第1編 前 史 明治元年〜昭和20年(1868〜1945) 第3章 道路交通事故とその対策 第1節 明治期における交通事故と防止対策 第1 交通事情概観 (1) 交通ルールと混合交通 @ 交通ルールの未成熟   明治初年の東京における通行人の様子について、大森貝塚の発見で有名なエドワード・S・モース(1838〜1925)は、次のように述べている。   東京のような大きな都会に、歩道が無いことは奇妙である。往来の地盤は固くて平らであるが、群衆がその真ん中を歩いているのは不思議に思われる。人力車が出来てから間がないので、年とった人々はそれを避けねばならぬことを、容易に了解しない。車夫は全速力で走って来て、間一髪で通行人を轢き倒しそうになるが、通行人はそれをよけることの必要を知らぬらしく思われる。乗合馬車も出来たばかりである。これは屋根のある四方開け放しの馬車で、馬丁がしょっ中走っては、人々にそれが来たことを知らせる。反射運動というようなものは見られず、我々が即座に飛びのくような場合でも、彼らはぼんやりした形でのろのろと横に寄る。   明治初年における東京の道路風景を、モースの目はこのようにとらえていた。歩道車道の区別がないことや、道路通行の無秩序状態が、彼には不思議でならなかったのである。   同様な問題を、明治7年の朝野新聞(11.8)に、東京在住のペンネーム愛車翁という人物が投書している。この場合は通行人との心の動きが伝わってきて面白い。   それは「最近、馬車・人力車によって死傷者が出るようになっているが、これは車だけの責任ではなく、歩行者の側にこそ大いに問題がある」との趣旨で、次のような文章である。   「余輩、近頃、人力車ニ乗ラヌ日ハ無ク、馬車ニ乗ラヌ月無シ。何レノ方角ニテモ往来ノ者尽ク不注意ニシテ、且ツ執拗ナリ。車夫声ヲ掛ケテモ少シモ避ケズ。余輩、車上ヨリ又更ニ詞ヲ発スルコト有ルニ至ル。ソノ緩慢ナルコト言語ニ絶シ、甚ダシキニ至ッテハ悪口シテ去ル者多シ。」   人力車・馬車など、初めてのクルマ時代に突入して、先ず、問題になったのは狭隘な道路事情とともに、車両に関する交通ルールの未成熟さであった。   このような日本人の歩行習慣は、東京だけでなく各府県にとっても悩みの種。交通事故防止のために、たびたび布令を行っている。例えば、岩手県の場合。「車夫がかけ声を掛けながら通るときは、往来の者は脇をによけて通さなければならない。ぐずぐずして怪我でもした時は、本人の落度となる」という警告を明治7年3月30日(県達第63号)で出している。習慣は急に改まるものではないが、本人の落ち度と決められると聞き逃すわけには行かない。  A 混合交通   明治期における諸車の増加については、すでに第1章で述べた通りであるが、それと共に、都市人口の増加(第9表)は、雑踏と過密の混合交通の状況をさらに進行させる要因であった。さらに、大量輸送機関である馬車鉄道、路面電車の発達は、その度合いをますます大きくしていったのである。 (2) 交通事故統計から明治期を二分   これらの状況が、道路上の交通事故を次第に増大していったと考 第9表 主要都市人口の推移 │ │明治31年 │明治36年 │明治41年 │ │ │ 人  口 │指 数│ 人  口 │指 数│ 人  口 │指 数│ │東  京  市│ 1,440,121│ 100│ 1,818,655│ 126│ 2,186,079│ 152│ │横  浜  市│ 193,762│ 100│ 326,035│ 168│ 394,303│ 204│ │名 古 屋 市│244,145 │100 │288,639 │118 │378,231 │155 │ │大  阪  市│821,235 │100 │995,945 │121 │1,226,647 │149 │ │神  戸  市│215,780 │100 │285,002 │132 │378,197 │175 │ 資料:『日本長期統計総覧』第1巻、168頁 グラフ@ 自他の過失により諸車に轢かれた死傷者    資料:警視庁統計書   えられるが、残念ながら、明治期における全国的統計が見られないので、東京府の事例をとってみることにする。   東京府における交通事故死傷者に関する状況を、『警視庁統計書』所収の @ 他の過失により諸車に轢かれた死傷者統計(明治11〜45年) A 自己の過失により諸車に轢かれた死傷者統計(明治11〜45年)  をグラフ(1)であらわして見た。   これによると、東京府における交通事故の状況は、明治30年代中期を境として大きく変化しているのが理解できる。即ち、人力車、馬車、荷牛馬車、荷車そして馬車鉄道など人力・畜力による輸送手段の時代から、路面電車、そして明治末期の自動車・オートバイが参入する機械化時代への展開である。   ここでは、路面電車の開業した明治36年を基点として、明治期を前・後期に二分し、交通事故の様相、そしてその防止対策について述べることにしたい。   第2 明治前期(明治元〜36年)にお ける交通事故と防止対策 (1) 交通事故統計   この時期における東京府下の交通事故は、第10表で示すように大きなものではない。   明治30年を例にとって見よう。その年における府下人口は202万人。諸車の保有台数は人力車が4.3万台、乗用馬車640台、荷車(荷馬車、牛車、荷車計)が10.4万台である。 第10表 他者による過失及び自己の過失    により諸車に轢かれた死傷者統計 │ 年 次 │ 他の過失 │ 自己の過失 │ │ 明治11年│ 54(1)│ 4( 2) │ │ 明治15年│ 41(2)│ 8( 2) │ │ 明治20年│ 46(3)│ 63( 1) │ │ 明治25年│ 84(6)│ 68( 5) │ │ 明治30年│ 101(8)│ 36(26) │ │ 明治35年│ 460(7)│ 67(29) │ 資料:『警視庁統計書』「他の過失」は「被殺傷者原因別」中の「車輪に轢ラレシ」統計による。そのうち「殺サレントし」は除く。   同30年における「他の過失」及び「自己の過失」の死傷者の内訳は、次の通りである。   「他の過失」における死傷者は、乗用馬車による者が47名(死者5名)、荷車による者35名(死者3名)、人力車は18名、自転車1名(ともに死者なし)である。   一方、「自己の過失」による場合は、汽車29名(死者26名)、馬車2名、荷車4名(ともに死者なし)、人力車・自転車ともに死傷者なしとなっている。 (2) 交通事故防止対策 @ 「違式註違条例」による処分   以上のような状況から、交通取締りに当たっては、交通事故防止の観点もさることながら、交通秩序保持の面を重視していたとみられる。例えば、明治11年の場合。現在の「軽犯罪法」に当たる「違式註違条例」中、交通関係の条項に違反して科料・拘留に処せられた人数は次の通りである(資料は「明治11年東京警視本署事務年表」による)。    無灯ニテ諸車ヲ挽ク者        994人    馬車留ノ道路等ヲ犯ス者       286人    車馬ヲ往来ニ置キ行人ノ妨ゲヲナス者 234人    人力車挽等強イテ乗車ヲ勧ムル者   130人    車馬等ヲ馳駆シテ人ヲ触倒スル者    96人    街上ニ於イテ高声ニ唱歌スル者     78人    荷車等往違ノ節、人ニ迷惑ヲ掛ケル者  63人    斟酌ナク馬車ヲ疾駆スル者       55人    酔ニ乗ジ車馬等ノ妨ゲシ者       33人    無灯馬車ニテ通行スル者        23人 A 「違警罪即決例」による処分   その後、明治13年、旧刑法が制定された。「違式註違条例」に定められた罪目のほとんどが、その第4編の違警罪として引き継がれ、同条例は廃止された。そして、違警罪を犯した場合、「違警罪即決例」に基づいて拘留・科料に処分されているが、それらの中で、交通関係の各取締規則に違反した状況を、第11表に見てみよう。   全体的に見ると、違反件数は明治20年代から次第に減少傾向にある。その傾向について『明治27年警視庁統計書』の「違警罪」欄に次の記述がある。「或ハ 第11表 違警罪即決件数の推移@(明治23年〜35年) │地方所定違警罪違反(公布年月日) │明治23年│明治25年│明治27年│明治31年│明治35年│ │街路取締規則(明治11年1月16日) │ 4,895│ 5,514│ 3,405│ 1,918│ │ │道路取締規則(明治33年6月21日) │ −│ −│ −│ −│ −│ │人力車営業取締規則(明治22年4月26日)│ 9,051│ 24,330│ 22,256│ 15,687│ 56,140│ │乗合馬車営業取締規則(明治22年10月8日)│ 935│ 1,759│ 1,886│ 153│ 282│ │荷車取締規則(明治24年1月21日) │ −│ 2,969│ 1,613│ 915│ 14,549│ │自転車取締規則(明治31年6月10日) │ −│ −│ −│ 15│ 4,337│ │ 合       計 │ 14,881│ 34,572│ 29,160│ 18,688│ 75,308│ 資料:警視庁事務年表、警視庁統計書 云ウ。人民漸ク無規則ニ慣習シ、随ッテ違反ニ至ラサル者逐年多キヲ加ウルノ結果ニ非ズヤト、其レ或ハ然ラン乎」と、民衆の規則馴化をあげている。   しかし、同35年になると違反件数が急増しているが、それは人力車及び荷車取締規則違反の増加によるものである。同31年から、人力車夫の中で失業者が参入しやすい借り車夫が漸増しているので、荷車引き労働者も同様な傾向と考えられる。規則に馴れない新米車夫の増加と競争の激化である。   しかしながら、簡易な手続きで行われる違警罪即決処分は、その趣旨からはずれて、犯罪捜査のための身柄拘束手段として濫用される傾向があったので、単なる交通関係取締規則違反だけなのか、留意する必要はある。   この明治31年以降の違警罪即決件数増大傾向は道路交通問題に、暗影を投げかけたものと思われる。その傾向への対策の一つとして、警視庁告示第9号(明治32年2月3日)は、次のような内容を強調している。「最近、交通量の増大によって、しばしば道路が混雑し、諸車衝突事故など通行上の危険が少なくない。交通事故防止のために、街路取締規則や人力車、乗合馬車など諸車の取締規則には、いろいろな注意規定が設けられている。これらの規定がよく守られていると、事故は防げるものだ」として、人道・車馬道通行の厳守や牛馬・諸車の車馬道左側通行のことなど、最も基本的な5カ条の項目を挙げて注意を呼びかけている。  B 左側通行   明治33年6月21日、警視庁は「道路取締規則」を公布(同15年制定の街路取締規則は廃止)するが、その趣旨をさらに徹底させる為に、同34年4月18日、告諭第3号で歩行者の左側通行を明示した。当時、左側通行はなかなか一般に馴染まなかったようで、当局はその後も再三にわたって指導や取締りを強化している(次節参照)。なお、告諭のPRとしては、賑やかな通りに掲示するほか、警視総監から軍隊、諸官庁へ、警察署長から各学校、工場へ、消防署長から消防組へ、人力車夫に対しては組合取締を警察署に召集して説明するなどいろいろな方法をとっている(東京日日新聞、明治34年4月19日)。 