第1編 前 史 明治元年〜昭和20年(1868〜1945) 第2章 道路交通法令の制定とその実施の状況 第1節 明治期 〜人力・畜力による輸送手段の時代〜 第1 交通警察制度  明治新政府樹立から現代にいたるわが国の警察制度は、4期に大別できる。草創期は、ほぼ明治14年まで。第2期は、第二次世界大戦敗戦までの内務省警察の時代。第3期は、占領軍の民主化による自治体警察。そして現在の都道府県警察である。  この4期のうち、1・2期すなわち戦前までの警察の中央機構は、次のような推移を経ている。明治4年10月、東京府におかれた邏卒3,000人は、同5年8月、全国警察の統合をはかった司法省警保寮に移管。そして同7年1月、警保寮は前年に設置された内務省に移管される。同14年1月、内務省警視局を警保局と改称し、昭和22年の解体に至るまで内務省に存続した。  そして、交通警察に関しては、明治・大正・昭和を通じて内務省警保局警務課が所管し、府県においては保安課が管掌した。ただし、警視庁においては、同39年4月に交通課がおかれ、大阪府は昭和5年9月に交通課が、同8年、兵庫県に消防交通課が設置されている。 第2 草創期の交通法規  明治政府発足後、明治2年2月には諸道の関所が廃止され、次いで同4年9月、寄留旅行の鑑札制度も廃止となり、庶民の往来は全く自由となった。さらに同5年には、なが年にわたって、東海道を初め諸街道の輸送をになってきた伝馬所と助郷が廃止となり、これに代わって各駅陸運会社が当たることになった。  これまで、徒歩のほか駕籠や馬に頼っていた道路交通は、人力車や馬車の登場とその後の普及によって、その様相を一変し、往来はますます盛んとなった。しかし、狭隘な道路を行き交う車馬による交通事故が懸念された。そこで、政府や府県では、乗馬や早駆けなどの危険行為の禁止、沿道住民への道路掃除義務化、往来の妨害や道路の不正使用の取締りなど、種々の規則を制定して危険防止策を講じている。  車馬による人身事故に対する刑罰法規としては、明治3年12月制定の「新律綱領」の人命律下・車馬殺傷人の条に「凡故ナク街市ニ車馬ヲ馳驟シ、因テ人ヲ傷スルハ、凡闘傷ニ一等ヲ減ス、死ニ致ス者ハ、流三等」と規定されている。  しかしながら、当時の交通法規は、交通事故防止よりも交通の秩序保持を第一としていたようである。沿道住民に対する道路掃除の義務付け(明治5年10月太政官布告「道路掃除条目」)や、往来の妨害・道路の不正使用の防止、無灯火禁止などの布達によって、その取締りを強化している。  また、東京横浜間の乗合馬車営業(明治2年4月)や人力車製造・営業(同3年3月)の出願に対して、東京府は「通行人の迷惑にならないように注意のこと」や「もし、事故をおこした際は厳罰に処す」などの条項を付して許可している。その後、台数の増加傾向に対応して、同4年4月に8カ条の「馬車規則書」と6カ条の「人力車渡世規則」を、さらに翌年も「馬車規則」(同5年3月、8カ条)、「人力車渡世之者心得規則」(同5年4月20日、7カ条)を制定し、行き会いの場合の左側通行や人力車のしっこい乗車勧誘や悪質な強請りの禁止などの規定を織り込んでいる。その後も、「馬車営業取締条項」(同10年7月2日)、「馬車取締規則」(同13年12月15日、13カ条)、同取締規則改正(同14年12月19日、30カ条)、「人力車取締規則」(同14年12月7日、23カ条)などを公布して、事故防止の規定をさらに強化している。  明治5年10月、司法省は現在の「軽犯罪法」の先駆とも称されている「違式言圭違条例」を制定し、同年11月13日、東京府達をもって府下に施行した。全文54カ条のこの条例は、風俗・衛生・交通・用水など府民の生活全般を規制するもので、交通秩序保持や、交通事故防止などに関するものが多く規定されている。翌6年7月19日には、全90條の「地方違式言圭違条例」が布告された。しかし、この条例は各地の実情によって定められたため、その内容は区々であり、統一性に欠けるうらみがあった。そこで同条例は、明治13年7月17日に公布された旧刑法第四編の違警罪に引き継がれて、廃止された。  明治40年4月24日、法律第45号によって現行刑法が制定されたが、その際、違警罪の大部分は刑法から除外されたので、翌41年9月29日内務省令第16号により「警察犯処罰令」が制定された。この警察犯処罰令違反者の処分は、従来通りの手続法「違警罪即決例」によって裁判(即決処分)され、第二次大戦後まで存続した(昭和22年4月16日法律第60号「裁判所施行法」により廃止)。