第1編 前 史 明治元年〜昭和20年(1868〜1945) 第4章  終わりに  これまで、明治維新から昭和20年、敗戦の年まで、約80年にわたる道路交通の展開と、それに伴う交通事故の発生状況及びその防止策の推移について述べてきた。  即ち、ひたすら歩く時代から、人力車、乗用馬車が活躍する明治前期、路面電車の出現と自転車実用化の明治後期、自動車の普及が進んだ大正期から昭和戦前期、そして輸送統制下の戦時期にいたる過程である。  これらを通観すると、交通事故の発生は、先ず、明治後期の人力・畜力から機械力への移行を軸にして増加し、そして自動車交通の発展に従って激増という方向を辿ってきた。 1 各期における道路交通の状況 (1) 明治期   この期は人力車と乗用馬車の出現のほか、東京では馬車鉄道の営業開始など(明治15年)、維新前の徒歩と駕籠・馬背の道路交通とは大きく変容した。荷車や荷牛馬車の台数も急速に増加したとはいえ、明治前期は交通事故の発生も少なく、この頃に制定された交通法規は交通の秩序保持を第一としていた。   その後、路面電車の開業や車両台数の増加、加えて都市への人口集中などは、さまざまな輸送手段による混合交通をもたらし、旧態依然たる道路上に交通状況の悪化を増幅させた。その結果、交通事故は次第に増大の一途をたどっていった。   その対策として、警視庁は左側通行を中心とした指導取締りを推進した。 (2) 大正・昭和戦前期   旧来の輸送手段に加えて、自動車・オートバイそして自転車の急増が加わり、混合交通の度合いはますます強まった。ことに、第一次世界大戦時の好況、そして関東大震災復興の建設事業活発化を契機に、自動車の利用は全国的な広がりを見せた。   その後もますます都市人口は増加し、市街部における路面電車・バス網の発展を促した。朝夕の通勤ラッシュが発生したのも、この頃からである。   このような陸上交通全体の活況を背景として、全国における交通事故は増大した。ことに、そのなかに占める自動車による事故の急増は顕著であった。大正13年、全国交通事故総件数4万5千件のうち26%であった自動車による事故は、昭和7年には、総件数7万1千件余のうちの70%を越え、以降同15年までその前後の割合で推移している。   事故多発の原因としては、自動車台数の増加、未熟な運転技術、交通ルール順守思想の未成熟、道路施設整備の貧弱さなど種々指摘されている。   これらに対する事故防止対策は警察の取締りが中心であった。そのなかで、警視庁が交通専務巡査や赤バイの配置、手動式信号機の設置、交通整理や交通規制の実施、電車横断線や道路標識の設置、運転免許制度の整備などの方法を積極的に導入しているのが注目される。大阪府など他府県においても、警視庁の方式にならった防止策の導入に努めている。 (3) 昭和戦時期   日中戦争、そして太平洋戦争の戦時期に入って、全国交通事故件数は次第に下降を示すが、特に死者数の減少傾向はみられない。交通警察の主務は軍事目的のための輸送警察に総力が傾注され、交通取締りの任務は二次的にならざるを得なかった。更に、国内の各地が戦災を受けるに至って、道路交通の実態が全く変質してしまったまま、敗戦を迎えた。 2 道路交通安全対策の先駆的役割   このように、戦前における我が国の道路交通の様相は、自動車の登場によって大きく変貌した。大正8年(1918)の自動車取締令、次いで道路取締令の制定の頃を機として、道路交通の一端を自動車が担うようになった。そして昭和8年(1933)、自動車取締令の大改正が行われたが、これは自動車が道路交通の主座に接近しつつあることを物語っていたといえよう。   しかし、日中戦争以降の展開は、国をあげての戦時体制に組織化されることとなり、その後の自動車交通の進展に大きなブレーキとなった。(社)日本自動車工業会編『日本自動車産業史』は、国の強力な産業統制のもとで、乗用車生産の禁止、民間への供給停止という状況を背景にしたこの時期の姿を、次のように述べている。   大正時代そして昭和初年に至るまでの間、ゆるやかながらでも国民の生活に根づこうとしていた自動車そのものを、人々から切り離してしまった。