第3 明治後期(明治37〜45年)にお  ける交通事故と防止対策 (1) 交通事故統計   前期に引き続き、他者及び自己の過失によって諸車に轢かれた死傷者の統計を第12表に示す。既に述べたように明治30年代後半から死傷者が急増しているが、その内容をみると「他者の過失により諸車に轢かれた死傷者」の場合、「電車・自動車・自転車による事故合計」と「乗用馬車・人力車・荷車による事故合計」との割合が、同35年の33:67から、同38年に逆転し、大正元年(明治45年)には70:30となっている。一方、「自己の過失により諸車に轢かれた死傷者」の場合は、同35年から「汽車・電車・自動車・自転車による事故合計」が「乗用馬車・人力車・荷車による事故合計」を上回り、大正元年(明治45年)には93:7の割合となっている。すなわち、乗用馬車・人力車・荷車などの諸車による事故が減少傾向にあるのに対して、鉄道、電車、自動車そして自転車などによる事故の増加が顕著となっている。   上記の事故死傷者数のなかで、特に顕著な比率をしめているのは電車、汽車、自転車であり、大正期に入っての事故の主役となる自動車はまだ台数が少なく、その兆しをみせている段階である。   電車については、上記の統計数字と整合しないが、『警視庁統計書』に「電気鉄道事故」という統計がある。これによると電車同志、諸車、歩行者との衝突事故とは別に、飛び乗り、飛び降り、線路横断などによる死傷者が極めて多い。例えば、大正元年、電車事故死傷者 第12表 他者による過失及び自己の過失により諸車に轢かれた死傷者統計   (括弧内は死者) │ │明治35年│明治37年│明治39年│明治41年│明治43年│大正元年│ │ │ 460│ 793│ 1,488│ 1,062│ 1,235│ 1,554│ │他の過失 │ │ │ │ │ │ │ │ │ (7)│ (6)│ (23)│ (16)│ (21)│ (20)│ │ │ 67│ 112│ 483│ 773│ 815│ 1,079│ │自己の過失│ │ │ │ │ │ │ │ │ (29)│ (35)│ (48)│ (38)│ (38)│ (48)│ 資料:『警視庁統計書』  総数1,479人(うち死者24人、以下同じ)のうち、線路横断によるものが44%の656人(12人)、飛び乗りによる者106人(0人)、7.2%、飛び降りによる者269人(3人)、18.2%、その他448人(9人)と、70%をこれら3点の行動が占めている。 (2) 交通事故防止対策   その後、事故防止のための交通警察体制も次第に強化されていった。担当部署は、内務省警保局警務課と府県の保安課である。警視庁では、明治39年(1906)4月に交通課を設置、同43年には東京市内の重要警察署に交通専務員58人を配置、その後、次第に増員されていった。    @ 交通取締り   その後の車両交通の発達とあいまって、交通死傷事故はますます増大の傾向にあることから、明治39年2月、警視庁は、次のような内容の告諭第2号を発して注意を喚起している。   「交通事故の発生は、車両を運転する者の不注意や規則違背などに帰せられることが多いが、一方、一般公衆に原因があることも少なくはない。当局としては、出来る限りの予防策を講ずるが、一般の規則遵守がなければ如何とすることもできない。是非、自分で習慣化して危険防止を図って欲しい」として、11カ条の注意事項を挙げている。その内容は、左側通行の厳守、電車の飛び乗り・飛び降りの際の注意、幼児の道路遊びの監督など多方面にわたっている。   それまでも、増加する電車事故の防止を図るために、警視庁は電気鉄道責任者を招致して、警告することもたびたびあったが、この告諭ではさらに市民に対して注意を求めている。明治36年の電車開業に際して制定した「電気鉄道取締規則」(同年8月10日警視庁令第32号)では「乗客ノ乗リ終リ又ハ降リ終リタル 第13表 違警罪即決件数の推移A(明治37年〜43年) │地方所定違警罪違反(公布年月日) │明治37年│明治39年│明治41年│明治43年│ │道路取締規則(明治33年6月21日) │ 52,502│ 36,836│ 38,935│ 21,001│ │人力車営業取締規則(明治22年4月26日)│ 50,572│ 33,393│ 25,135│ 15,114│ │乗合馬車営業取締規則(明治22年10月8日)│ 238│ 164│ 41│ 21│ │荷車取締規則(明治24年1月21日) │ 14,624│ 13,550│ 19,086│ 11,718│ │自転車取締規則(明治31年6月10日) │ 3,536│ 2,533│ 4,299│ 5,631│ │電気鉄道取締規則(明治36年8月10日) │ 1,927│ 1,731│ 2,012│ 3,225│ │自動車取締規則(明治40年2月19日) │ │ │ │ 24│ │ 合    計 │ 123,399│ 88,207│ 89,508│ 56,734│  資料:警視庁統計書  後ニ非サレハ行車ノ信号ヲ発スヘカラサルコト」(第32条)との規定を定めていたが、乗客の飛び乗り飛び降りについては特に触れていなかった(「東京朝日新聞」明治36年8月25日)。    明治30年代後半に入って、「違警罪即決例」違反件数全体の下降傾向のなかで、電気鉄道及び自転車取締規則違反者が、急速に増大しているのが特徴的である。その背景には、年々増加を続ける乗客輸送と路線拡張など電気鉄道営業の好調、そして世界的な価格低落と国産車の生産増加による自転車の急速な普及があった。この両者を除けば、全体的には減少傾向をたどっている。      A 府県における左側通行の指導   前述した左側通行に関する警視庁の方針にみならって、左側通行の実施指導を図る府県が出てきている。   明治34年5月、大阪府は、特に告諭をもって左側通行の順守を呼びかけた。警視庁が、同年4月、「告諭第3号」で左側通行について明確な指導を打ち出した直後である。   その内容の2項目については全く同様なもので、 一 人道車馬道の区別ある場所に在りては各人道の左側を通 行すること 一 人道車馬道の区別なき場所に在りては其の両側を通行す ること   であった。   同38年7月、神奈川県は、示令第39号をもって「左側通行指導方」を定め、横浜市内各警察署長に通達した。その要点は「横 第14表 自動車運転者移動年別(警視庁管内) │ 年 度 │明治40年│明治41年│明治42年│明治43年│明治44年│大正元年│大正2年│ │雇入届数 │ 21│ 29│ 49│ 66│ 168│ 337│ 317│ │解雇届数 │ 0│ 3│ 9│ 43│ 74│ 175│ 231│ │差引増減数│ 21│ 26│ 40│ 23│ 94│ 162│ 186│ │歳末現在数│ 21│ 47│ 87│ 110│ 204│ 366│ 552│ 資料:原田九郎「自動車運転手になるまで」『モーター』大正4年10月号  浜市街地ノ如キ繁華ナル場所ニ於テ交通ノ秩序ヲ維持シ危険ヲ防止センニハ、一般人民ヲシテ左側通行ノ良習ヲ馴致セシムルヲ以テ最モ捷径ナリトス」ということにあった。   富山県は、同43年10月、県令第58号で「道路ノ通行ハ其ノ左側ニ依ルベシ。諸車又ハ牛馬ヲ使用シテ前項ニ違背シタル者ハ科料ニ処ス」と規定した。   同45年7月、青森県警察部では、取りあえず青森市内大通りに左側通行を実施することを決定し、同月17日から実施するように各警察署へ通牒している。しかし、なかなか市民に理解されず、実施は困難であろうと新聞は危惧していた。 B 制札・榜標   明治初期以来、「通行止め」など交通に関する禁止事項を具体的に示すため、官公署が現場に設けていた立札を「制札」と称していた。しかし、この制札の様式も官公署ごとに様式もまちまちで、その意味も統一されていなかった。   この傾向を改め、且つ道路利用者がわかりやすいようにするために、明治32年6月、警視庁は、8様式の「通行止め」制札を定めた「制札制文例」を制定して、各警察署長に通達した。その後、これらの制札を保全・尊重させるために、同41年9月に公布された内務省令第16号「警察犯処罰令」のなかに、次の条文を入れて、汚損したり、撤去したものの処罰を明示した。   官公署ノ榜示、若ハ官公署ノ指揮ニ依リ榜示セル標条ヲ犯シ又ハソノ設置ニ係ル標条ヲ汚涜シ若ハ撤去シタル者ハ三十日未満ノ拘留マタハ二十円未満ノ科料ニ処ス   この省令以後、従来「制札」と呼ばれていた「官公署が設けた立て札」は、新しく「榜標」と称するようになった。   この様式は、昭和9年の「交通標識統一ニ関スル件」の告示まで存続している。  C 運転手養成   明治44年当時、東京府下の自動車は210台。それに対する運転手は第14表に示すように204名である。しかしながら自動車のオーナーは続々とあらわれるので、運転できる者は文字通りの引っ張りだこ、お抱え運転手として高給で迎えられた。同37、8年当時、一般の会社員の月給は14〜15円から30円程度であるのに対して、運転手は最低45円、しかも手当やチップなど1か月、50円に達するものも稀ではなかった。   従って、自動車運転手養成所の計画も2、3にはとどまらなかったが、肝心の教師の希望者がなかったという。同43年6月、東京有楽町の吉田眞太郎商店では、自動車運転修技所を設けて運転手教育を開始したが、組織だったものにはならなかった。そこで、自動車の所有者のところに助手として勤め、運転手のそばに乗って見習うか、自動車会社に就職して指導を受けるのが普通であった。   明治40年に制定された東京府の「自働車取締規則」では、運転手を雇い入れる場合、雇い主が警視庁に願い出て免許証を受けることになっていた(14條)ので、自分で下付を願い出ることはできなかった。営業の場合は「運転手ニ対シテハ特ニ試験ヲ行フモノトス」とし、自家用車の場合は「必要アリト認メタルトキハ試験ヲ行フモノトス」とされていたが(33條)、いつ頃からどのような方法で行われたかはっきりしていない。運転手試験の確立は、大正8年の「自動車取締令」の制定を待たなければならなかった。 第2節 大正・昭和戦前期における交通事故と防止対策 第1 交通事情概観 (1) 混合交通の進展   大正期に入り、旧来の人力車、馬車、荷牛馬車、荷車など人力、畜力の輸送手段に加えて、自動車、オートバイ、そして急増中の自転車が参入してきた。ことに、第一次大戦や関東大震災後の自動車と 第15表 全国諸車保有台数の推移 │ 年  度│ 人力車 │ 乗用馬車 │ 荷牛馬車 │ 荷  車 │ 自動車 │ 自転車 │ │ 大正元年│ 134,232│ 8,733│ 213,351│ 1,775,751│ 535│ │ │ 大正5年│ 112,687│ 7,976│ 228,644│ 1,880,309│ 2,116│ │ │ 大正10年│ 106,861│ 5,827│ 321,494│ 2,203,406│ 13,070│ │ │ 昭和元年│ 61,949│ 3,308│ 379,707│ 2,148,555│ 51,108│ │ │ 昭和5年│ 42,635│ 2,175│ 407,604│ 1,807,788│ 111,844│ │ │ 昭和10年│ 20,187│ 1,083│ 412,958│ 1,569,460│ │ │ │ 昭和13年│ 13,497│ - │ 423,054│ 1,422,133│ │ │ 資料:『日本帝国統計年鑑』より作成。