「警察犯処罰令」は、同23年「軽犯罪法」の制定により廃止となった。 第3 諸車取締規則と標準化    明治期には、ほとんどの輸送手段の行動範囲は地域的にとどまっていたので、各府県の取締規則の内容もまちまちであった。そこで内務省は、陸運関係取締規則制定の参考として、明治19年6月、「街路・人力車・乗合馬車・宿屋取締規則標準」(訓令第7号)を示した。同省はこの標準を示すに当たり、「人民の貧富または開明の程度、市街地と田舎によって寛厳の差があってしかるべき」として、必ずしも全国画一の規則制定は求めてはいない。  各府県は、この標準に沿って取締規則を制定をすすめた。東京府の場合は、「人力車営業取締規則」(明治22年4月26日警察令第19号、53カ条)、「乗合馬車営業取締規則」(同22年10月8日警察令第30号、60カ条)などを制定しているが、その経緯について「是ヨリ先キ、内務省訓示スルニ人力車取締ノ標準ヲ以テシ、漸次、之ニ拠テ取締ノ方法ヲ設定セシム。是レ此規則ヲ定ムル所以ナリ」と『警視庁史稿 巻之一』に記述している(乗合馬車の場合も同様)。  荷車のうち、荷馬車は馬車取締規則の適用を受けていたが、その後、保有台数の増加によって独立した取締規則が必要となってきたので、警視庁では明治24年1月21日、「荷車取締規則」(警察令第1号、25カ条)を制定した。 第7表 東京府の荷車保有台数 (荷牛馬車・荷車計) │ 年 │ 荷 車 │ 年 │ 荷 車 │ │明治15年│ 39,630│明治35年│ 114,669│ │明治20年│ 61,660│明治40年│ 135,976│ │明治25年│ 86,825│明治45年│ 156,381│ │明治30年│ 106,326│大正5年│ 164,693│ 資料:各年度の『日本帝国統計年鑑』「諸車」統計から   抜粋  自転車の場合、自転車製造販売の出願(明治3年4月)に対して、東京府は5カ条の営業心得を付して許可している。また、明治3年8月、大阪府は「自転車行人の妨害不少に付き途上運転を禁ず」の布令を発した。同10年代に入り、各地でも貸自転車が流行し始めた。交通事故防止のため、幾つかの府県では人通りの多い道路や夜間の使用を禁止したのである。  警視庁では、明治31年6月10日に「自転車取締規則」(警視庁令第20号)を制定したが、その翌32年には保有台数5,000台近くに達するなどの急増に対して、僅か7カ条の規定では到底律しきれず、同34年、全17カ条の取締規則に全面改正した。 第4 道路取締規則と左側通行  明治33年6月21日、警視庁は道路の使用、管理、通行区分など63カ条にわたる「道路取締規則」を制定した。諸車牛馬は車馬道の左側を、その設けのない道は中央を通行すること、そして、歩行者はみだりに車馬道を通行しないようになど、交通事故防止には特に留意している。  しかし、なかなかこの規則が守られずに、事故は増大した。今後、交通機関の発達による事故増加は必至であり、極力その防止を図らねばならないとの観点から、明治34年4月18日、警視庁告諭第3号で「人道車馬道の区別ある場合は人道の左側」を、「区別ない場合」はその道の左側を通行するとの「歩行者の左側通行」を明示し、その遵守方を呼びかけた。  当時、警視庁第二部長で道路取締規則の立案者であった松井茂は、「交通の安全に就いて」(「警察協会雑誌」大正13年6月号)の中で次のように述べている。   第一は左側通行のことであるが、従来我が国の如き歩道車道の区別のない場所では、之を欧米に比べると交通状態は寧ろ困難の点が少なくなく、悠々其設備を待つ暇もないので、予は明治34年、時の警視総監安楽兼道氏に警視庁告諭の形式を以て左側通行を行うべく建言したのであるが、総監は其事の重大なるに鑑みて、時の内務大臣末松子爵に稟議せよとのことで、予は親しく同子爵を訪ねて其認諾を得たので、其の年4月18日、総監から一般に対し左の告諭を発したのである。  (前略)尚将来は通行上益々頻繁に赴き交通機関益々複雑と為り随て之より生ずる危険も亦自ら増加すべく、自今更に左の件々を遵守し、常に自他の危害予防を怠らざる様一層注意を加うべし。 一、人道車道の区別ある場所に 在りては各人道の左側を通行 すること。 一、人道車道の区別なき場所に 在りては其左側を通行すること   しかし、この左側通行には抵抗も強かったようで、さらに警視庁告諭第2号(同39年2月11日)を発した。曰く、「交通事故の発生は、車両を運転する者の不注意や規則違背などに帰せられることが多いが、一方、一般公衆に原因があることも少なくはない。