もちろん、戦時下という特殊で極限的な状況が長期にわたって続いたのであるから、致し方ない面もあるが、人々の間に、自動車、とりわけ乗用車が普及する「モータリゼーション」(自動車の高普及化・大衆化)が実現するには、戦後も20年を経た昭和40年代初頭まで待たねばならなかったのである。   一方、交通を支える我が国の道路についても、将来の自動車交通の発展を考え、主要道路の改良策が検討されていた。また、産業用、軍用両面に機能する道路として、ドイツのアウトバーンを念頭においた自動車専用道路の計画が練られていた。しかし、何れも戦争の長期化、深刻化によってその実現を見ることなく、敗戦の日を迎えたのである。   前述したように、交通事故増加の防止対策については、警視庁を中心として近代的な施策への努力が営々として重ねられてきた。しかし、その施策と成果は、未だまことに微々たるものであったと言わざるを得ない。次章に詳説する戦後の交通警察体制及び装備、法令の整備、交通安全施設、交通規制の各種施策と比べると、その懸隔はあまりにも大きく、いわばその先駆的な役割を務めた時期と称すべきであろう。   しかしながら、これまで縷々述べて来たように、現場第一線の業務に携わってきた先人たちが、交通安全確保のために手探りの努力を続けてきたことは事実である。その労は、永く青史にとどめて讃えたいものである。 補 遺 第1話 救急自動車の誕生  平成12年中、全国における消防署の救急自動車が出場した件数及び救急搬送人員は、それぞれ4、182,675件、3、997,942人に及んでいる。そのうち、最も多く運ばれたのは急病の219.1万人で、交通事故は第2位の76.2万人であった。救急活動が、いかに私たちの日常生活へ貢献しているか、緊急出場が7.6秒に1回、そして国民32人に1人の割合の救急搬送という数字が示している。  ところで、この救急車はいつ頃誕生したものであろうか。  軍事用の患者輸送用車は別として、一般市民を対象とした救急車の誕生は、1881年(明治14年)、音楽の都ウィーンに起きたオペラ劇場の火災が契機であった。その火災は398人の犠牲を出すという悲惨な事件で、この悲劇を二度と繰り返すまいとして、1882年、この地に誕生したのが、世界で初めての公的な救急医療組織で、患者輸送用として救急馬車が備えられた。当時、既に自動車は走っていたが、振動を防止する車体構造は馬車の方が勝れていた。ウィーンの救急隊に自動車が採用されたのは、1905年(明治38年)、空気入りタイヤをつけたガソリン自動車からであった。その後、パリ、ベルリンなど欧米諸国で次々に組織化された。 (1) 救急医療体制導入の先覚者   我が国における警察と消防行政の基礎を築いた松井茂博士は、昭和8年、神奈川県警察部の救急自動車誕生を大変喜んで「余の昔年来の主張が容れられた訳で、余は斯界の為め大に多とするところである」と述べている。彼は、明治34年の欧米出張の際、ベルリンの消防隊に参加するなど実際の体験を有し、早くから欧米の救急医療体制を紹介し、講演や執筆などいろいろな機会をとらえて、その導入を主張していた。   松井とともに、早くからその導入について提言していたのは、警視庁の警察医長の任にあった山根正次である。彼は、明治20年に医学研究のために欧州各国に留学をした人物で、ヨーロッパの医学事情については詳しく、講演や執筆でその導入を訴えていた。    また、国際法学者の有賀長雄法学博士も「警察協会雑誌」明治37年2月号の「速やかに救急車を設備すべし」との論説のなかで、英国及び植民地、独、仏、露国などの事例をひいて「警察や市当局、または赤十字などによって、ぜひ、大都会に数台の救急馬車を配備すべきだ」との意見をのべている。   このように、先達たる欧米の人命救助活動を模範として、救急医療体制と、その一環である救急車の導入を懸命に主張し続けた、先人たちの努力は見落とすことはできない。 (2) 我が国、初の救急自動車とその後   昭和7年3月、日本赤十字社大阪府支部は大阪市内2箇所で路上救護所事業を開始し、救急自動車各1台を備えた。その後、各方面からの要望があって、さらに2箇所を増設した。