自動車には自動自転車を含む。  自転車の増勢は著しいものがあり、道路の混合交通の度合いは一段と深まってきた。   一方、自動車、自転車及び鉄道・路面電車の発展につれて、これまで道路交通の主役であった人力車と乗用馬車の衰頽は大きく、乗用馬車は昭和12年、人力車は同13年で『日本帝国統計年鑑』の「諸車統計」から姿を消すにいたる。しかしながら、荷牛馬車は依然として増加を示し、発展する鉄道貨物の集配業務などによる需要が強かったものとみられる。また、荷車は昭和期に入り漸減するが、その因として、自転車や、自転車にリヤカーを結合して運送する方法の影響も、否定はできない。 (2) 都市への人口集中   昭和2年4月号の「道路の改良」に、「交通事故と其の防止」と題して、警視庁の藤岡長敏交通課長が市内で講演した内容を掲載している。彼は、そのなかで「交通事故の多くは、交通混雑する場所で発生する」と述べて、その混雑の原因について次の3点を取りあげている。   その一つは、云うまでもなく交通機関の発展。他の二つに、都市人口の増加と、高層ビルの増加をあげている。都市人口の増加が交通面に及ぼす影響は特に説明を要しないがとして、高層ビルについては二つの問題を指摘する。一つは人口の集密点の形成による道路への交通上の圧力、そして職住分離による定時的な往復交通の付加、いわゆる朝夕のラッシュアワーの発生であると説く。   日露戦争以降、日本の著しい経済発展は都市への人口集中を促進した。いわゆる四大工業地帯が形成され、東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸が六大都市として 第16表 六大都市のの人口の推移    単位:万人 │ 年  次│ 東  京│ 横  浜│ 名古屋 │ 京  都 │ 大  阪│ 神  戸│ │ 明治36年│ 181.9│ 32.6│ 28.9│ 38.1 │ 99.6 │ 28.5│ │ 大正2年│ 205.0│ 39.8│ 45.2│ 50.9 │ 139.6 │ 44.2│ │ 大正14年│ 199.6│ 40.6│ 76.9│ 68.0 │ 211.5 │ 64.4│ │ 昭和10年│ 587.6│ 70.4│ 108.3│ 108.1 │ 299.9 │ 91.2│ 第17表 東京市内交通機関別輸送人員・分担比率の推移   単位:万人 │ │輸送人員計│市  電│省  電│地 下 鉄│私  鉄│バ  ス│タクシー│ │昭和元年│ 88,161│ 44,119│ 24,318│ −│ 12,521│ 5,223│ 1,875│ │ │ 100%│ 50.1%│ 27.6%│ −│ 14.3%│ 5.9%│ 2.1%│ │昭和5年│ 110,674│ 36,974│ 32,246│ 1,004│ 19,006│ 11,933│ 9,511│ │ │ 100%│ 33.4%│ 29.1%│ 0.9%│ 17.2%│ 10.8%│ 8.6%│ │昭和10年│ 136,149│ 29,419│ 36,643│ 2,896│ 21,433│ 24,941│ 20,858│ │ │ 100%│ 21.6%│ 26.9%│ 2.1%│ 15.7%│ 18.3%│ 15.3%│ │昭和15年│ 226,074│ 50,753│ 68,194│ 9,717│ 47,272│ 39,548│ 10,591│ │ │ 100%│ 22.4%│ 30.2%│ 4.3%│ 20.9%│ 17.5%│ 4.7%│  資料:『東京都交通局60年史』797頁  注:この項においては、主として山本弘文編『交通運輸の発展と技術革新』を参照した。 発展する。   第16表によって、明治36年から昭和10年まで、32年間における上記都市の人口の変化を見てみよう。関東大震災による一時的な減少があったものの、東京が3.2倍、同じく横浜市が2.2倍。名古屋市が3.8倍、京都市、大阪市、神戸市は、それぞれ2.7倍、3.0倍、3.2倍の増加を示している。   大都市への人口集中は、都市域周辺への拡大を促し、都市内と都市周辺における交通需要を急速に拡大させた。都市間及び都市郊外を結ぶ高速電車網が発達した。大都市の市街部では、従来の路面電車が公共交通の中心であった。 (3) 自動車交通の発達   第一次大戦の好況による乗用車台数増加、そして、関東大震災復興に際しての乗合自動車、貨物自動車の活躍などを契機として、自動車交通の発達はめざましいものがあった。ことに、都市部におけるバス、ハイヤー・タクシーの進出は大きかった。その背景には、フォード、GM など米国車メーカーの日本進出と補修用品供給やガソリンのスタンド販売網の充実など、自動車普及促進の環境が整い始めたことがある。   昭和元年から同10年における、東京市内の各交通機関の輸送分担状況を、第17表に見てみよう。この10年間で、輸送人員は8億8200万人から13億7400万人へと、1.6倍に増加している。そのなかで、路面電車は50.1%から21.4%と急速に低下しているのに対し、タクシーは2.1%から15.2%へ、バスは5.9%から17.8%に上昇している。同10年におけるこの両者の分担率は、全輸送人員の33.6%を占めるに至り、自動車交通の発展ぶりを示している。  (注:この項においては、主として山本弘文編『交    通運輸の発展と技術革新』を参照した。)        第2 交通事故 (1) 交通事故統計   この時期における全国の交通事故統計は、第1回から18回までの、内務省警保局編「警察統計報告」に示されている。大正13年から昭和16年まで、18年間にわたる統計である。この全国の交通事故 第18表 全国交通事故及び自動車による事故統計 │ │ 交 通 事 故 総 数 │ 自動車(自動自転車、特殊・小型自動車を含む) │ │ │ 件 数│ 死 者│ 負傷者│ 件 数│ 比 率│ 死 者│ 比 率│ 負傷者│ 比 率│ │大正13年│ 44,988│ 1,933│ 25,328│ 11,630│ 25.9│ 360│ 18.6│ 7,646│ 30.2│ │大正14年│ 44,246│ 1,868│ 27,290│ 14,445│ 32.6│ 348│ 18.6│ 9,692│ 35.5│ │昭和元年│ 42,226│ 2,035│ 30,282│ 15,272│ 36.2│ 427│ 21.0│ 11,358│ 37.5│ │昭和2年│ 49,115│ 2,083│ 33,222│ 22,011│ 44.8│ 509│ 24.4│ 15,356│ 46.2│ │昭和3年│ 55,533│ 2,321│ 36,854│ 30,418│ 54.8│ 642│ 27.7│ 20,483│ 55.6│ │昭和4年│ 58,077│ 2,448│ 39,633│ 32,232│ 55.5│ 872│ 35.6│ 23,006│ 58.0│ │昭和5年│ 63,411│ 2,536│ 43,621│ 38,706│ 61.0│ 902│ 35.6│ 26,836│ 61.5│ │昭和6年│ 68,823│ 2,572│ 46,338│ 47,221│ 68.6│ 1.014│ 39.4│ 31,430│ 67.8│ │昭和7年│ 71,221│ 2,801│ 49,259│ 50,469│ 70.9│ 1,152│ 41.1│ 34,936│ 70.9│ │昭和8年│ 64,643│ 2,921│ 46,959│ 45,054│ 69.7│ 1,310│ 44.8│ 32,144│ 68.5│ │昭和9年│ 69,342│ 3,226│ 50,204│ 48,861│ 70.5│ 1,489│ 46.2│ 34,355│ 68.4│ │昭和10年│ 66,415│ 3,549│ 49,227│ 45,884│ 69.1│ 1,687│ 47.5│ 33,475│ 68.0│ │昭和11年│ 59,444│ 3,484│ 45,323│ 40,737│ 68.5│ 1,676│ 48.1│ 30,778│ 67.9│ │昭和12年│ 55,958│ 3,633│ 43,861│ 40,020│ 71.5│ 1,888│ 52.0│ 31,113│ 70.9│ │昭和13年│ 44,303│ 3,675│ 35,108│ 33,921│ 76.6│ 1,902│ 51.8│ 24,154│ 68.8│ │昭和14年│ 35,634│ 3,265│ 29,317│ 24,423│ 68.5│ 1,602│ 49.1│ 19,705│ 67.2│ │昭和15年│ 30,777│ 3,274│ 26,417│ 20,052│ 65.2│ 1,338│ 40.9│ 17,011│ 64.4│ │昭和16年│ 24,082│ 2,832│ 21,042│ 13,847│ 57.5│ 1,153│ 40.7│ 12,146│ 57.7│  資料:内務省警保局編「警察統計報告」  統計に、参考として、そのなかに記載された自動車の加害事故統計を加えたのが、第18表である。  この表に示されるように、全国の交通事故件数の最高は昭和7年の7万1000余件、死者最高は同13年の3,675人、負傷者は同9年の5万人余である。そして、その事故中に含まれた「自動車による事故件数」の最高は全国最高と同じく同7年の5万件余で、全体の71%を占める。死者最高についても同様に、同13年の1,902人、全体の52%、負傷者は件数の場合と同じ同7年の3.5万人、全体の71%を数えている。   平成12年における交通事故死者は9,066人、車両保有台数は8,925万台である。昭和13年の死者数は、平成12年の41%に達する。しかも、当時の自動車台数はまだ僅かに22.4 万台で、平成12年の0.25%にしか過ぎなったのである。   これらの数字から、いかに当時の交通事故、特に自動車の加害事故が大きかったことか、改めて驚きを禁じ得ないものがある。次に掲げたグラフ(2)によって、全国交通事故件数と自動車による交通事故件数とは、同様の動きを示していたことを知ることができる。   東京府で発生した自動車による交通事故件数は、全国における総件数のうち、どれほどを占めているだろうか。大正13年においては全国1.2万件のうち58%、昭和5年は3.9万件の44%、同10年は4.6万件の45%と、いずれも全国総件数の半数前後を占めていることが知られる。 グラフA全国交通事故・自動車事故及び自動車保有台数の推移  資料:「内務省警察統計報告」。自動車台数は「日本調気筒軽装欄」第2巻    そこで、全国統計の十分でない大正期の場合、全国に於ける自動車による交通事故件数の推移の傾向を、警視庁統計を参考にしてみることにした。   グラフ(3)は、警視庁管内における車両衝突事故件数総数と自動車による事故件数の推移である。両者は年を追う毎にともに増加し、特に関東大震災の大正12年から急増している。