当局としては、出来る限りの予防策を講ずるが、一般の規則遵守がなければ如何とすることもできない。是非、自分で習慣化して危険防止を図って欲しい」との内容を述べ、左側通行を冒頭に、電車の飛び乗り飛び降り、車馬道・電車軌道上の通行、幼児の道路遊び、諸車の疾駆など11カ条にわたって規則厳守を呼びかけている。   その後、大正期に入って急増してきた自動車によって、道路交通はさらに大きな展開を迎え、新しい法令によって対応することとなる。 第2節 大正・昭和戦前期 〜自動車の時代〜 第1 各府県乗合自動車営業取締規則  前章で述べたように、わが国への自動車の到来は明治31年(1898)であった。その後暫くは動きが見られなかったが、同36年開催の「第5回内国勧業博覧会」に初出品された自動車に多くの人たちが刺激を受け、各地に乗合自動車営業出願の気運が高まった。  これらの出願に対して、各府県では、それぞれ自動車取締規則を制定して許可することになる。明治36年8月20日、愛知県が「乗合自動車営業取締規則」(県令第61号)を定めたが、これは日本最初の自動車取締規則であった。その後、長野県、京都府、富山県と続き、同45年までに36府県、大正8年の「自動車取締令」施行までに44道府県が、取締規則を制定または改正したのである。 第2 府県規模から全国規模へ (1) 自動車取締令   大正期に入って自動車は急増の傾向を示してきた。それとともに乗合自動車路線や、タクシーや自家用自動車の走行など、他府県にまたがる場合が多くなってきた。これまで、各府県は独自に「自動車取締規則」を制定していたので、規定がまちまちの場合があった。例えば、市街地における自動車の速度制限を挙げてみると、5哩(大阪府)、6哩(岡山県)、7哩(宮城県)、8哩(愛知県、長野県、鹿児島県、石川県、宮崎県、広島県、神奈川県)、時速2里(京都府、秋田県、滋賀県、香川県、新潟県)などである。   このように、府県ごとに異なる規定では、自動車の広域利用を妨げる結果となる。そこで、全国統一の交通法規として、大正8年1月11日に初めて制定されたのが「自動車取締令」(内務省令第1号、37カ条)であった。   自動車取締令の主な内容は、自動車の定義、最高速度、構造装置、車体検査、自動車事業の免許、運転免許、車両番号、交通事故の処置、及び罰則などである。各府県においては、同取締令に基づいて「自動車取締令施行細則」を公布し施行した。 第8表 わが国の自動車保有台数 │ 年 │ 台 数│ 年 │ 台 数│ │明治45年│ 535│大正13年 │ 20,587│ │大正3年│ 791│昭和元年 │ 35,802│ │大正5年│ 1,307│昭和3年 │ 60,533│ │大正7年│ 3,869│昭和5年 │ 88,708│ │大正9年│ 7,912│昭和7年 │100,221│ │大正11年│ 12,091│昭和8年 │104,932│ 資料:『日本長期統計総覧』第2巻、547頁   ところで、その後の自動車保有台数の増加は急速であった。大正7年の3,869台は、同13年に5倍の20,587台に、そして昭和8年には27倍の104,932台に達している。一方、自動車による交通事故件数においても、大正13年の10,589件(死亡者342名)から、10年後の昭和8年には41,490件(死亡者1,233名)に増大した。実に4倍(死亡者も3.6倍)の増加である。   しかしながら、従来の法令ではこの状況に対処しきれないので、昭和8年8月18日、さきの自動車取締令の全面的改正(内務省令第23号、92カ条)が行われた。主な改正点は運転免許制度、自動車の構造整備、運転者の遵守事項その他の諸点で、それぞれ詳細厳格な規定を設け、交通事故防止を図っている。 (2) 道路取締令   大正9年12月16日、内務省は31カ条にわたる同省令第45号「道路取締令」を公布し、翌10年1月1日から施行した。第1条に「道路ヲ通行スル者ハ左側ニ依ルヘシ」、第4条に「牛、馬、諸車等行逢フトキハ互ニ左方ニ避譲スヘシ」と規定した。これが全国的に人も車も左側通行となった最初である。これ以降、戦後の昭和24年11月に、「人は右、車は左」の対面通行が実施されるまで、左側通行は我が国における道路交通の基本となった。   この省令は、「道路法」第49条の規定によって、道路の使用・保全に関する事項を規定することを目的としたものであった。左側通行のほか、人及び牛馬車・諸車の通行区分、牛馬諸車の横断・追い越し、消防車・郵便車・隊伍・葬列などへの避譲義務、踏切及び安全地帯の通行、駐車・貨物の積載量など制限、その他道路上の禁止行為などについて種々規定している。   