序 章 ― 道路交通の背景となる敗戦後10年の経過 ― 1 廃墟の復興   長い戦争の間に、我が国の国土のかなりの部分は焦土と化し、整備されていた戦前の国の相貌は一変していた。首都東京はその殆ど全域が焦土となり、廃墟に近い状態となった。それは大阪市ほかの大都市、中都市も同様であった。   終戦とともに廃墟のようになった都市に人が集まってきた。空襲を恐れて疎開していた人々が帰ってきた。軍隊の解散により多数の旧軍人が都市に入ってきた。何れも生きる道を求めて都市に集まってきたのである。   廃墟の跡に次々にバラックが建ち、やがて、そこにバラックの街が出来上がった。至るところに闇市が出現し、そこに群をなして人が集まり、まさに異様な都市の相貌を呈した。それが敗戦後のある時期までの日本を表徴する都市の姿であった。 2 占領下の行政   敗戦後、間もなく連合国軍が占領軍として進駐してきた。   連合国軍最高司令官は、日本の民主化を宣言し、徹底した占領政策を実施した。  「日本帝国政府ノ行政立法司法ノ三権ヲ含ムスベテノ権限ハ爾今本官ノ権限ノ下ニ於イテ施行セラレルモノトス。   日本政府ニ属スル官公吏ハ総テ本官ノ命令ニ基キソノ平常ノ業務ヲ執行スベシ。   公衆ハ総テ本官及ビ本官ノ権限ノ下ニ於イテ発セラレル総テノ命令ヲ即時遵守スベシ。   爾今各種布告、軍政命令、規定、告示訓令法令ハ本官又ハ本官ノ権限ノ下ニ手続キヲ経テ発セラルベシ。」   この覚書は、日本国民に占領とは何かということを最も端的に認識させるものであった。   占領政策は、かくて、民主化と戦災復興の両面から早急に、かつ、厳しく展開され、憲法が改正施行された昭和22年5月までの間に、日本の姿、形をその心の中に至るまで変革させる施策が実施された。   そのような変革の中に、婦人参政権を含む選挙制度の改革、労働組合の助長、財閥の解体、農地開放を中心とする農地改革、学校教育の自由化と6・3・3制教育の制度化等が含まれており、さらに、政治犯の釈放、特高警察の廃止も行われた。行政組織や公務員制度などについても、旧体制を変革するための各般の措置がとられた。 3 新しい日本国憲法は、昭和21年11月3日に公布され、翌22年5月3日に施行された。日本は国民主権・平和主義・基本的人権の尊重・国際協調主義等を基本原則とする民主的で、自由な平和国家として再出発することになった。この新憲法の制定により、すでにそれまでに廃止された法律、命令に加えて、現に存する法律、命令はすべて新憲法の定めるところに順応するように失効の措置をとり、新たに立法し、あるいは大幅な改正が行われた。   道路交通関係だけに限定しても、主なものとして、道路交通取締法、警察法、道路法、道路運送法(旧法)道路運送車両法、道路運送法(新法)等が制定された。 4 新憲法の制定により、今後の日本の方向を定める諸制度の重要な改革が進められた。しかし、物資の不足と生産の停滞そしてインフレの昂進、労働争議の頻発(とくに大企業において)などにより、経済情勢は極めて不安定であり、このような状態に対しては、抜本的な対策を必要とした。その一環としてGHQの指示や、いわゆる「ドッジ・ライン」に基づく超均衡型の予算が編成され、財政支出の縮減のための行政整理、行政簡素化の措置が執られた。  註 ドッジライン(1949年昭和24年3月1日)   戦後の日本経済再建についてGHQ経済顧問ジョセフ・ドッジが、収支均衡予算の編成を指示した。超均衡予算、補助金全廃、復興金融公庫の貸出全面停止などの実施を要求したもの。以後不況が深刻化した。 5 昭和25年6月25日朝鮮動乱が勃発した。国連軍として、アメリカ軍が朝鮮半島に出動し、これに伴って、わが国では米軍が必要とする各種軍用物資の調達が行われ、日本経済の上に所謂特需ブームを巻き起した。これにより、今まで低迷していた日本の産業に明るい出口が見え、この特需と輸出の拡大により、鉱工業生産指数が戦前の水準を突破するに至った。朝鮮動乱の生起は、また、新たな日本の防衛としての警察予備隊の創設の因となった。(昭和25年7月8日マッカーサーが75,000人の警察予備隊創設と海上保安庁の 8,000人増員を指示。同年8月10日警察予備隊令公布) 6 昭和26年9月8日サンフランシスコで平和条約が締結された。   全面講和ではなく、多数講和(49ヶ国。インド、ビルマは参加拒否、中国は招待されず、ソ連、チェコ、ポーランドは調印せず)であったが、昭和27年4月28日に条約が発効し、これにより占領は終結し、わが国は完全な主権と独立を回復した。   占領の終結と独立の回復により、日本国としての主体的な国家活動がはじまり、国内的には、戦争期間中に停滞していた技術の後れを取り戻すための努力が急速な技術革新を促進し、それらが基本となって、産業構造の近代化を進めることになった。しかし、産業経済の進展は、労働問題を表面化し、企業における大規模なストライキを引き起こすことになった。昭和27年の炭労、電産の争議、翌28年の日産自動車、三井鉱山のストなどはその顕著な例である。このような労働運動は政治問題と結びつき、昭和27年5月1日血のメーデーといわれる騒擾事件が発生した。   国際的には、徐々にではあるが、国際社会への復帰のための足固めをはじめ、昭和27年に国際通貨基金(IMF)次いで30年にはGATT(関税貿易一般協定)に加入し、国際貿易への参入の入口が開かれた。   昭和31年の経済白書は、“もはや戦後ではない”と叙述して、日本が経済的には戦後という異常状態を脱したことを明らかにした。 7 道路交通に係わる部分について、敗戦後10年の経過を見ると、明らかに占領中と独立回復後の間には、その実態と政策に段差があるように思われる。   敗戦直後の混沌とした道路交通の実態は、極端にいえば原始的状態であった。その後の対策は、その原始的状態を復元して正常化するものであった。占領期間中の占領軍の指導、米国政府の支援ならびに戦災復興の成果等により、独立を機として漸やく将来を展望した道路交通政策を策定することができるようになった。