この救急自動車は、欧米各国の救急車について十分な研究を重ねたうえ、堺市の工場で製作されたもので、外観は純白色、左右両側に赤十字の標章、後部扉に「救急自動車」の文字がつけられていた。内部の構造は種々の工夫が施され、2名乃至4〜5名の軽症患者も収容搬送ができた。救急自動車という名称で活動した日本最初の救急車である。   この路上救護所事業は、昭和5年、ベルギーで開催された第14回赤十字国際会議の決議「大都市における交通事故多発に対応して救護所を設けよ」に応えて着手したものであった。その為、同支部は後送病院の確保などの諸問題について関係機関と協議を重ねるなど、周到な準備を進めてきたのである。   引き続いて同9年には、東京支部に路上救護所2箇所を開設、同13年には兵庫県支部内にも設置、いずれにも救急自動車1台を配して活動をスタートしたのである。   日赤大阪支部が活動を開始した翌年の昭和8年、神奈川県警察部はキャデラックの中古車を改造した救急自動車1台を、横浜市山下町消防署内に配置した(3月13日)。これが行政サイドにおける救急自動車第1号である。   救急自動車配置後1年間における横浜市内の交通事故は、1,663件、死者55人、負傷者980人であった。一方、救急自動車が取り扱った件数は223件、人員262人。そのうち入院させた者は201人、手当後自宅に送りとどけたもの61人であるが、その中50人は死亡している。従って死亡につながるような重大な交通事故は、ほとんどこの1台の救急自動車が関わったとみることができる。   この神奈川県警察部に続き、同9年7月、愛知県警察部は名古屋市内の消防署に救護隊を設け、救急自動車1台を配置して活動を開始した。   そして昭和10年末、かねてから救急業務の必要性を力説していたものの、予算が伴わずになかなか実現できずにいた警視庁消防部に、(財)原田積善会から救急自動車6台が寄付された。同会は、明治・大正時代の鴻池財閥経営者原田二郎が全家産を投じ、基金1,020万円で設立したものである。寄贈を受けた警視庁は、横浜・名古屋の実績を参考にして、交通事故、火災、工場災害などの死傷者のうち1割5分〜1割7分(約6,000人余)は救えるのではないかとの見込みをたて、全市を6救急区域に分割、救急自動車を配置し救急隊を編成した。出動最長距離4km、所要時間最長約6分で現場到着の見込みである。治療機関として、数十病床以上を有する市内の外科病院や総合病院172箇所を救急病院として委嘱した。このような計画のもとに、同11年1月から警視庁の救急業務がスタートしたのである。   さらに、同11年に京都市下京消防署でも救急業務が開始されているが、その後は戦時下に入り、新しい展開はみられなかったようである。 (3) 交通優先権   ところで、救急自動車の活動遂行に是非とも必要なものは交通優先権である。昭和8年の「自動車取締令」の改正(内務省令第23号)によって消防自動車と救急自動車に交通優先権が与えられ、患者搬送を大きく助けることとなった。その条文は下記の通りである。 第54條 交通整理ノ行ハレザル道路ノ交叉点ニ異リタル方向ヨリ同時ニ入ラントスル自動車相互間ニ在リテハ左方ノ自動車ニ進路ヲ譲ルベシ但シ小道路ヨリ大道路ニ入ラントスル自動車ハ大道路ノ自動車ニ譲ルベシ   消防自動車又ハ救急自動車ト他ノ自動車トガ交通整理ノ行ハレザル道路ノ交叉点ニ異リタル方向ヨリ同時ニ入ラントスル場合ニ於テハ前項ノ規定ニ拘ラズ常ニ消防自動車又ハ救急自動車ニ進路ヲ譲ルベシ 第55條 消防自動車又ハ救急自動車の接近シ来リクル場合ニハ他ノ自動車ハ道路ノ左側端ニ避譲スベシ 第2話 自動車保険の始め  昭和6年(1931)、警視庁管内で発生した自動車事故による死傷者を年齢別を見ると、20〜49歳までの青壮年の死傷者が、全体の57%を占めている。一家の生計を支える働き盛りの突然の死や負傷がもたらすその後の苦しみは、おおかた予想できる。最後の救済手段として自動車保険の役割は大きいものがあった。 (1) 本邦初の自動車保険   我が国の自動車保険は、大正3年(1914)2月14日、東京海上保険会社が自動車保険の事業免許を取得したことにスタートする。