車両衝突事故総件数に占める自動車事故の割合は、大正初年の約10%から次第に増加して、大震災後は40%を超えている。   全国における自動車による事故件数の動向も、警視庁管内における推移と同様な傾向を示しているものと推測している。 (補遺)警視庁の交通事故統計   昭和6年6〜9月号の自動車専門誌「モーター」に、「交通事故とその防止に就て・ならびにに児童の交通安全に関する13か条」という論考が3回にわたって連載されている。筆者は警視庁交通課交通係長の荒井退蔵である。編集者の注として「本稿は荒井氏多年の経験と研究になるもので、交通協会で発表された貴重な文献」と紹介している。論文は、  1 交通事故の趨勢、  2 交通事故の原因、  3 交通事故の防止方法、  4 小学児童の訓練  5 安全なる交通方法第13か条  の構成となっている。示されている統計は、基本となる件数・死者・負傷者統計に始まり、事故1件当たり車両数、月別・時間別交通事故、年齢別交通事故者、交通事 グラフB 警視庁管内における車両衝突事故と自動車衝突事故の推移 資料:『警視庁統計書』。凡例の「A」は車両衝突事故、「B」はそのうち、自動車衝突事故を表す。    なお、車両衝突事故は、電車衝突事故、自動車衝突事故、諸車衝突事故に分けられている。   故原因別の各種統計を掲出している。まだ昭和始めのこの頃に、多面的に継続・蓄積された統計を駆使して事故傾向を分析し、その防止策を体系的に論じている研究がなされていることに、深く敬意を表したい。 (2) 事故の諸相   「近時市内道路の交通状態が雑然として何んとなく殺気立って来た」という書き出しで始まる「東京市の道路交通近況について」というレポートがある。「道路」大正14年2月号に掲載された森保次という人の筆になるものだ。文章は次のように続く。「何人もが痛感することは………都心地帯では恐怖の念に脅かさるるのは事実だろう。この事実は道路を泥路なりと考えられて居ること、満員電車で業を煮やすこと、何処も彼処も掘り返されていること、円太郎(タクシー)が走り廻ることも原因の一分子には相違なかろうが最大の原因としては、文明の利器と誇り気に、しかも制限以上のスピードを出して飛び回る自動車類の激増したにも拘わず、一般交通道徳が普及せざると、交通整理上充分な施設の無いということが原因の大なるものではないだろうか」。   この文章は当時の状況 @ 関東大震災後の自動車激増と規則違反 A 交通ルール順守の不徹底 B 交通安全施設の不足  を的確に指摘していると思われる。   さて、このような状況下で、各輸送手段における交通事故の傾向について述べることにする。先ず、最初に交通事故件数で上位を占める自動車、自転車、電車からみる グラフC 交通事故総件数に占める上位交通手段事故件数比率の推移  ことにしよう(グラフC)。 @ 自動車(自動自転車、特種、小型を含む)   大正13年における自動車による事故件数は、交通事故総件数の26%に及ぶ約1.2万件、死者、負傷者はそれぞれの総数に対する19%、30%の360人、約8,000人であった。その後、自動車事故は次第に増加して、昭和7年には事故総件数の71%(約5万件)、同様に死者、負傷者はそれぞれ全体の41%(1,152人)、71%(約3.5万人)に達している。そして、日中戦争突入翌年の同13年における自動車事故は、件数が約3.4万件(交通事故件数全体の77%)、負傷者は約2.4万人(同じく69%)と減少を示しているが、死者は1,902人で全体の半分を超えている(52%)。   地域的に自動車による事故件数を上位3位までとってみると、大正13年には東京府(6,747件)、大阪府(813件)、兵庫県(626人)であり、以降その順位は同じであるが昭和10年代に入ると関東・中部・近畿・北九州地方の諸府県へと拡散現象がみられるようになっている。   次に、当事者別の場合はどうであろうか。最も多いのが対歩行者、次に時に変動があるが自転車、自動車相互間という順となる。   自動車事故の発生原因について、大正7年当時の永田警保局長は   @ 道路の不完全、   A 自動車の急激な増加、   B 運転手の不熟練、   C 市民が自動車になれていない    ために回避する方法を知らぬ   D 左側通行が厳守されていない  等々を挙げ、事故防止の方法としては、全国画一の運転手試験を励行し、速度を制限するとともに交通警察を完備させることであると語っている。  A 自転車   めざましい普及を示している自転車による交通事故も極めて多かった。そのうち、変動の多かった死者数は別として、事故件数、負傷者数は下降カーブを描いている。自転車事故件数及び負傷者数の推移をみると、大正13年をそれぞれ100とした場合、昭和7年は65、及び106、同13年は30と61という減少傾向を示している。   自転車による交通事故の発生状況を府県別にみると、大正13年は岡山県がずば抜けて多く、全体の26%(3,915件)。次が東京府の19%(2,903件)、3位が兵庫県の18%(2,828件)、となっている。岡山県の一位は、次年度から524件と急減しているので理解に苦しむが、同県の自転車保有台数は全国9位で、中国地方の他県に比べて特出している状況が背景にはなっていた。昭和13年は東京府が自転車事故件数全体の59%を占めるほど圧倒的な3,614件であり、次いで大阪府の389件、兵庫県218件の順位となつていた。   自転車事故の発生を当事者別に見てみると、対歩行者への事故が最も多く、次いで自動車・オートバイ、そして自転車相互の順となっている。  B 電車   電車事故は、飛び乗り飛び降り、線路横断による事故や停留所が道路上にあることによる車両との衝突事故は多く、自動車、自転車事故に次いで問題が多かった。   大正13年における電車事故件数、死者数、負傷者数はそれぞれ7,170件、393人、5,636人で、交通事故件数、死者数、負傷者数全体に対する割合は、それぞれ16%、20%、22%であった。その後、件数、負傷者数は減少傾向にあるが、死者はかえって増加している。例えば、昭和13年における電車事故件数は4,088件で交通事故件数全体の9%、負傷者も3,371人で同様に10%と減少しているのに対して、死者は633人(交通事故死者総数の17%)と増加している。   大正13年における電車事故件数を府県別に見ると、東京府(2,767件)、兵庫県(1,350件)、大阪府(1,149件)の3府県合計(5,266件)で電車事故件数全体の74%を占めている。昭和13年も同様に東京府(973件)、兵庫県(597件、18%)、大阪府(836件)の合計(2,406件)で、全体の60%に達している。   電車事故による死者は、歩行者が圧倒的に多く、しかも増加傾向を示している。昭和元年と同13年の死者数及び電車事故死者総数に占める割合を比較してみると、同元年の307人、76%から同13年の414人、65%と増加を示している。   参考までに、大正13年2月における警視庁統計によると、同月の電車事故発生177件のうち、11人も死者が出ているが、その原因は次の通りである。    飛び乗り        1    飛び降り        1    車外に体を出して其の他に接触 1    横断          4    軌道通行        1    信号人の不注意     1    飛び込み自殺      2  C 荷牛馬車   大正元年に21.3万台であった荷牛馬車は、その後の漸増傾向はやまず、ことに第一次大戦勃発後の好況を受けて同10年には32万台、昭和元年には38万台、同12年は42万台に達する。   荷牛馬車の加害による事故件数、死者数、負傷者数の推移を見ると、昭和元年の場合はそれぞれ3,630件、137人、2,206人であったが、その後、死者数は変動があるものの事故件数、負傷者数は次第に減少し、同13年には827件、159人、597人となっている。             D 荷車    荷車は明治・大正期を通じて漸増の一途を辿るが、大正11年の222万台をピークとして下降カーブを描き、昭和7年には169万台、同12年に152万台という数字となる。   荷車の加害による事故件数、死者数、負傷者数の推移を見ると、昭和元年の場合はそれぞれ2,127件、27人、1,255人であったが、その後次第に減少し、同13 年には289件、28人、232人となっている。           E 人力車・乗用馬車   人力車、乗用馬車ともに電車、自転車そして自動車の普及とともに衰頽著しく、「内務省警察統計報告」においては、第1回(大正13年統計)から乗用馬車の欄は既になく、「其ノ他」欄に入れられていると考えられる。僅かに「人力車」は残されているが、昭和13年から記載はない。大正13年に549件あった事故件数も、昭和4年には4件を数えるのみ。死者も大正13、14年に各1人、昭和元年に3人、同3年の1人、同6年2人、同8年1人である。この両者の衰退ぶりが交通事故の数字からも読みとれるのである。 第3 交通事故防止対策  『内務省史 2巻』に、戦前期における交通警察の発達について概説し、それを受けて交通事故防止の諸対策について述べている一節がある。その実情を極めてよく表現していると思うので、関係のくだりをそのままご紹介する。  「このような状況であったから、交通規制や交通安全施設などの交通警察の諸対策は、戦前、少なくとも明治・大正のころは、ほとんど行われていなかったといっても過言ではない。僅かに警視庁は、自動車取締令が制定公布された大正八年に、初めて交通規制及び交通整理を実施し、また、初めての手動式交通信号機を採用した。翌九年には横断歩道や安全地帯が創設されている。大正十二年九月、警視庁交通課長に就任した藤岡長敏は、わが国の交通警察が欧米のそれに比べて著しく立ちおくれているいることを遺憾とし、欧米、特にアメリカの交通警察を詳細に調査研究し、欧米の新しい交通規制方式や施設を移入し、大いにわが国の交通警察の進歩改善に努めるところがあり、それを契機として、大正13年8月の自動車運転手試験規則施行、昭和5年4月の手信号方法の統一、同年11月の自動式交通信号機の創設、昭和8年4月のクロノプラン式交通整理信号機の設置、昭和9年1月のロータリー式交通整理の実施など、近代的な施策が行われるようになったのである。しかし、なんといっても、戦前のわが国の交通警察は、戦時中のギャップがあったとしても、欧米に比べると遜色があり、たとえば、交通信号機は、昭和20年現在で警視庁355、大阪府18という状況で、それは単に一例に過ぎないが、戦前の交通警察はまことに微々たるものであった。交通警察が飛躍的に進歩したのは戦後のことであり、自動車の激増、人口の都市集中、高速道路の拡充など、交通事情の激変による当然の要請でもあるが、交通警察体制及び装備・法令の整備、交通安全施設、交通規制方式、それらのいずれの点においても戦前とはまったく格段の相違がみられるのである。」 以下、その施策の推移と発展について述べることにする。 (1) 交通取締り  @ 交通専務巡査と赤バイ ア) 警視庁における交通専務巡査の初め   自動車の増加とともに、交通事故は次第に増大の傾向を示していった。