この「道路取締令」の公布に当たって、大正9年12月22日、内務省は各府県に対して、当分の間は左側通行を習慣づけることに重点をおいて、違反者に対しては指導にとどめるよう通達している。各府県では、交通安全デーなど左側通行を中心とした広報活動を実施している。   この「道路取締令」と「自動車取締令」の両者は、今日の「道路交通法・道路運送法・道路運送車両法」の前身であり、当時の交通秩序維持に関する基本法規であった。 第3節 昭和戦時期  戦時期においては、昭和13年及び19年の「自動車取締令」改定と同17年の「道路標識令」制定が行われたほかは、特記すべき交通関係法令の制改定はなかった。  同12年の日中戦争勃発による応召、徴用のために運転免許所有者が減少し、運転免許取得制限を緩和する必要が生じてきた。この状況に即応するために、同13年10月5日内務省令第35号をもって「自動車取締令」を改正し、就業免許制度及び構造試験の廃止のほか、従前の免許証の有効期間(5年間)を廃して5年ごとに更新することとした。  その後、石油消費規制の強化と代燃化、そして軍による自動車徴用が始まり、一般の自動車はその数や活動が漸減し、ひいては交通事故の件数も低下するに及んだ。  戦局が危うくなった昭和19年5月の改正では、徴兵年齢の引き下げに対応し、免許取得年齢の引き下げを、同20年3月の改正では前照灯、尾灯の義務規定を改定した。  また、昭和18年12月27日、戦時物資の輸送強化措置として、内務省令第78号「道路取締令及自動車取締令並ニ受益者負担ニ関スル内務省令ノ戦時特例ニ関スル件」が制定され、自動車・荷馬車・荷車の乗用制限、積載制限及び構造装置の制限は戦時中適用されないことになった。  道路標識の全国統一化は、大正11年11月9日制定の内務省令第27号「道路警戒標及道路方向標ニ関スル件」を嚆矢とするが、これは現行の道路標識令の警戒標識及び案内標識に相当するものであり、交通のルールを示す規制・指示標識に関しては、昭和17年5月13日内務省令第24号「道路標識令」公布によって定められた(「道路警戒標及道路方向標ニ関スル件」は廃止)。この省令公布の背景として、前年12月の太平洋戦争突入後、政府の強制による金属製品回収で、鉄製道路標識の撤去(信号機を除く)という事態が生じ、交通安全の確保が困難となったことにある。この問題解消のために、かねて内務省においてまとめられていた道路標識全国統一化の草案を、省令として発令したものである。 参 考 文 献 大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史』第1巻、大阪府警察本部、1970. 大須賀和美編『自動車日本発達史 法規資料編』1992. 大須賀和美編『自動車日本発達史 法規資料編(U)』1992. 警視庁編『警視庁統計書』. 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第5巻』吉川弘文館、1985. 佐々木烈『明治の輸入車』日刊自動車新聞社、1994. 自転車産業振興協会編『自転車の一世紀』1973. 自動車工業会編『日本自動車工業史稿 (2)』1967. 大霞会編『内務省史』第2巻、地方財務協会、1971. 千葉県警察史編さん委員会編『千葉県警察史』第1巻、千葉県警察本部、1981. 東京府・警視庁編「警視庁東京府公報」 時崎賢二「道路標識標示・今・昔」『全標協広報』No.15〜20. 豊田武・児玉幸多編『体系日本史叢書24 交通史』山川出版社、1980. 富永誠美『住友海上福祉財団交通安全シリーズ5 交通安全への道』勁草書房、1993. 瓜生俊教編『富山県警察史』上巻、富山県警察本部、1965. 内務省警保局『庁府県警察沿革史其ノ一 警視庁史稿巻之一』1927、復刻版、明治百年史叢書、 第217巻、原書房、1973. 内務省大臣官房文書課編『大日本帝国内務省統計報告』第36回、1922。  復刻版、日本図書センター、1990. 内務省大臣官房文書課編『大日本帝国内務省統計報告』第49回、1937。  復刻版、日本図書センター、1990. 兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史』明治大正編、兵庫県警察本部、1972. 柳田諒三『自動車三十年史』山水社、1941。復刻版、柳田勇彦、2000. 和歌山県警察史編さん委員会編『和歌山県警察史』第2巻、和歌山県警察本部、1991.