この免許取得から僅か10日後の2月24日、保険同交会例会で千代田生命会社の麻生義一郎が「自動車保険について」というテーマで講演している。その内容は、当時の米国・英国の自動車保険についての紹介であった。また、その前年の同2年、保険学者の粟津清亮はその著『保険通論』の項「その他の小保険」のなかで「馬車自動車等の不慮なる破損を保険する車両保険」と紹介しているし、同4年には、上野隆吉著『保険法論』で1頁半を割いて自動車保険の叙述がなされている。   大正3年当時、自動車保有台数がまだ791台であった普及状況からすると、相当に早くから研究や事業に着目されていたと考えられる。 (2) その後の保険業界の動き   大正10年(1921)に三菱海上社が、そして自動車保有台数急増期の昭和3年に大阪海上、共同火災、大正海上、大日本自動車の4社が、同4年には明治火災、帝国海上、神戸海上の3社、同5年には日本海上、東京火災と続々と参入している。   日本初の自動車保険を開始した東京海上社が免許を取るに至った内情は、日本国内での営業よりも、むしろ米国内での巨大な契約対象への営業に重点があったといわれている。ニューヨークにあった同社の代理店が、東京海上の自動車保険ポリシー(証券)を発行したいとの希望を伝えたのが契機で、営業免許を取ったとのことである。因みに、大正4年における同社の自動車保険料収入保険料は98,000 円で、日本国内分は3,000円にしか過ぎず、残りの9万5,000円は国外からの収入であった。   大正3年に19件から始まった自動車保険契約は次第に増加し、各社の契約件数(海外分を含む)は昭和元年(1926)に51,298件、同10年には184,896件に達している。しかし残念なことに、同3年に自動車保険専門会社として出発した大日本自動車保険は、同10年、業績不振によって解散に追い込まれた。その原因を探ると、・タクシー・トラックなど営業車偏重の引き受け、・マーケットの伸び悩み(1929) 年の世界恐慌などの影響、日中戦争によるトラックの徴用)、・経営の無定見などで開業早々から赤字続きの状態となっていたのである。 (3) 強制保険への動き   保険の任意加入では、第三者の保護が不十分なので、自動車の所有者または運転者をして強制的に保険に加入させるべきだとの意見が出始めた。昭和2年(1927)には商工省の自動車強制保険草案、そして同8年、内務省社会局の木村労務課長が自動車強制賠償保険を立案したが、立ち消えに終わった。タクシー業界からは歓迎されたが、保険業界の気乗り薄、そしてこの制度の実施によって、下手すると自動車が売れなくなると懸念した販売業界の消極的な動きがあったと思われる。しかしながら、強制保険の着想自体は早くからあったのである。 (この項については、前住友海上火災保険(株)情報セ ンター長 植村達男氏の研究に負うところが多い) 第3話 自動車事故による最初の訴訟  (1) 最初の訴訟   大正元年12月19日、横浜市在住のフランス人エル・スゾールの自動車と大阪市電との接触事故が起きた。スゾールは自動車やタイヤの輸入販売で著名な人物である。彼は、この事故で自動車が破損したとして、同2年2月、大阪市長に対する損害賠償の訴えを大阪地方裁判所に起こした。訴訟は同6年まで争われ、最後に大阪控訴院の和解案を受け入れた市長側からの支払いによって解決した。   従来、この事例が、おそらく自動車事故による最初の訴訟事件ではないかと考えられていた。因みに、この年における我が国の自動車保有台数は535台であった。   さて、次に紹介する昭和12年刊の片野眞猛著『交通事故判例類集』は、大正元年から昭和10年の24年間に出された交通事故に関する判例を集めたもので、その資料源は大審院判例集、法律新聞及び著者が扱った実例によっている。そして、行政罰は除いて刑事罰と損害賠償のみを取り上げたものである。   この著書には全部で495例の判例数(船舶事故関係を除き)が収められている。その中で自動車事故に関するもっとも古い判例は、明治43年3月に愛犬を轢殺された飼主が運転者に対して慰謝料を請求して提訴した事例である。