大正元年に298 台の自動車保有台数は、同6 年には1,311台を数え、交通事故件数も3,267件から5,329件 へと6割も増加した。   大正7年1月1日、警視庁では初めて交通専務巡査の制 度を設け、100名を交通ひんぱんな警察署に配置し、交通事 故防止と自動車取締りに当た らせた。1月17日、保安部長が各新聞に寄せた感想に「1日 から今日まで実施した取締りで、驚くべし500件以上。それ らはいずれも速度違反で、特 に夜間などは35哩も飛ばす運 転手もいる。このたび配置し た巡査は、交通頻繁な要所に 立ち番したり警邏したりして、自動車は勿論、電車、自転車、馬車などの違反取締りや歩行 者の左側通行を厳しく守らせる。そのこと自体が事故を防 止することになる」と述べて、市民の協力を求めている。その後、交通専務巡査は漸次増員されて同15年には660人、昭和10年710名、戦時中は一時減少したが、戦後の同21年には853名で取締りに当たっている。    イ) 赤バイの配置   自動車の取締りにはどうしても機動力が必要との見地から、警視庁は、大正6年9月27日、警務通達第30号で「自動車取締専務巡査勤務ニ関スル件」を通達、翌年の同7年1月1日から、自動車取締専務巡査6名を配属し、オートバイによる交通の指導取締りを開始したのである。6台のオートバイの車体は全部赤色で塗ったので「赤バイ」の愛称でよばれ、その後、昭和11年に白色に塗り替えられたのを機に、「白バイ」として今日に至っている。   「赤バイ」は機動力を発揮して大いに活躍したので、大正7年9月15日から勤務員6名を20名に、車両も4台増車して10台に、配置警察署も3警察署から7署へと、さらに充実が図られている。  ウ) 各府県の交通取締巡査の服装   大正7年12月24日、内務省は交通取締巡査の腕章を全国的に統一することとし、各府県において交通取締専務巡査を設置する場合には、警視庁交通専務巡査に認可された様式に準拠するよう通達した(発警第145号「交通取締巡査腕章ニ関スル件」)。警視庁の腕章様式は萌黄の地に2本の白線を浮かせたものであった。また、夏期におけるヘルメット(白色)着用については、同11年8月10日内務省発警第50号「特殊ノ制帽ニ関スル件」によって警視庁が定めたものに統一するように通達された。なお、一見して交通取締巡査であることが明らかにされるよう、採用に際しては姿勢端正で身長5尺3寸以上としたとのことである。   エ) 府県における初配置の事例   大阪府では、明治35年8月に交通取締方法を定め、大正9年6月に「交通取締巡査勤務規程」を制定したが、その後同12年4月に新規程が定められた。この規程では通行人、諸車、軌道、鉄道、舟筏のすべてが交通取締りの対象となり、派出所巡査と交通専務巡査を包括して交通取締巡査とした。昭和5年、交通課がおかれて交通専務巡査も271人に増員され、翌6年度には323 人となった。   福岡県では、大正11年4月28日から3日間、今日の交通安全週間に当たる左側通行大宣伝期間を実施、それが終わった5月1日から、市部警察署に交通係を配属した。交通取締巡査の始まりである。   愛知県では、明治43年3月、名古屋市で開催された第10回関西府県連合共進会の警備に備えて、計13人の道路取締専務員を配置した事績がある。愛知県における交通巡査の初めといえよう。その後、大正10年11月、「交通巡査服務規程」を制定し、以後、交通巡査は順次増員され、昭和15年には99名となった。   青森県に交通専務巡査がおかれたのは、大正15年5月が最初である。青森警察署に配置された交通専務巡査2名は、市内を巡回して左側通行や交通安全を指導し、また路上の物件放置その他諸車の検査などの取締りに従事している。   これらの事例のように、時期的な違いはあるが、自動車の普及による交通事故増加に対処するため、交通専務巡査が配置され、交通取締りに専従したのである。  A 交通整理信号方法と信号機   ア) 交通整理信号方法   大正8年9月、警視庁では銀座4丁目ほか3交差点で「挙手の合図による交通整理」を開始し、同10年は、手による信号方法を定めて各警察署に指示した。   その後、関東大震災から復興した首都東京における交通機関の発達は急速で、それとともに交通事故も逐年激増の一途をたどった。その防止をはかるため、警視庁は交通整理信号方法の改正や交通信号機などの改善に努力を続けた。昭和5年4月26日、警視庁は訓令甲第33号により「交通整理ノ信号方法ニ関スル件」を定め、交通信号方法を統一するとともに、同日、告示第105号で一般に周知した。この統一ができるまでは、警察官の手信号はまちまちで、ときには通行者を惑わせることもあったという。   各府県でも同様に改善を進めている。神奈川県では、同5年7月22日に「交通整理方法」を、京都府も「交通整理手信号要領」を告示して手信号方法の統一を図っている。   イ) 信号機   大正8年9月、上野警察署長と交通主任が考案した「止レ、進メ」の標識をつけた信号機(信号標板)を、上野広小路交差点で試用したのが、警視庁管下で最初の交通信号機である。これは、交通整理に当たっている交通専務巡査の苦労を緩和し、能率向上を図るために考案したもので、その後も改良を加え市内各所で使用された。   大正10年になって、「進メ」「トマレ」を表示した、木製二位式信号標板手動信号機が作られたが、第一号と同様に、注意信号がなく、急に転換するので、歩行者にとってかえって危険の場合もあった。そこで、「進メ」「トマレ」の他に「注意」を取り入れた「バタン式交通信号機」が開発され、昭和7、8年頃まで使用されていた。これは「進メ」の信号の下半分が跳ね上がって「注意」信号が出てくるなどの仕掛けで、その時、音を立てるのでバタン式と呼ばれたとのことである。   昭和5年11月、1930年型中央自動式交通信号機を米国から輸入し、試験的に日比谷交差点に設置した。これは、色灯式信号機で、緑・黄橙・赤3色の灯火による信号制御行ったのが、本格的な信号制御の嚆矢と言われている。この3色の信号の意味は現在と同じである。この設置については、好結果を得たので、同6年に銀座4丁目など4箇所に設置、そしてさらに市内重要地点36箇所に追加設置した。   その後、同8年4月、我が国初の進行同期信号機であるクロノプラン式交通整理信号機を、昭和通り・銀座通りに設置して、系統的整理を実施した。その結果、すこぶる上々であったので、その翌9年に浅草菊屋橋通りなど5系統に増設した。 ウ) 他府県における信号機の初めの事例   大阪市内では、最も交通ひんぱんで俗に「地獄」と云われた渡辺通り交差点に、交通標示機「ゴーストップ」を設置し、大正11年8月15日から運用を開始したのが最初である。   愛知県では、大正12年3月28日、名古屋市の柳橋交差点に設置されたのが初め。これは交通標示器と呼ばれ、棒の先端に「止レ」「進メ」の文字を書いた円盤を取り付け、交通巡査が操作するという貧弱なものだった。それでも、かなりの効果を収めたので、翌年からさらに他の交差点にも設備された。しかし、操作に大きな労力を要し、担当の警察官にとって非常な激務だったので、昭和5年に新型の電気標示器を設置し、同8年には計21カ所の交差点に設置を計画したが、日中戦争の拡大で中断のやむなきに至った。   昭和20年現在で、交通信号機は警視庁355、大阪府18という状況でまことに微々たるものであった。   エ) ロータリー式交通整理   昭和9年1月22日、一時停止のないロータリー式交通整理を、我が国で初めて和田倉門で実施して好成績を収めたので、蔵前片町など9交差点に設置した。これは、警視庁と都市計画東京地方委員会及び東京市土木局の三者が協力して作ったものである、といわれている。その特色は、 a、交通の一時停止がない b、事実上、徐行を強制されるから、重大な事故発生を未然に防止できる。 c、信号機による整理の場合と異なって、巡査の配置がなくて良い。 d、交通の一時停止がないから、自動車燃料の無用な消費と磨滅を防止できる。 e、中央島の緑化施設により、都市美の一端に資す。  などが挙げられている。   設置後の成績は、いずれも良好であった。 B 交通違反   大正期に入り、自動車が普及するにつれて、交通事故も上昇の傾向をみせているので、事故防止対策として、交通取締りの強化が図られている。   警視庁の場合、交通取締りによる違反件数は、どの程度のものであったのだろうか。大正13年の場合を見てみよう。先ず、自転車取締規則や電気鉄道取締規則、そして自動車取締令施行細則など、警視庁令や東京府令などの庁令府令違反が19,241件、そして、自動車取締令や道路取締令の諸法令違反が10,031件であった。併せて約3万件に及んでいる。同年における警視庁管内の交通事故件数15,194件の2倍であり、交通取締りの実施は、事故防止に大きな貢献を果たしているのであった。   次に、地方ではどのような取締りが行われていたのだろうか。   大正10年9月、青森県警察部は県下一斉交通取締りを3日間実施した。取締りの目的は、当時問題となっていた自転車の無灯火と、市街地において荷馬車に乗って御する「乗り打ち」が中心で、その集計はそれぞれ2,358件、1,988件であった。   因みに当時の自動車台数は53台、自転車13,254台、荷馬車8,293台であった。同13、14年には、自動車を中心とした県下一斉取締りが実施された。自動車台数が367台に達した同14年における二日間の違反件数は、拘留または科料が111件を始め、注意・説諭・保護など897件に及んだ。特に乗合自動車の違反が多かったようである。 (2) 交通規制 @ 通行禁止   人力車・乗用馬車と歩行者が中心の道路交通では、各種規則に規定される一般的な禁止・制限条項だけで交通の安全と円滑化を図ることができた。しかし、自動車が道路交通の主流となると、様相が一変した。低速の歩行者や荷車から高速の自動車まで、狭い路上でひしめきあうということになってくると、道路交通は過去には想像もできないような混乱と危険にさらされることになった。そこで、道路の利用については、これまでと違った特別の制約が必要となった。   その対応措置の事例として、警視庁と奈良県のケースを紹介しよう。   なお、交通規制について、大正9年12月公布の道路取締令は、その第18條第1項で「地方長官ハ危険予防上其ノ他公安上必要ト認ムルトキハ道路ノ通行ヲ禁止シ又ハ制限スルコト得」と定め、さらにその第2項で「警察官吏ハ危険予防上其ノ他公安上必要ト認ムルトキハ一時道路ノ通行ヲ禁止シ又ハ制限スルコト得」と定めている。道路交通の安全と円滑を期するため、必要の場合は地方長官及び警察官吏の権限で、通行の禁止または制限ができることを法的に明確にしたのである。  ア) 警視庁の事例   大正8年9月15日、警視庁では、初めて交通規制と交通整理を実施した。この規制及び整理は、明治33年6月21日警視庁令第25号「道路取締規則」の第2條「所轄警察官署ニ於テ危険又ハ通行上支障アリト認ムルトキハ之カ除去、停止若ハ危険予防ノ装置ヲ命シ……」及び第35條「通行禁止ノ榜示アル場所ヲ通行スヘカラス」の規定によって、交通事故防止対策として実施したのである。   