要交差点はMPが交通整理を行う。 (イ) 宮城県仙台市の例   ここには米軍の重要基地があり、占領軍の車両の交通は激しかった。   当時の状況に対し、この地域の占領軍当局から「日本人の無秩序な通行、老朽車両の運行は、増加の甚だしい占領軍の車両の通行を著しく阻害しており、このことは、ひいては占領政策を妨害するものと認めざるを得ない」という見解の下に、県警察部及び関係警察署に対し、それぞれの指揮官から「交通秩序の維持」について指示、指令が出された。その指示の内容の一部を摘記する。 @ 歩行者の通行は右側とする。 A 100米毎に区間を示す標識の設置 B 占領軍の自動車の運行と出会って避譲しないときは射殺することもある。 C 無灯火の車両については没収する。 D 指示する道路については、一方通行とする。 (ウ) 愛知県の例   愛知県警察史はその交通の項において「占領軍は交通秩序の維持に対し、多くの指示指令を警察に対し発し、警察側としては、積極的にその指示指令を具体化するとともに占領軍関係者に対し指導助言を求め、占領軍側も物心両面の協力を吝まなかった。占領軍のこのような態度と市民に対する対応は、従来、交通に対し無知、無関心だった県民に交通問題に対する認識を根本から改めさせることになり、非常によい効果を挙げた」と述べている。愛知県の場合、占領軍との関係が良好だったようだ。   さらに、その記事によると、占領軍と終始合同会議を持って、「歩行者の右側通行、交通標識の設置、速度制限、信号機の運用」等々、殆ど交通警察の各分野について会談したことが時系列的に述べられている。 (エ) 大阪府の例   昭和20年10月、米軍第25師団憲兵隊司令官から府警察部に対し、最高速度の制限と標識掲示の要望があり、府交通規則を以ってこれを定めた。最高速度の制限は、路線とその区域を指定して行われたが、概ね時速50キロメートルであった。   なお、憲兵司令部からは、これらについての強力な取締りの要望がなされている。   昭和21年1月にさらに司令部より要望があり、速度制限が厳しくなった。即ち、全体的に時速30キロメートルとすること、混雑地帯、学校付近等は15キロメートルとする等。   このほか、昭和23年5月に大阪市内の御堂筋、堺筋等商業繁多地帯において35万台に及ぶ自転車について通行を禁止又は制限をした。   とくに問屋街において自転車の通行を禁止したことについては関係住民より強い反対が出た。 4 前述で占領軍の指示指令をやや詳しく書いたのは、終戦直後の交通状況に対して、日本警察が主体的に対応する能力を欠いていたことを示すためであり、同時に占領軍、とくに米軍によって手取り足取りそのあり方、その業務の進め方を具体的に教えられた、ということを述べたいと思ったからである。   すでに述べたように、終戦直前の日本の実状は“戦争”という一点に、すべての行政が凝縮集中されていた。終戦直後は警察は一般的な治安維持と進駐して来る占領軍の無事受け入れに全力を傾けていた。したがって、交通取締りを顧みる余裕はなかった。占領軍の強力な支持と指導によって、はじめて、警視庁はじめ各都道府県警察は、警察部内に交通取締りの担当課を設けるとともに、街頭に出て取締りに当たる要員の確保のため、交通取締り体制の強化に着手したのである。   終戦直後から数年の間、都市部の中心交差点で、MPの腕章をつけた米軍人と一緒に交通整理をしている日本警察官の姿を見た人は多いと思う。また、MPと一緒にジープに乗ってパトロールをしている日本警察官の姿もまた、当時の多くの人々の記憶に残っていると思う。 5 昭和22年11月、道路交通取締法が公布され、この法に基づく道路交通取締令公布とともに、翌23年1月に施行された。すでに述べたように、それまでの交通取締りの根拠法令は、大正9年制定の道路取締令と大正8年制定(昭和8年改正)の自動車取締令であったが、これらに基づく具体的な細目は、それぞれの都道府県の令による交通取締規則に定められており、その内容は、必ずしも全国斉一とは言えなかった。   昭和22年12月、道路交通取締令(内務省令)の制定によって、全国の都道府県規則で定められていた内容が整理統合され、これによって全国共通の統一した取締りの基礎ができたのである。   規則の整備とともに、各都道府県警察においては交通警察の組織作りが行われた。警視庁では警備交通部を設け、大阪府等大府県でも交通課を設置するなど、態勢の整備が図られた。   体制の整備は進展したが、他方において昭和22年12月警察法が公布され、またその中で警察行政を主管し、かつ、都道府県を監督下に置いていた内務省の解体という戦後最大の行政改革によって、警察業務の執行には少なからぬ影響が出た。即ち、この改革の結果、一挙に全国に千数百の独立した自治体警察組織が出現した。大は数万人の警察官を擁する警視庁から、小は警察署長以下10名程度の町警察という、規模も質も異なる様々な警察が出現したのである。   他方、東京に中央組織として国家地方警察本部が置かれ、都道府県に国家地方警察隊を置く国家警察組織が設けられ、そこが自治体警察の管轄以外の地域をその管轄とした。   このような複雑な警察組織は、その運営の面においても幾多の障害を生じ、これを克服するため、昭和29年には警察法を改正して、都道府県単位の警察組織に模様替えすることになったのである。   このように、この時期は、組織的には警察業務の運営はむずかしくなったが、道路交通の取締りについては、新法の下で、各警察機関を通じて考え方を共通にしてその執行に当たった。また、当然占領解止までは占領米軍の積極的な支援も継続された。   このようなことで、終戦直後の極端な混乱状態を脱し、整備された法を根拠として、取締りを行うことができるようになったのである。   昭和20年の交通事故死者3,365人、昭和22年 4,565人であったものが、道路交通取締法が施行された昭和23年3,848人(前年より617人減)24年は3,790人(前年より158人減)となって、一応減少の傾向を見せたことは、取締りがある程度軌道に乗ったことを示しているように思われる。   遺憾ながら、それ以後は、取締りの能力を上回る道路交通情勢の悪化によって、再び事故が増加し、死亡事故も増加することになった。かくて、このような情勢の下で、交通取締りということについて、その考え方、組織、ならびに展開方策について、根本的に考える必要があることが痛切に感じられるようになった。