同44年12月、東京控訴院は被控訴人に対して500円の損害賠償を支払うことを命じている。   その次は、大正元年11月12日、京浜電気鉄道(株)の踏切での自動車と電車との衝突事故である。これも同じ東京控訴院の判決で、詳細な経緯は省略するが、同3年7月、控訴人の京浜電気鉄道(株)に対して被控訴人の自動車の持ち主へ損害金712円50銭の支払いを命じている。   しかしながら、この著作におさめられた判例が、大審院や控訴院のすべてを網羅していたとしても、下級審で終結した場合もあろう。最初の自動車事故訴訟は当然に存在するが、今後の調査をまつことにしたい。 (2) 『交通事故判例類集』所収判例の分類   この書に収められている判例について、先ず、事故の発生時期と判決の時期について分類を行ってみた。その結果は第21表の通りで、明治期が若干含まれているが、大正・昭和期それぞれ半数づつを占めている。 第21表 「交通事故判例集」所収判例 │ │ 発  生│ 判  決│ │ 明 治 期 │ 16│ 4│ │ 大 正 期 │ 267│ 246│ │ 昭 和 期 │ 212│ 245│ │ 合   計 │ 495│ 495│   次に これらの順位をあげると、先ず、歩行者が被害を受けた事故は221件でもっとも多い。現在も歩行者事故がもっとも多いが、当時はことに交通ルール、なかでも左側通行が守られず、また、歩車道分離も進んでいなかったので、事故が多かった。   次に自動車が関係した事故が204例。3位が鉄道事故で踏切事故が多かったようである。4位が電車事故の116例。前述したように、当時は飛乗り飛降りが多く、電車の前後を横断する事故も多かった。そのあとはぐっと離れて自転車の22例、荷車や荷馬車などの19例、乗用馬車の7例などの低速のもの、そしてオートバイの7例がある。   当時も、示談になるケースが多かったと思われるが、交通事故に関する判例がこのような1冊にまとめられることは、関係者の関心も高かったと推測される。 第4話 交通公害 (1) 糞尿公害   食物の種類・分量で差があるが、馬の排便は1日8〜10回、1日量は15〜20kg、排尿は1日に5〜6回で総量が4〜5リットル。牛の排便は1日12〜18回、1日量は15〜35kg、排尿は1日に8〜10回で総量が6〜12リットルといわれている。   多くの馬を使役する乗合馬車業者や馬車鉄道では、この馬糞も大事な収入源であった。   明治22年12月、東京府から認可された共同乗合馬車会社の設立計画のなかに、馬200頭の糞尿売却収入、240円が見込まれている。1年1頭あたり1円20銭である。東京馬車鉄道でも、同28年上半期の馬糞売却高は1,180円余で、その用途は左官が壁土に混ぜる「スサ」として利用されたと「萬朝報」(明治285年7月24日)は伝えている。  @ 牛馬車   通行中の牛馬の排便も困ったものとされたが、乗合馬車の馬が休息する立場などは、周辺から迷惑視されるのも当然であった。明治15年7月22日、大阪府は次のような布達(甲第78号)を出している。   馬車立場(馬車立場トハ休憩所又ハ常ニ客待スル場所ヲ云フ)ノ儀ハ自然馬糞等散乱シ悪臭甚敷伝染病予防上不都合不尠ニ付自今掃除人ヲ定メ一日二回以上ノ掃除ヲ為シ防臭薬ヲ撒布ス可シ。此旨馬車営業者ヘ布達候事  (「日本立憲政党新聞」明治15年7月28日)   東京でも同じような事例が見られる。同21年5月25日、警視庁は府下の馬車営業者取締を呼んで「乗合馬車清潔方」を口頭で命じた。そのなかに、「停車場は臭気止薬を撒布して悪臭の発せざるよう予防法を施す事」の項目があった(「めざまし新聞」明治21年5月27日)。このように、各府県の市街地では同じような対策がとられたものと考えられる。   明治19年12月、兵庫県会は知事に対して「神戸区内牛車通行禁止」を建議した。建議文に曰く「我が神戸区の街路に於いて牛車の夥しく通行するに依り、第一街上に糞尿を放つなどの為に大いに不潔を極め、衛生上その害少なからず」として、その第二に重量の荷物積載による道路の破壊、第三に通行人の妨げをあげ、「向後本区内に限り牛車の通行するを禁ぜられんことを希望す」と述べている。