この交通規制は、新橋から京橋・日本橋・今川橋を経て神田須田町にいたる電車通りと外2の主要道路における自動車の通行確保のために、手挽荷車や牛馬車など緩行車の通行禁止を、午前8時から午後8時まで行ったものであった。   交通整理は、銀座4丁目など4カ所の交差点で歩行者の安全を図るため、「挙手の合図」の手信号による交通整理を毎日行うことを定めたものであった。      イ) 奈良県警察部の事例   これは、前掲した警視庁事例より早い時期のケースである。   交通機関の発達につれて、観光地奈良への旅行者は年々増加してきた。大正7年春、旅行者数万人で埋まる奈良公園内の道路を、十数台の自動車が走っている状況をみた警察部長は、春日一の鳥居から春日神社に至る道路など4本の道路を自動車通行禁止とした。これが県下で最初の観光地の交通規制であった。   翌8年秋の観光シーズンにも、三笠山付近や大仏殿付近への遊覧客が激増したので、関係道路を自動車乗り入れ禁止とした。これらの交通規制は、その時期・区域なども一定せず、あくまでも一時的な措置であった。同9年11月の県下警察署長会議で「市街地に於ける祭典縁日などの場合、又は奈良市に於ける春秋雑踏の場合の如きは、必要なる一定の区域内は必ず車馬止めをなし、交通の安全を期すること」が諮問事項として提案されており、これ以降、毎年春秋の観光シーズンには交通規制がなされたものと思われる。 A 横断歩道   大正9年1月、警視庁管内で初めて横断歩道を設けた。最初は「電車線路横断線」と称したこの横断線の発案者・太平警察署長の事績について、「自警」大正9年2月号に次のような内容が記述されている。  「……管内における荷車、人力車、電車等の衝突事故防止の根本策として、関係町会とも協議のうえ、本所江東橋から錦糸堀終点に至る電車線路の3カ所に「電車横断線」を設けた。…………何れも石灰水で路上にはっきりと区画を記し、この3カ所以外は横断禁止とした。まだ実施して短期間だが1回の事故も発生していない」。   この「電車線路横断線」の設置は、市民からも好評であったので、警視庁では市内各所に逐次設けていった。横断歩道という用語が定着したのは同15年頃と言われている。 B 道路標識   大正期に入り、道路標識の全国統一化が図られることとなって、同11年11月9日内務省令第27号「道路警戒標及道路方向標ニ関スル件」が制定され、1様式の案内標識と5様式の警戒標識が定められた。   しかし、禁止標識に類するものは制定されなかったので、「制札制文例」における「通行止榜標」は、昭和17年「道路標識令」まで使用されることになった。   その後、昭和期に入って自動車交通の発達とともに増大する交通事故の防止や、道路舗装の進捗などによって、道路標識内容の多様化が要求されるようになった。そのため、警視庁は昭和9年に「交通標識統一に関する件」を告示し、他の府県でも、それぞれ実情に応じた独自の道路標識の整備を行った。このようにして、府県間でまちまちの道路標識が設置される結果となり、自動車交通広域化の点から、その統一が望まれるようになった。   昭和13年、内務省は道路標識の全国統一を図ることを企画したが、折からの日中戦争の勃発、国家総動員法の公布など多難な時期であったので、草案のまま見送りとなった。 (4) 交通安全教育   大正9年12月16日、「道路取締令」公布後、各府県長官宛に内務省警保局・土木両局長から「道路取締令ニ関スル件」の通牒(12月22日)がだされた。   この通牒の骨子は、同令の施行に当たって、・民衆の交通安全思想を高めること、・印刷物や諸会合の機会を利用して法令の普及宣伝を行うこと、・交通取締りとともに期間及び場所を限って交通整理を行うこと、そして、・徐々に左側通行の習慣をつくること、・そのためにあくまでも規律の指導に重点をおき違反者を直ちに処罰することがないように、との内容であった。これに従って、翌10年から左側通行を軸とした交通安全運動が、全国的に展開されることとなったのである。   警視庁は、大正10年1月20日、「道路取締令普及宣伝ニ関スル件」をもって管下に指示を行い、先ず、警察官に対する指導教養の徹底化をはかり、一般公衆に対しては、官公署に協力方を要請するなど積極的な運動を展開している。   各府県でも同様の動きが行われた。さらに交通事故の激増する昭和戦前期も交通安全運動は続けられた。大正期と昭和戦前期ともに2例づつ紹介しよう。  @ 富山県警察部の事例   大正10年3月20日から24日までの5日間、県下一斉に「交通安全デー」が催された。交通上の注意書を各戸や街頭で配布、青年会などの講話、自転車や乗馬行進、商店の窓ガラスなどにチラシを貼る、赤・青の腕章や白・赤のたすきをかけた小学生が街頭に立つなど、いろいろな方法で宣伝した。また、富山警察署では、市内電車に交通安全デーと染めた幕を張ったり、交通安全の都々逸の歌詞を作って芸者に講習し、お座敷で唄うようにすすめたりした。高岡警察署では、各町から青年団員500名を集めてちょうちん行列を催したが、その時に次のような交通安全宣伝歌(戦友の替え歌)を万歳の声とともに意気高らかに歌って気勢をあげたという。 ○ 左側通行の道路法、自動車・自転車・人力車、牛馬や諸車の差別なく、道で子供を遊ばすな ○ 馬乗り、自転車稽古など、交通妨害なさぬよう、夜分に車を挽く時は、灯火を必ず忘るるな  A 京都府警察部の事例   京都府は、大正9年11月23日の新嘗祭(現在の勤労感謝の日)を選んで、京都市内に左側通行デーを挙行し、宣伝ビラ7万枚を配布、さらに年末の雑踏期にPRを行った。そして、同10年3月、「道路取締令施行細則」公布を機に、19日から一週間、交通一斉取締り、交通宣伝ポスター(交通標語募集を兼ねて)の掲示、花電車・自動車による宣伝、交通営業者への周知、講演会など大々的な活動を行った。さらに、騎馬交通取締専務巡査2名の配置、交通取締り用オートバイ2台を購入配置するなど、継続的な指導取締り対策も講じた。また、交通道徳向上と事故防止を目的として、各警察署単位に、交通業者を中心とした交通安全会の組織化をはかるなど、広範な広報活動を展開している。  B 愛知県警察部の事例   愛知県でも、自動車交通量の多い名古屋市を中心に、児童や園児を事故から守る運動が活発化している。昭和6年、熱田警察署では、学校側と打ち合わせて一定区域を学童横断道路と定め、「自動車徐行」や「危険」などの標識を設置し、登下校時には巡査を派遣して交通整理・指導にあたらせるなど、好成績を収めた。この方法は市内各署に広がり、なかには、校庭に本物の交通標示器を置いて仮設交差点をつくって実地訓練するなど、自動車時代に即応した交通ルールの積極的な指導を行った。   このような警察の活動に刺激されて、登下校の際、職員や上級生などが低学年の通学指導を行う小学校が次第に多くなった。そこで、その指導員自身が交通事故にあわなにいようにと、警察部長から市長宛に「通学児童ノ交通指導ニ関スル件」を出して、注意を喚起することもあった。  C 岐阜県警察部の事例   昭和10年6月10日から一週間、交通安全週間が実施された。岐阜県における交通安全運動の初めである。実施内容は、左側通行の徹底と放置物件の整理を重点目標として、街頭における実地指導、巡回映画会、交通事故防止座談会・講演会、自動車隊によるパレードなど盛りだくさんの行事を中心に展開した。ことに飛行機から宣伝ビラ10万枚を散布するなど、強力なPR効果を図っている方策も採られていた。 (4) 運転免許 @ 大正8年「自動車取締令」の条項   自転車運転手の試験が規則上で明確になったのは、大正8年1月内務省令第1号の自動車取締令第15條で「運転手タラムトスル者ハ主タル就業地ノ地方長官ニ願出テ其ノ免許ヲ受クヘシ。免許ヲ与ヘタルトキハ免許証ヲ交付ス。運転免許証ハ甲乙ノ二種トシ、甲種免許証ヲ有スル運転手ハ各種ノ自動車ヲ運転スルコトヲ得」と定められてからである。   そして、大正13年7月24日警視庁令第41号で「自動車運転手試験規則」が制定され、8月1日から施行となった。試験は甲種、乙種及び就業地変更の3種で、いずれも実地試験と学科試験を行い、実地試験不合格者は学科試験を受験できなかった。また、一度不合格になった者は、三ヶ月を経過しなければ再受験できず、無免許運転で処分を受けた者は1年、免許取消処分を受けた者は3年経過しなければ受験できなかった。   大正8年から自動車運転免許試験を担当していた警視庁交通課技師の鈴木正一は「このころの試験は、現在のような試験場はなく、実地試験は日比谷付近の道路で、学科試験は本庁の廊下でやっていた。受験者は一日20人くらいで、このうち合格者は5、6人程度で、学科試験問題は、構造装置が重点で非常にむつかしいものを出題していました」と語っている。それを裏書きするように、同11年内務省に入省、警保局において技術面から交通取締りを担当していた小野寺季六は、次のように述べている。   「警視庁は、日本いちばん免許証の面倒なところで、警視庁の免許証を持っておれば給料も高いというほどでした」。さらに続けて「とにかく各県の免許試験、車両検査がまちまちで、これを統一する必要があったから、この研究のために陸軍の三木さんと帝大の隈部一雄さんに、内務省の嘱託をお願いしてお知恵を拝借しました。また、運転免許の基準を作るために自動車学校の協力をも得ました。先ず、標準のコースを決めて、あまりむずかしくない試験問題の標準を示し、法規の試験を多くするとか、模範答案を出して指導することなどに力を入れました」と語っている。 A 昭和8年「改正自動車取締令」の条項   昭和8年8月18日内務省令第23号で、「自動車取締令」が全面的に改正された。運転免許の改正の要点は、@「運転手」の用語が「運転者」と改められたこと。A甲種・乙種免許を廃して普通免許・特殊免許・小型免許の3種となったこと。B仮運転免許の制度が新設されたこと。C免許試験の省略規定を明らかにしたこと。E運転地変更による試験は行わないこと、などである。 B 昭和13年「自動車取締令の一部改正」の条項   昭和13年10月5日内務省令第35号により「自動車取締令」が一部改正された。改正は4点ですべて運転免許に関するものである。   @運転免許の有効期間(5年ごとに試験)を撤廃したこと。A就業免許の制度を撤廃しこと。B運転免許試験を簡易化したこと。C運転免許証の検査規定を設けたこと。D運転者の年齢が引き下げられたこと、などである。 第3節 戦時期における交通事故と防止対策 第1 交通事情概観  昭和12年7月、廬溝橋事件を発端として日中全面戦争へと拡大し、泥沼化して行った。ヨーロッパでも、同14年9月に第二次大戦が勃発した。一方、東南アジアへの南進策を取る日本に、米国は経済制裁を強化する。同13年、国家総動員法が成立し、さらに新体制の「大政翼賛会」は官製の国民統合組織として、次第に内務行政の補助的組織へと変貌する。同年、仏印に進駐した日本に対して、米国は石油輸出を全面禁止した。そして、同16年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲し、米英と戦端を開く。