その結果は牛車通行道の指定ということで解決をみたようである。  A 馬車鉄道   明治15年に創業した東京馬車鉄道(同33年10月30日に東京電車鉄道(株)と社名変更)は、その最盛期の同34年には車両307両、馬匹2,125頭を保有していた。この頭数の排泄する糞尿は、さぞかし大きなものであったに相違ない。たびたび、その苦情が新聞紙上に寄せられている。   明治27年8月25日の萬朝報に「鉄道馬車停車場近傍の苦情」と題して次のように紹介している。   日本橋区通一丁目の各商店は、その鼻先が鉄道馬車の立場に成り居り、何回と無く往復する馬車が同所にて停車する度毎に馬が放尿するを以て其の臭気たまったものにあらず、殊に夏向きに鼻を向け難き程なれば、随って客足止まり営業上に影響を及ぼす程に至りしより……   そこで同町は会社に抗議するが、なかなか事が進まないので、警視庁に停車場位置変更を請願に及んだ。   当時の馬車鉄道は全国で11社あったが、東京馬車鉄道が圧倒的に大きく、他の馬車鉄道は規模が小さかった。しかし、同様の問題を抱えていたのではなかったかと思われる。   次は、同36年に東京馬車鉄道が電車に転換した頃、東京朝日新聞(10月5日)に掲載された「電鉄開通後の利害」中の一節である。悪臭、泥水飛散から今度は騒音へ、一難去ってまた一難の沿道市民の困惑を浮き彫りにしている。(次項(2)関連) ▲ ……この開通に伴う悪影響も亦少なからず。試みにその二三を示せば……、第二にこれ亦、沿道の大迷惑にて、当初町民は早く電車にならば風の日に馬糞舞わず、雨の日も泥汁飛ぶこともなく無論馬蹄の音も聞こえずして定めしよかるべしと予期せり。然るに開通の日に及んで案外の相違は成る程馬糞難と泥水飛散の憂いは無くなりしも、何がさて、騒々しき一段に至りてはまた格別なり。………の摩擦音響は凡そ1町程前よりシゥシゥと凄ましい音を発し、その上に例の人除けのガランガランは蛮響を絶えされば沿道商家の店頭に在っては電車の通り過ぎる迄は用談も弁じ難く、殊に朝正5時より夜半迄もこの響は徹するならん。故に大病人でもあるうちは勿論、小児を寝かしつけんとする際などの迷惑は一方ならぬことと知るべし。  (2) 騒音公害   電車のきしる音、サイドカーの爆音、自動車の警笛、工場のサイレン、宣伝のため、高い音をだす街頭のラジオや蓄音機の音など、騒音は年をおって問題化してきた。   大正8年の「自動車取締令」第4條5では「運転ニ際シ甚シキ騒響ヲ発シ又ハ有臭若ハ有害ノ瓦斯若ハ煤煙ヲ多量ニ発散セサル構造タルヘキコト」と規定されていたが、昭和8年の「改正自動車取締令」では、さらに詳細になった。   第10條では甚だしい騒音・悪臭を発しないこと、第11條では排気管に消音装置を付けること、第17條には軟調の音響を発する警音器の備え付け、第59條では騒音取締り(不完全なる積荷、運転、警音機の濫用、排気のカットアウトなどによる騒音防止)、第60條では運転中に悪臭若しくは有害瓦斯を多量に発散させてはならないという内容である。   第17條の「軟調警音器」については、昭和10年12月18日警保局警発甲第174号「自動車ノ警音器及消音装置ノ取締ニ関スル件」によって軟調警音器の具体的基準を定め、高音を発する警音器の使用を同11 年4月から禁ずることにした。しかし、都会ではなく静かな地方で反対がおきた。山間部の曲折した山道や濃霧の場合、高音でないと聞き取りにくく、かえって交通事故が増加するという理由であった。そこで、山間部は例外として12月まで存置させたが、問題もなく廃止となった。   ラジオについては、昭和12年11月、内務省警保局甲第138号「高声ノ「ラジオ」蓄音機取締ニ関スル件」通達によって取り締まることになった。 (3) 泥はね公害  大正12年(1923)の「都新聞」(1月19日)に次のような投書が掲載されている。   私は向島に住居して毎日浅草に勤めています。・・・乗合自動車の疾走は実に横暴を極めて居ります。交通のために認可になり、衆人の便利になる事ゆえ通行することについては歓迎しますが、今日などは吾妻橋から言問間に於いて乗合自動車に泥を跳ね飛ばされ半身泥まみれとなった婦人と学校通いの生徒三人を目撃し実に黙止することができません。所轄警察署にて疾走せぬよう吾ら多数徒歩者のためにお取締をお願いしたいと思います。  これに記者が注記して   自動車の横暴ぶりは一般から非常な悪感情をもって見られているようです。ただに向島のみの出来事ではありません。自動車の持ち主、運転手諸君の反省を望みます。   泥をはねかけても被害者にひと言の詫びもなく、排気ガスを吹っかけて走り去る失礼な運転手や持ち主が多かったことは事実である。それに対応する法令を見てみよう。   我が国最初の自動車取締規則である愛知県の「乗合自動車営業取締規則」(明治36年8月20日愛知県令第61号)第18条3項に「車輪ニハ適当ノ泥除ヲ設クヘキモノトス」と規定されている。この泥除はフェンダー(fender)と解すべきで、ここで取り扱う泥除けではないと考える。   大正8年1月の「自動車取締令」(内務省令第1号)では、泥除けについて別段の規定は設けていないが、必要な事項は地方長官が定める旨を規定している(第34条)。   これに基づいて、同8年2月11日警視庁令第8号「自働車取締令施行細則」では、 第7条 雨雪泥濘ノ際ハ汚水ノ放射ヲ防止スヘキ適当ナル装置ヲ施スヘシ  と定めている。このころ、泥除けはいろいろと考案され、同年9月には早くも300種余にも達したそうだが、決定打となるものは完成しなかった。泥除けは車軸にぶら下げて、外側に飛沫が飛ばないようにするもので、棕櫚やむしろで製した安いものや高級ゴム製など種々であった。しかし、なかには車輪といっしょに廻ってしまい、逆に汚水をまき散らす運転手泣かせもあったという。   この泥はね被害は欧米でも問題となっていたようである。英国では1907〜8年(明治41〜42)にわたり防止対策の研究が盛んに行われ、米国でも1912年(大正元)頃に問題化したとのことであるが、その後道路の改良によって下火になったという。当時、我が国で特許出願された泥除けのうち、英国の特許公報に掲載されたものと同一だとして却下された事例が多くあったとのことであった。   泥はねの被害は、自動車の増加に従って多くなり、盛んに新聞で取り上げられた。警視庁は、大正10年4月1日から自動車に泥除けを強制的に装備させ、違反者には科料処分で処罰することにした。これに多くの府県がならった。   その後、昭和3年7月3日警視庁令第28号「自動車取締令施行細則」では 第21条 自動車ニハ面ノ長車輪ノ直径ノ3分ノ2以上高15糎以上ノ泥除ヲ備フヘシ、泥除ハ路面トノ距離6糎以内ニ之ヲ取付ケ、翩翻又ハ廻転セサルモノタルコトヲ要ス 第81条4項 汚水、泥土等ヲ飛散セシムル虞アルトキハ第21条ニ規定スル泥除ヲ装置スルコト  と強化し、さらに、同8年10月30日警視庁令第42号「自動車取締令施行細則」では、第10条、第43条で、同3年第28号規定の2箇条と同一の内容を規定している。   この細則が準拠した昭和8年の「改正自動車取締令」第19条は、「地方長官ハ自動車ニ依リ汚水、泥土ヲ飛散スルノ虞アル場合ニ於ケル泥除ノ備付ヲ命ズル規定ヲ設クルコトヲ得」と定めている。   泥除けは汚水泥土を飛散する虞のない場合でも備えるべきもので、「備う」とは、何時でも泥除けを取り付けできる用意をもって携帯する意味であると、同9年、大審院の判決は示している。   その後、昭和13年10月5日内務省令第35号による「自動車取締令」の改正では泥除装置の緩和がみられている。その趣旨として主要幹線道路、市街道路の鋪装化の進展、泥除装置の形式化に注目し、舗装区間の装置を免除する代わりに、未舗装の場合は速度を緩めるなど運転者の注意を求めたのである。   ところで、戦後15年を経た昭和35年でも、泥はね被害は依然として問題となっていた。京都市や堺市の住民から衆議院議長に提出された「自動車に泥除装備に関する請願」の要旨をご紹介しよう。   近時自動車の交通は急激に増加しているが、道路整備はこれに伴わず、これがため雨天の時は泥水汚水をはねとばし、みぞれの頃、雪解けの頃の汚水の飛散は全くひどいものであり、また晴天の日は小石を飛散させて、通行人はもとより、沿道の民家は非常に困惑しており、今日においては不愉快というよりも怨嗟の声になりつつある。