緒戦は日本軍の一方的な勝利であったが、その後の米軍の反攻によって一挙に守勢に転ずる。20年4月、米軍は沖縄に上陸し、本土も空襲によって焦土と化す。そして、広島・長崎に原子爆弾投下。8月15日、ポツダム宣言を受諾、敗戦を迎えた。  この間、「国家総動員法」公布以後の交通政策は、戦争遂行のための輸送体制確立という目標に集約され、先ず、取り上げられたのが輸送統制強化の方策と燃料問題であった。 (1) 道路輸送業者の統合   石油消費規制強化による代燃化、そして自動車生産低下と新車の補充や部品の補給困難などによって、自動車輸送力は低下する一方であった。その反面、軍事資材輸送、通勤通学などの輸送需要増加は避けられなかった。従って自動車輸送力の効率的、重点的な運用が急務となり、業界の統合・再編成が強力に進められた。バス事業は、各道府県を1乃至数個の交通圏に分け、一交通圏一バス営業者を目標に統合を推進した。その結果、昭和11年当時の2,747業者は、同19年には322業者に整理統合された。タクシー業者の場合は、一都市一業者原則による事業統合が進められた。 (2) 燃料の消費規制と代燃化   昭和12年、日中戦争勃発により長期的な燃料政策が講ぜられた。 グラフD 戦時期における全国交通事故の推移  先ず、1割の石油消費節約がはかられることになり(第1次消費規正)、タクシーの流し営業の自粛など消費者の自発的節約が促された。翌13年5月、購入切符制度が導入され(第2次消費規正)、代燃化転換の指導が進められた。同16年8月、米英両国の対日石油禁輸措置により、バス、ハイタクなど旅客自動車のガソリン配給停止(第3次消費規正)に追い込まれ、代燃車の運行のみが認められることとなった。代用燃料は種々開発されたが、木炭と薪の代燃機関が最も普及した。 第2 交通事故 (1) 交通事故統計 (2) 戦時期における交通事故の特徴   グラフ(5)が示すように、戦前における全国の交通事故件数は、昭和7年の71,221件、負傷者数は同9年の50,204人をピークとして下降を示している。死亡者数も、同13年の3,678人を戦前最高として、その後も3,000人台を軸に増減し、特に減少傾向はみられていない。   『内務省警察統計報告』によって、同12〜16年の被害者総数の推移を見ると、歩行中の事故が最も大きく、毎年のその件数、負傷者数はそれぞれ総数の半数近く、特に歩行中の死者数は死者総数の60%台を占めている。   歩行者に対する加害は、さすがに時勢を反映して、自動車、自転車による事故はともに減少傾向にあるが、電車による歩行者事故は逆に増加を示している。例えば、同12年の死者は417人であるが、同15、16年になると501人、520人と大きく増加を示している。   その後の状況を知るものとして、同18年12月20日の朝日新聞記事を紹介しておく。それは「交通事故をなくせ」というタイトルで、同  年10月までの警視庁管内交通事故統計を取りあげた記事である。 ○ この数年来、帝都の交通事故は減少の一途を辿っているが、今年は4,593件。昨年同期と比較すると実に1,466件の減少で、年3万件にも達した事変前の6分の1にも満たないという嘘のような激減振りである。   しかし、この事故により、死亡293名、重傷者588名の犠牲を出し、約30万円の重要資材の損害を受けていることを思えば、更に一段と万全を期する要がある。   事故の発生原因について見ると、依然として通行人よりは車両側に多く、10月の統計によると通行人51件、車両側496件となっており、このうち196件までがトラックである。車両による原因としては徐行義務の違反が最も多く、ブレーキの不完全など車体自身の不備による事故が案外少ないことを思えば、交通従業員の一層の緊張こそ望ましいわけである。   一方、通行人の不注意による事故は割合少ないとはいえ、車両の直前横断や横断歩道外の横断、信号無視、酩酊歩行などによる事故も後を絶たない。 第3 交通事故防止対策 (1) 交通取締り  @ 交通取締り状況   戦時中、ことに太平洋戦争突入以降、交通警察の主務は輸送警察に総力が傾けられた。そこで、従来のような交通事故防止対策はなかなか取りえなかった。しかし、そのなかでも交通取締りの努力は続けられている。次に3例を紹介しよう。ともに「警察協会雑誌」掲載記事である。 ○ 久しく中絶していた兵庫県交通安全協会主催交通整理講習会は、(同16年)3月31日、阪神・明姫両 沿線16警察署参加のもとで神戸滝道交差点を舞台に行われた。   尼崎署員の拡声器の指令で、サッと部署に着き信号巡査の笛で一糸乱れず電車、人力車、自転車、歩行者の流れを捌いたのを火蓋に、腕に自慢の各警察署交通係巡査部長1名、交通専務1名、外勤巡査3名からなる交通整理班が次々に登場、5時間に亘って腕比べを演じたが違反は少なく、違反車はほとんど他府県の自動車で、結局湊川署が優勝した。 ○ “尊い生命を事故で散らすな〃と、百万都会人の交通安全に号令する名古屋新栄署交通係では、最近頻発する交通事故防止の為、(同16年)8月7、8日の両日午後8時から11時迄、管内重要箇所に関所を設け一斉検索を行ったところ意外に多数の交通道徳無視者があった。違反者の大部分が電池を惜しんだとのことで、悪質犯100件を科料処分に付した。 第19表 交通道徳無視者検挙数 │ 車  両 │調 査 数 │無 燈 火 │ │ ハイヤー │ 83 │ 44 │ │ トラック │ 20 │ 8 │ │ 自 転 車 │ 533 │ 470 │ │ 厚 生 車 │ 56 │ 49 │ │ 人 力 車 │ 8 │ 7 │ │ 荷  車 │ 22 │ 21 │ 資料:「警察協会雑誌」496号、昭和16年9月号46頁   このように各府県では繁忙の中でも交通取締りに留意している。次もその一環である。 ○ 「暗くとも無事故で!」を目標として、(同17年)3月20日、警視庁では警戒管制時の交通取締標準を決定し、各署に通知した。その主な注意事項を拾ってみると、 ▲ 一般市民! 物件商品など路上に放置せず、また路上で諸事(ママ)の修繕しないこと。歩行者は、左側通行を励行、信号を守り車道に入らぬこと。一列乗車を励行するはもとより不急不要の外出は避け、車馬操縦の練習をしないこと。 ▲ 交通事業者! 電車自動車の運転者は法規を守り、事故防止に努め、電車は15km以内、自動車は時速20km以内とし、連続進行の場合は10メートル以上の距離を保持すること。牛馬車荷車、自転車等は交通取締規則を厳守、夜間の燈火提灯ナショナルランプ程度のものは平常のまま。 ▲ 事故発生の際は、大小を問わず最寄りの警察、又は派出所に届け出ること。  A 交通事故防止の指導   次は昭和18年5月13日の朝日新聞記事である。「決戦下、人的資源の確保増強が叫ばれている折にも拘わらず」との冒頭の書き出しは、当時の情勢をしのばせるものがある。 ○ 児童の交通事故は17年度総件数1,319件で、7歳以上15歳未満の死亡40名、重傷80名、軽傷444名。7歳未満の死亡85名、軽傷795名で、昨年度に比し、死亡9名の増加というまことに遺憾な状態で、伸び行くヨイコたちの交通事故を未然に防止しようと、警視庁では(5月)12日、都下国民学校ならびに管下各署に児童の交通知識及び訓練実施方を通牒、早急に実施を要望している。 ◇ 実地訓練 署長または交通主任が講師となり、校内に模型を作るとか、または現場において実地指導をなすこと。 ◇ 交通知識普及及び啓発訓練事項 △左側通行、△交通信号、△歩道横断、△路上諸施設の意義ならびにこれに対する心得、△道路標識、△路上遊戯の注意、△防空警報下の交通訓練。 ◇ 集団通学 △上級生が必ず引率誘導すること、△登退校時集団通行の励行   この指令に対して、次のような方法を実施している警察署があった。同18年6月9日の朝日新聞に「交通道徳を守りましょう。お巡りさんがヨイコに紙芝居」という記事が掲載されている。次ぎに、大要を紹介しよう。   目下、警視庁管内の国民学校では所轄警察署の指導で交通道徳訓練を実施しているが、大塚署では紙芝居「交通道徳を守ったヨイコドモ」を作製、管下九つの国民学校に巡回実演中である。原作・脚色説明ともに同署員でなかなかの佳作。「皆さんのこの手、この足、この身体はただ皆さんの身体ではありません。お国のお役に立てねばなりません。交通道徳をよく守って、強く正しい元気なヨイコになるのですよ」と学童たちに多大の感銘を与え、事故防止と交通道徳を教え込んだ。  B 道路標識令   昭和16年8月公布の金属類回収令によって、信号機を除き、鉄製の道路標識の大部分は撤去回収されることになった。このために交通安全の確保が困難なったので、内務省は同13年に企画されたまま草案となっていた道路標識の全国統一を期した省令の制定を急ぎ、同17年5月13日、大正11年の「道路警戒標及道路方向標ニ関スル件」を廃止し、新たに内務省令第24号「道路標識令」を公布した。この省令によってこれまでの榜標や制札を含む交通標識は「道路標識」の呼称で統一されることになり、また、標識の種類も交通ルールに関するものも網羅して、警戒、禁止、制限、指導、案内の5種類となったのである。  C 輸送力確保優先策   その後、敗色が次第に濃くなりつつある昭和18年の12月27日。内務省令第78号で「道路取締令及自動車取締令並ニ受益者負担ニ関スル内務省令ノ戦時特例ニ関スル件」が制定公布された。これによって、従来、厳しく規制してきた自動車、荷馬車、荷車などの積載制限、乗車人員の制限、荷馬車、荷車の構造装置の制限に関する規定は、戦時中適用されないこととなり、この面で輸送能力を最大に発揮することを図ったのである。   当時の新聞の見出し「積めるだけ積め 自動車と荷車の制限を撤廃」は、その本質をよく捉えている。記事は、内務省令自動車取締令と道路取締令の一部停止によって、自由となった内容を、次のように説明している。 ◇ 自動車の定員積載量については、これまで地方長官の指定を受けることになっていたが、今後は受けなくてもよろしい。 ◇ 積載量定員を越して走るときは出発地警察署の許可が入用だったが、今後はこの許可が不必要で、いくら乗せてもかまわない。 ◇ 荷車の車輪の幅は牛車が3寸5分以上、馬車は3寸以上、大車は2寸以上に決められていたが、この制限が撤廃された。 ◇ 荷車、自動車の積載荷物の高さと幅の制限がなくなった。     この戦時特例は、戦力増強に協力する内務省の大きな決断となったわけで、人への危害が及ばないよう、特に注意を発している(「朝日新聞」昭18年12月24日)。   同19年1月、警視庁始め各府県に輸送課が新設された。同月4日、戦力増強のため、陸上小運送力を総動員する必要から、「陸上小運送力の確保増強ニ関スル件」を閣議決定した。この実施を図るため、内務省は22道府県警察部に交通輸送事務を担当する輸送課を、その他の県には輸送係を設置することを指示し、戦争遂行のための輸送力の増強と、業界の指導という輸送行政の一部を担当させたのである。   