ついては、近代生活に欠くべからざる自動車の円満なる発達は、この泥除けを放任しておいては絶対に期し得られないので、自動車に対する泥除けの強制装着をすみやかに実施するよう法律を改正されたい。   昭和35年といえば、「道路交通法」が成立した年である。当時は、1万円札の発行に象徴される岩戸景気、マイカー時代の幕開け、神風タクシー・カミナリ族の横行、そして交通事故死傷者うなぎ登りの頃であった。この請願には、余りにも早い自動車の普及に追いつけない道路の姿が映し出されているのである。 参 考 文 献 第1話関係  愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史』第2巻、愛知県警察本部、1973.  「官報」第1990号、昭和8年8月18日.  久山秀雄「救急自動車に就いて」『警察協会雑誌』No.411・412、昭和9年10・11月号.  澤田祐介『救急119番物語』荘道社、2001.  消防庁編『2001版 消防白書』(株)ぎょうせい、2002.  大霞会編『内務省史』第2巻、地方財務協会、1971.  高木太『消防と救急の歴史に学ぶ 21世紀の幕開け』近代消防社、1999.  日本赤十字社編『日本赤十字社社史稿』第5巻、1969.  日本赤十字社大阪府支部編『赤十字の旗なにわに百年』1989.  日本消防協会編『日本消防百年史』第3巻、1984.  水野薫「帝都に於ける救急施設の概要」『警察協会雑誌』No.430、昭和11年3月号. 第2話関係  植村達男「自動車と自動車保険の社会史〜明治・大正篇〜」『損保企画』1991年3月号.  植村達男「自働車保険の時代」『インシュアランス』19831月1日号.  植村達男「自動車保険今昔物語」1994、第1表.  植村達男「大日本自動車保険株式会社」日本リスクマネジメント学会関東部会報告資料、   1995年1月21日、専修大学.  清水重雄『道路交通整理論』松華堂書店、1931.  自動車工業会編『日本自動車工業史稿 (2)』1967.  柴官六「自動車事故と保険」『警察協会雑誌』No.415、昭和10年2月号.  日本統計協会『日本長期統計総覧』第2巻、1988.  柳田諒三『自動車三十年史』山水社、1941。復刻版、柳田勇彦、2000. 第3話関係  片野真猛『交通事故判例類集』巌松堂書店、1937.  自動車工業会編『日本自動車工業史稿 (2)』1967. 第4話関係  小野寺季六「騒音に就いて」『警察協会雑誌』No.432、昭和11年5月号.  岡本富三郎・三橋珍雄「自動車取締令の改正」『警察協会雑誌』No.462、昭和13年11月号.  「官報」第1990号、昭和8年8月18日.  片野真猛『交通事故判例類集』巌松堂書店、1937.  「各種自動車泥除器解説」『モーター』No.71、大正8年6月号.  桑原幹根「殺人的騒音時代」『警察協会雑誌』No.356、昭和5年4月号.  「高声ノ「ラジオ」蓄音機取締ニ関スル件」『警察協会雑誌』No.454、昭和12年3月.  「騒音警音器廃止に就いて」『警察協会雑誌』No.438、昭和11年11月号.  自動車工業会編『日本自動車工業史稿 (2)』1967.  「第34回国会衆議院地方行政委員会議録附録」1960.  東京都編『東京市史稿 市街編 第78』1987.  長崎県警察史編集委員会編『長崎県警察史』下巻、長崎県警察本部、1979.  内閣統計局『日本帝国統計年鑑 21回』1902。復刻版、東京リプリント出版社、1964.  原仙吉「自動車取締令改正の要旨」『警察協会雑誌』No.398、昭和8年9月号.  兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史』明治大正編、兵庫県警察本部、1972.  久合田勉『馬学蕃殖育成篇』養賢堂、1943.  堀江専一郎「当局及当業者に望む」『モーター』No.93、大正10年4月号.  「簑原式泥除け完成」『モーター』No.74、大正8年9月号.    諸口忠次『くるま社会の夜明け』さやま市民文庫刊行会、1987.