さらに、同19年5月5日、内務省令第20号「自動車取締令」の改正(・、運転免許で後述)で、自動車の車両検査の有効期間の撤廃や、運転免許年齢が引き下げられたことや、同20年3月の内務省令第5号「自動車取締令」の改正で、赤色尾灯、車両番号灯に関する規定の削除や前照灯の備え付けに関する規定の緩和などが行われたことも、交通警察本来の目的とする交通事故防止を超えて、戦時における輸送力確保を第一義としてとられた措置であった。 また、同20年6月、本土決戦に備え、国内兵站輸送態勢を作戦面に対応させるとして、運輸省自動車局の所管事項に対する運輸大臣の職権並びに同部品の整備に対する軍需大臣の職権を、戦時行政職権特例によって陸軍大臣に移管している(朝日 昭和20年6月14日) (2) 交通安全運動から輸送協力運動へ   交通安全運動は、大正9年12月の「道路取締令」公布後、左側通行の普及指導を主軸として実施されてきた。その後、日中戦争に突入した翌年の昭和13年、国民精神総動員運動が展開され、物心両面にわたる戦時体制の確立を図ることとし、交通安全運動はその一環として実施されることになった。そして同17年頃からは、従来の交通安全運動に代わって非常事態下における輸送協力運動として、整列乗降、車内での秩序ある行動、空襲警報発令時の車内からの避難訓練などが行われるようになった。  @ 交通地獄   戦時中、交通地獄という言葉が溢れていた。鉄道や電車への一列励行は、その中から必然に生まれた智恵であり、強制でもあった。   第20表は、東京都内の交通機関別輸送人員の推移を、昭和10年をそれぞれ100としてみたものである。鉄道、地下鉄、電車の乗客は年々増加して、2倍半から3倍を超える混み具合になっているのがわかる。一方、ガソリンの消費規制、代燃化、そして統合が強化されつつあるバス、ことにタクシーの利用者の急速な減少が特徴づけられる。   大都市における朝夕のラッシュアワーの状況は想像を超えるもので、東京の場合、7、8両を連結した電車が、約2分間隔で運転しても、なお積み残しがでるような混雑状態であった。 第20表 東京都内の交通機関別輸送人     員の推移 │ │昭和10年│昭和15年│昭和17年│ │ 鉄  道│ 100 │ 199 │ 248 │ │ 地 下 鉄│ 100 │ 336 │ 333 │ │ バ ス│ 100 │ 159 │ 136 │ │ タクシー│ 100 │ 51 │ 20 │ │ 電 車│ 100 │ 173 │ 237 │ │ 計 │ 100 │ 166 │ 192 │ 資料:「東京都交通局60年史」昭和47年、    資料797頁(出所は各年「都市統計年報」)  A 乗降は一列励行   そこから、交通量の調整(官庁、会社や学校の休日や始業終業の時間を調整)や、交通量の制限(旅行制限、禁止など)が実施されるが、それとともに殺人的な交通混雑に秩序を導入して輸送活動の円滑化を図るという目的から、交通道徳の昂揚がこの時期のスローガンとなっている。    1、2の事例を紹介する。 ア) 愛知県の事例(昭和15年):「乗降は一列励行」   愛知県警察部では、行楽期に於ける輪禍防止と交通難緩和の一石二鳥を狙って、春季交通道徳強化期間を設け、県民の交通訓練を行うこととなり、3月29日警察練習所で関係者30余名が出席、これが具体案を決定した。それに依ると4月10日から一週間を交通道徳強化週間とし、期間中は街の交差点、主要電停などで歩行者の信号厳守、通行区分訓練を行うほか、汽車、電車の発着所わけて切符売り場、改札口、集札口、バスの乗降場などには「先着順に一列励行」を実施させることになり、街の要所要所にはそれぞれ一列励行の立て看板、ポスターを掲示するほか、期間中には関係職員自ら街頭に進出し、交通訓練の衝に当たることとなった。 イ) 福岡県の事例(昭和16年):毎月1日を「交通錬成日」に   北九州の工業地帯を管下に持つ福岡県警察部では、時局産業の発展に伴い交通量の加速度的増加と電車バスの配車不円滑、民衆の交通道徳に対する無理解とにより、交通の混雑は日々増加の傾向にあるので、交通の国家的使命を達成し、人的、物的資源の確保を期するため毎月1日を交通錬成日とし、実施要綱を定め交通難緩和と総合的訓練の成果を期することになった。 (3) 運転免許  @ 交通警察事務の改善   昭和13年10月5日、内務省令第35号による「自動車取締令」の改正が公布された。従来、免許取得者に対し5年ごとに行っていた再試験及び就業免許制度を廃し、運転免許試験科目の一部整理、運転免許証の検査規定を設けるなど、交通警察事務の刷新を図った。 A 戦時期における警視庁運転免許試験   戦時中の運転免許試験の実施は、試験官不足や代燃車や空襲などによってなかなか困難であった。それに、各職場や団体などで運転手の養成に努めていたので、個人で受験にくるものも少なかった。また、免許証を持っていると一般の人より早く召集されるとのことで、免許証を返納した者も相当数あったし、このような風潮が、一般受験者の減少に一層拍車をかけたようである。   また、昭和19年1月4日の閣議で「陸上小運送力増強に関する件」が決定されたのを受けて、警視庁は「生産増強動員総本部」を設置した。その輸送要員を確保するために、運転者採用試験の学科試験を簡単にして重点を実地試験においた。そして、将来は人物考査だけするという対策を講じている。  B 運転免許の年齢引き下げ   昭和19年、当時の逼迫した輸送事情により、自動車の運用効率を最高度に発揮して輸送力を確保するために、内務省は「自動車取締令の一部改正」(内務省令第20号)を5月5日に公布し、即日実施することとした。改正は4点であるが、その中の一つに運転免許の年齢引き下げがあった。即ち、現行の普通免許交付資格年齢満18歳を満15歳に、小型免許満16歳を満14歳に引き下げ、特に国民学校新規卒業者に対し門を開いた。当局としてはこの運用に当たり、業者を指導して乗合自動車などの運転手には年少者を使用しないよう各府県に通牒する一方、女子運転手の養成進出を大いに期待したのであった(「朝日新聞」昭19.5.5)。 (本章における交通管制に関する事項は時崎賢二氏の教示を得た。) 参 考 文 献 第1節関係  青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 上巻』、青森県警察本部、1973.  岩手県警察史編さん委員会編『岩手県警察史』上巻、岩手県警察本部、1957.  瓜生俊教編『富山県警察史』上巻、富山県警察本部、1965.  大阪時事新報、明治38年10月25日.  大阪朝日新聞、明治38年11月17日.  大日向純夫「『警察統計報告』の内容構成と警察の構造・機能」  『内務省警察統計報告』解題・解説、日 本図書センター、1994.  大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史』第1巻、大阪府警察本部、1970.  尾崎正久『日本自動車史』自研社、1942.  神奈川県警察史編さん委員会編『神奈川県警察史』上巻、神奈川県警察本部、1970.  東京日日新聞、明治34年4月19日.  東京朝日新聞、明治36年8月25日.  東京府『明治30年 東京府統計書』.  東京府・警視庁「東京府・警視庁公報」No.45、明治32年2月3日.  東京府・警視庁「東京府・警視庁公報」号外、明治34年4月18日.  時崎賢二「道路標識標示・今・昔」『全標協会広報』No.16.  原田九郎「自動車運転手になるまで」『モーター』No.27、大正4年10月号.  山本弘文編『交通・運輸の発展と技術革新〜歴史的考察〜』国連大学、1986年.  E・S・モース著、石川欣一訳『日本その日その日』東洋文庫、平凡社、1970. 第2節関係  愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史』第2巻、愛知県警察本部、1973.  青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史』上巻、青森県警察本部、1973.  瓜生俊教編『富山県警察史』上巻、富山県警察本部、1965.  大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史』第2巻、大阪府警察本部、1972.  岡本富三郎・三橋珍雄「自動車取締令の改正」『警察協会雑誌』No.462、昭和13年月11号.  京都府警察史編集委員会編『京都府警察史』第2巻、京都府警察本部、1975.  岐阜県警察史編さん委員会編『岐阜県警察史』下巻、岐阜県警察本部、1982.  警視庁史編さん委員会編『警視庁史』大正編、1960.  警視庁史編さん委員会編『警視庁史』昭和前編、1962.  自動車工業振興会編『自動車史料シリーズ(1) 日本自動車工業史座談会記録集』1973.  大霞会編『内務省史』第2巻、地方財務協会、1971.  時崎賢二「道路標識標示・今・昔」『全標協会広報』No.20.  時崎賢二「交通あれこれ」『人と車』全日本交通安全協会、2000年6月〜2002.2月号.  内閣統計局編『第41回帝国統計年鑑』。復刻版、東洋書林、1998.  長野県警察本部警務課編『長野県警察史』各説編、長野県警察本部、1958.  奈良県警察史編集委員会編『奈良県警察史』明治大正編、奈良県警察本部、1977.  日本統計協会『日本長期統計総覧』第2巻、1988.  原仙吉「自動車取締令改正の要旨」『警察協会雑誌』No.398、昭和8年月9号.  福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史』明治大正編、福岡県警察本部、1978.  藤岡長敏「統計に表れた交通事故の種類と其原因」『警察協会雑誌』No.285、大正13年5月号  山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史』上巻、山口県警察本部、1978.  山梨県警察史編集委員会編『山梨県警察史』上巻、山梨県警察本部、1977. 第3節関係  「朝日新聞」昭和18年5月13日、12月24日.  「朝日新聞」昭和19年1月5日、1月17日.  「警視庁、警戒管制時の交通取締標準決定」『警察協会雑誌』No.503、昭和17年4月号.  齊藤俊彦『くるまたちの社会史』中央公論社、1997.  静岡県警察史編さん委員会編『静岡県警察史』下巻、静岡県警察本部、1978.  大霞会編『内務省史』第2巻、地方財務協会、1971.  「地方版」『警察協会雑誌』No.479、昭和15年4月号.  「地方版」『警察協会雑誌』No.492、昭和16年5月号.  「地方版」『警察協会雑誌』No.496、昭和16年9月号.  時崎賢二「道路標識標示・今・昔」『全標協会広報』No.20.  時崎賢二「交通あれこれ」『人と車』全日本交通安全協会、2000年6月〜2002.2月号.  兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史』昭和編、兵庫県警察本部、1975.  和歌山県警察史編さん委員会編『和歌山県警察史』第2巻、和歌山県警察本部、1991.  『自動車と運転免許の移り変わり』.